1-9. 慣れとは恐ろしいものである
***
鍋にたっぷりの水を入れ、沸騰するまで沸かす。湯がこぽこぽと大きな空泡を立ち上がらせてきたら火から上げて、紅茶の茶葉を淹れて鍋の蓋をし、じっくりと蒸らすのだ。
茶葉を取り除いたものを粗熱が取れるまで冷まし、これをボウルに移し替えて……。
「律くん」
ぽん、と律の頭の上に暖かな手が乗る。
「何でしょうか、類さん」
律は振り返ることなく、『よろず屋茶館』の台所で手元の作業を黙々と進める。
この紅茶の茶葉、いい香りがするしこのまま捨てるにはあまりにも勿体ない。お湯をかけて、出がらしをなんとか飲めないものか。律がそんなことを考えながら自分で取り除いた茶葉を見つめていると、右肩にのしりと青年の腕が乗った。
「よく私だと分かったね。振り返ってもいないのに」
「近づくときに音を立てないなんて特技持ってるの、類さんだけですから。それに類さんのことくらい、声だけで分かります」
慣れとは全く恐ろしいものだ。最初はびっくりした反応を見せていた律も、類に背後から音もたてずに近づかれた挙句、後ろからつつかれたりのしかかられたり髪の毛をわしゃわしゃと撫でられたりしているうちに段々驚かなくなってしまった。
よく類に後ろから軽く驚かされている従業員を見ることも日常茶飯事だし、類のいたずら好きは周知の事実だ。誰にでもやっていることだろうと思うと、いちいち驚くのも意識していると明言しているようでやり辛い。
だから今日も、律は淡々とした行動を心がける。
「今のもっかい言ってくれない?」
類の謎の要望に、律は結局茶葉をまとめて捨てながら首を傾げた。勿体無いけれど、前に茶葉の出がらしを飲もうとしたら目ざとい類に見つかり、ものすごい勢いでしばらく数週間に渡って嘆かれたのだ。後始末が面倒になる。
「はい? 何でしたっけ、ええと足音を立てない特技を持ってるのは類さんくらい……」
「私が言って欲しいのはそっちじゃないなあ」
「他何か言いましたっけ」
他に何か特別なことを言った記憶がない。律が目を丸くして後ろを振り返ると、思ったよりも至近距離で両手を小さく空中に上げている類の姿が目に入った。
「……類さん? まさかまた何か驚かそうとしてたんですか」
「いやー、全く君は鋭いね。気づかれちゃあ仕方ない」
またか。呆れる律の前で、類があっさりと手を下ろす。
「で、なんでしょう本題は」
「ところで律くん、髪伸ばさないの? 君の髪が長かったのもう何年前だっけ」
話が完全に逸れている。いつも通りマイペースな類の調子に、律はぐるりと目を回して見せてから作業に戻った。
「四年前です。髪って一度切ると、楽さに気づいちゃいますよね」
「いや『切ると』っていうより、君の場合不可抗力だったよねあれは……」
「不可抗力といえばまあ、確かにそうですね」
元はと言えば、律の髪は元からこの短さなわけではない。昔は一応『普通に』長かったのだ。
東雲呉服店の現ご当主夫婦、つまり類の両親は親切な人たちだ。従業員の待遇にも手厚く、店に住み込みで働かせてもらっている従業員も何人かいる。かくいう律もその一人だ。
この呉服屋の従業員だったらしい母が、律が物心つく前に亡くなってしまってからというもの、律はありがたくもずっと彼らに面倒を見てもらっている。
かつての律の母のように、住み込みで働く従業員の中には幼子を抱えている者もいるのだが、日中親である従業員が店に出ている時は誰かが交代で面倒を見ている。律の『髪事件』も、そんなある日のことだった。
折り紙を
「あの日は大騒ぎだったねえ。うちの親も従業員も皆慌てふためくし、君の髪を切ってしまった梅子ちゃんは驚いて泣き出すし」
「その節はどうも、お騒がせしました」
律が頬をかいて頭を下げると、類は苦笑して首を振った。
「一番冷静だった人がよく言うよ。極めつけに、髪をなんとか切り揃えた後に『結構これ、いいですね』とか真顔で言い出した時にはどうしようかと思った」
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