2‐12. 不安
「あんたが『律くん』?」
あきれ顔で自分の主とその悪友のやりとりを眺めていた律の頭上から、深みのある声が降りてくる。律は慌てて店主の姿を見上げ、ぺこりと一礼した。
「はい、小早川律と申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」
「なるほどそうか、東雲の呉服屋の」
「左様でございます」
どうやら律が働いている店のことも知っているらしい。ならば話も早いかもしれないと思いながら、律は深く頷く。
「常盤様からお話を少し伺いました。僭越ながら、お手伝いできることがあれば何なりと
「ほう」
深々と頭を下げる律に対し、店主はどこか驚いたような声で一言発したきりふつりと黙り込んだ。
何か、おかしなことでも言ってしまっただろうか。「こんな若輩者の手伝いなどいらない」と言われてしまう可能性だってあるのだ。むしろそちらの確率の方が高い。不安に駆られながら姿勢を正した律は、顎に手をあてて何かを考えこんでいる店主を黙って見上げた。
「……やっぱり、ちょっと不安だなあ」
店主の様子に気を取られていた律は、後ろから聞こえてきた声にびくりと振り返った。
「何が不安なんですか、類さん」
「君が一人で接客側に回ることがだよ」
「さっきまで揚々と接客のコツについてお話しされていたのはどちら様ですか……。それに、もうそれは結論が出た話じゃないですか」
律は今更なにを、と思いながら頬をかいた。
実際、今回の件にあたって常盤氏と類、そして律の間で少し問答があったのは確かである。自分一人で働きますと主張する律と、自分たちも行くといって引かない常盤氏と類。そんな中、律はつくづく思ったものだ。
このお方々は、自分の顔が広い自覚がないのだろうか……。
『華族のお坊ちゃま方と呉服屋の次期後継ぎが天麩羅屋で働いていたらおかしいでしょう。普通にちょっと考えてください』
律がそう凄んで、やっと今日のこの形に収束したのである。
「私がお店を手伝わせていただきながら不審者を見回る。類さんと……今日は渉様ですが、そちらはお客様側として様子見をする、そう決まったじゃないですか。ついでにあまりお店に長居してもご迷惑になってしまうので、折を見て先に帰っていてください」
「いや、君を置いていくわけには」
「帰っていてください」
「ええー……」
『ええー』じゃない。律は類の言葉を待たずにぐるりと振り返り、天麩羅屋の店主の方に再度居直って頭を下げる。
「お時間頂戴してしまって申し訳ございません。恐縮ですが、本日はどうぞよろしくお願いいたします」
また黙りこくられるのだろうか、と一抹の不安が律の心によぎったものの。律が顔を上げると、店主は少し口元を和らげて頷いてくれた。
「いやはや、小さいのにしっかりしていて頼もしい。どうかよろしく頼む」
「勿体ないお言葉、ありがとうございます」
どうやら忌避されていたわけではないらしい。律はほっと胸をなでおろす。
「そうと決まれば、さっそく給仕の方を頼もうか。はつ! はつはそこにいるか?」
声を少し張っただけでも、店長の深みのある声はよく通る。たちまち奥の方で「はーい」という声がくぐもって聞こえ、草履ではたはたとこちらに向かってくる音が現れた。
音の主である若い女性がこちらへ歩いてくる。律は見覚えのあるその顔に、言葉を発するより早く頭を下げていた。先ほど店長を呼んでくれた女性である。
「あら、やっぱりさっきの」
「先ほどはありがとうございました」
「いえいえ」微笑みながら軽くお辞儀をした彼女に、長田店主が声をかける。
「話は知っているだろう、今日のお手伝いの子だ。
「勿論です。さ、こっちへどうぞ」
店主の言葉にすぐさま頷いた女性が、店の奥へ体を半分向けながら律を促す。「はい」と答えながら律が進みかけたその時だった。
「律くん」
後ろからかけられた声に、律はぱっと振り返る。
「なんでしょう、類さん」
立ち止まって律が問いかけると、類は何とも言えない表情で口を開いては閉じ、を数回繰り返した。妙な沈黙が数秒間流れる。
「いや……なんでもない。また後で、何かあったらすぐに言いにおいで」
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