第34話 勝利の快哉
覚醒した瞬間に、消毒薬の臭いが鼻をついた。重い目蓋をこじ開ければ、目に映るのは白っぽい天井。そして視界の端には白いカーテン。病室だ、と認識した瞬間、聴覚にも刺激を感じた。ぱたぱたという足音。ついでカーテンを押し開ける時のレールの音。
「目が覚めましたね。――動かないで。点滴が抜けちゃう」
人の気配に反射的に身じろぎして――言われた通り、腕に針とチューブを固定するテープが貼られているのに気付く。着ているのは、どうやらレストランに行った時のままの薄いシフォンのワンピース。でも、点滴をした腕だけを残して身体には布団が掛けられていて、その重さと温かさが心強い。
「今日はじっとしていてくださいね。明日になれば、気分も大分良くなるでしょうから」
当然のことかもしれないけど、現れたのは女性の看護士だった。柔らかく高い声、そこに宿る気遣い。布団を直して脇に体温計を挟ませる優しい手つき。どれも、涙が出そうなほどにほっとする。助かった、という実感が、じわじわと湧いてきたのだ。
「ここ……どこですか……」
乾いた唇がひび割れるのを感じながら尋ねると、看護士は駅名を冠した病院の名前を答えてくれた。あのレストランに行くために降車した駅でもある。あの後、公立の病院に搬送されたということなのだろうか。では、
「あの……」
詳しい事情を聞き出そうとまた口を開こうとすると、まだ若い看護士の、困ったような笑顔がのぞき込んできた。
「……後で、警察からも話を聞かれることになると思いますので、詳しくはその時に。でも、今は休まないと」
患者である私を刺激しないように、とでも言われているのだろうか。彼女はすまなそうな表情をしながらも、同時に今は決して教えない、と言外に伝えていた。ただ、警察という単語を聞かせてくれたのは、おおよそのことが推測できるように、という配慮だろうと思えた。
「……分かりました」
これ以上は問答したところで無駄だろう、と判断して大人しく頷くと、看護士は目に見えて安堵した表情をした。取り乱した患者を宥める必要がなかったことに、安堵しているかのよう。私を見る目はどうも過剰なほどの同情というか労りがあるような気がして、そこからも事態がどう伝えられたか分かる気がする。
ひと通りの処置を終えたらしく、看護士は立ち上がると、枕元のボタンを示した。
「何かあったら、ナースコール押してください」
「はい。ありがとうございます」
「電気は、点けておいた方が良いですか?」
「いいえ。大丈夫です」
怯えて暗闇に耐えられないのではないか、とでも心配されたらしい。でも、寝たきりの体勢では眩しい方が鬱陶しい。納得してもらうために少し微笑んで伝えると、看護士はおやすみなさい、と言ってカーテンを閉めた。
電気が消えて、扉が閉まる音。そして私は暗闇の中に取り残された。
* * *
休めと言われたことに反して、目を開けて天井を見続ける。白っぽい天井は、灯りを消してもなおうっすらと浮かび上がり、パネルの線の残像が視界いっぱいに不思議な模様を描く。
まだ眠る気はなかったけど、天井がもたらす幻影のようなものも煩わしくて。私は点滴をしていない方の手で顔を覆った。目と鼻と口を掌の陰に隠して――にいと、嗤う。
「……くふっ」
階段とかでぶつけてしまったのだろう、身体を痙攣させるとあちこちが痛んだ。でも、そんなことはどうでも良いくらいの笑いの衝動がこみ上げていた。愉しくて堪らない。助かった、という実感が全身まで染み渡った後は、勝った、という達成感が私を支配していた。
やった。やってやった。これで大川は犯罪者だ。ルビーちゃんの件だけなら学校ももみ消そうとしたかもしれないけど、女の同僚に薬を盛って暴行しようとしたなんて言い訳できない。
私はその間に引っ越してしまおう。住所も電話番号も変えてしまえば、あいつがまたそれを知る手段はない。ついでに転職も考えよう。怖いことがあったから同じ学校にはいられない、でも教師は続けたい――とでも。目に涙を浮かべて訴えれば、他の学校に務めることも難しくないはずだ。平野の時と同じ、被害者の立場を手に入れることができたのだから!
録音だけじゃない、
『同じ先生だから断りづらくて……でも、何だか怖いの。先生が生徒に頼むことじゃないとは思うけど、私、近くに仲の良い友だちとか親戚とかいなくて』
そして私は魔法の言葉を囁いた。貴方だけが頼りなの、と。大川も
『私……余計なことに気付いてしまったかもしれなくて……あの、ルビーちゃんのことがあった日に──』
はっきりした証拠はないけど、ルビーちゃんの件の犯人はあの人のようだ、と。断言はしなかった――できなかった振りをしたけど、彼はしっかりと私の言わんとすることを察してくれた。多分、大川へのライバル心もあったのだろう。相手の感情を把握していれば、これくらいはとても簡単だということだ。
そう……周りの人間をもっとよく見て利用すること。それが今後の課題、だろうか。私の内面がこんなに傍から透けて見えるとは思ってもみなかった。今回の「勝利」も、決してスマートなものではなかった。
だって、思い通りになることはとても素敵なことなんだもの!
顔を掌で覆った陰で、声を殺して嗤うのが止められなかった。ネズミを縊り殺すなんてせせこましい趣味だった。どうせ相手にするなら人間、それも心を操る方がずっと楽しい。妻や母に対する春山父娘のやり方、平野の存在を利用して私を追い詰めた大川を見ていてそう思った。今回は危ないところだったけど、二度とこんな醜態は犯すものか。
そのためにも、葛原君みたいに使える人間は常に見繕っておこう。若い女であることは多分とても有利なことのはず。失敗をきちんと反省して、意識して振る舞えば駒を得るのは難しいことじゃないだろう。
これから先の、楽しい楽しい妄想に耽りながら、私は勝利を噛み締め勝利に酔いしれる。怖いこと危ないこともあったけど、結局私は切り抜けた。春山美波にも大川にも勝った。退けた。次からはもっと上手くやろう。新しい環境で新しい獲物を探そう。それから――
私の思い描く未来図は、でも、唐突に断ち切られた。慌てて掌を顔から外して、歪んだ笑いを消すべく、顔の筋肉を強引に動かす。
扉が開く、音がしたのだ。
看護士が何か用があって戻って来たのかと思った。でも、その割には声を掛けられることも電気が点けられることもない。足音も、さっきの人とは違う。もっと重い――男性のもの。
まさか、あいつが……!?
浮かれきった気分から一転して、私は緊張に身体を強張らせる。
「
でも、侵入者が発した声は恐れていた男のものではなくて、もっと親しみが持てるものだった。寡黙な彼が短く聞いてきた調子は、あいつのように厭らしく語尾を伸ばした鬱陶しい言葉遣いとはまるで違う。
「葛原君」
現れたのが大川でも平野でもなかったからといって、安心することなんてできなかった。
「看護婦さんに部屋番号聞いたんだ。面会は明日って言われたけど、心配だったから」
私の声に拒絶のニュアンスを聞き取ったのだろうか、葛原君は言い訳のように呟くと私のベッドに腰を下ろした。不躾なほどの距離感の近さに戸惑い、灯りを点けようとしないことを疑問に思いながら、それでも私は彼に言うべきことを思い出した。
「――貴方のお陰で助かったわ。ありがとう」
この訪問は決して気分の良いものではないけど。でも、とりあえず彼に助けてもらったのは事実だ。どうせ言葉ひとつで済むのだから、報酬はきちんと支払わなくては。それとも、彼は言葉以上のことを望んでいるのだろうか。何か、私との関係を期待しているとか?
――まあ、それでも良い。今の学校を辞めれば彼との縁も切れる。大川とは違うだろうし、しばらく上手くあしらっていれば良いだろう。
「ううん。――警察にも言ったんだけど取り合ってくれなくてさ。だからずっと店の前で待ってた」
あの店に入る前に送ったメールの宛先は葛原君だった。あの時点では大川の本性なんて知る由もなかったけど、油断できないことだけは分かっていたから。私の言いなりになる存在、それも男の子という点で、彼はとても都合が良かった。あいつに誘いを受けた時の、私の嫌がって怯える顔も見てくれていたことだし。事前にもしものことがあったら、と相談して――あのメールは、念押しだった。といっても、あまりに遅くなるようなら警察に言って、と。その程度の保険のつもりだったのだけど。まさか、番犬よろしくバカ正直に見張り続けてくれるとは思ってもみなかったけど。
それでも私は、葛原君の愚直なほどの想いに救われたのだろう。だから、私は上手くやった、はずだ。
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