第9話 闖入者

 近付いているのかいないのかも分からない平野ひらのの影。馴れ馴れし過ぎる大川おおかわ先生に、不愉快な春山はるやま夫妻とその娘。生物室は私の城で、そんな煩わしい諸々とは無縁のはずだった。でも、もちろんそれは幻想にすぎないのだ。


 春山美波みなみが職員室に現れた、その翌日。放課後、部活動の指導のために生物室に足を運んだ私は、そこがいつもとは違う騒がしさに包まれていることに気付いた。

 消えたマウスのことが頭を過ぎって、扉までの数歩を大股に詰め、引き戸をがらりと開ける――と、見慣れた生物部の部員たちに混ざって、思いもよらぬ少女の姿があった。


「あ、麻野あさの先生。これ、うちの父親からです! この前のお詫びに、って!」


 百貨店の紙袋を掲げて満面の笑みを浮かべていたのは、春山美波だったのだ。周囲を生物部員に囲まれているのは、彼女が持ってきた菓子らしい袋に惹かれているのか。それとも、初々しい新入生の女子が物珍しいのか。女子に比べて男子の方が、より春山美波に近付いているように思われて、それがなぜか不快だった。


「そんな、困るわ……」


 春山美波を中心とした人だかりに歩み寄りながら眉を顰めたのは、でも、教師としては真っ当なことのはずだ。生物室は、完全に飲食禁止という訳ではない。授業中は見逃せないにしても、部活動中は部員が駄菓子やジュースを摘まむこともある。私自身が差し入れと称してちょっとした菓子、夏にはアイスなんかを奢ることだってある。

 でも、全く関係のない、文字通りの部外者が持ってきたものとなると話は別だ。そもそも、入学したばかりの一年生なら自らの所属していない場所、見知らぬ人間ばかりの場所に上がり込むのには気後れするものだろうに。春山美波の笑みには一点の曇りもなく、異様なまでに朗らかだった。まるで、私が断れないように図々しさを演じているのではないか、と邪推してしまうほど。


「え、でも持って来ちゃったしい? 皆さんで食べてくださいよお」


 召しあがる、という尊敬語を使えないのはこの歳の子供なら普通のことなんだろう。実験器具や薬品を置いたりもする机の上に、無造作に菓子の包装紙を広げてしまうのも、年相応のさと思って良いはず。でも、本当にそうだろうか。あのヒステリックな母親に育てられた娘が、この大らかさ。菓子を持たせたのは父親の配慮だと言ったけど、信じても良いのだろうか。


「先生……?」


 と、春山美波ではない、生物部員たちがもの言いたげに――あるいはもの欲しげに私を見つめているのに気付く。春山美波が包装紙を解くと現れたのは、チョコレートの詰め合わせだった。宝石のように整然と並んだトリュフをざっと数えると、部員ひとりにひとつ以上行き渡る数が入っていた。少人数であろう生物部によくこれだけ、と思うし、それだけ高価なものだろうと思うとやはり不審が先に立った。

 でも、ここまでされたものを突き返すことも、難しい。だから私は仕方なく春山美波に顔を向けた。部員たちの期待の目に押されるように、渋々と。


「……春山、さん……? わざわざありがとう。お気遣いいただいてしまって逆に申し訳なかったわね。お父様にはお礼の電話をさせていただかないと」


 私が告げたのは、つまりは賄賂めいたこのチョコレートを受け取るということ。それを聞いて、部員たちはもちろんのこと、春山美波の表情もぱっと輝いた。


「あ、いえ。良いんですよお。父親も気にしてましたもん。許してくれるなら、もう、全然!」


 ああ、やっぱりこの子の言い方は何だか気に障る。チョコレートを贈ったくらいで、あの母親の――父親にとっては妻の――非礼さ不快さが帳消しになる訳でもないだろうに。


「春山さん、ありがとぉ」

「もらっちゃうね」


 生徒たちは、私の内心には気付かない様子で次々とチョコレートに手を伸ばしているけれど。モンスターペアレントめいたクレームが部の活動に対して入っていた、という話は彼ら彼女らにも伝わってしまっている。その謝罪のために訪れた、という春山美波の言い分を、あっさりと信じ込んでしまっているのだ。

 私としては、厄介事が増えただけだというのに! 春山美波の父親に連絡をしなければならないのだ。それも、自宅では拙い。電話をかけて、母親に出られてはまたややこしくなりそうだから。ならば携帯に架ける必要があるか。それにしても緊急連絡先として学校に提出されてるかは分からないし、春山美波に番号を聞くのは業腹だし――


「夕実先生? 家に電話するなら火曜の夜が良いかもです! 私、うちにいるんで。母親より先に出られますしぃ」

「……何ですって?」


 今後のことを考えながら。無邪気にチョコレートを貪る部員たちを腹立たしく眺めていたから、私は春山美波の声にすぐに反応することができなかった。お陰で、一拍を置いて聞き返した声にも表情にも、多少の険が滲んでしまったかもしれない。春山美波は、少し驚いたかのように目を見開いていた。その表情でまた、目のきわにしっかりと描いたアイラインが見て取れる。


「あ、すみません、母親はまだうるさいかもなんで……。私が出て、父に代わる方が良いかなって、思ったんですけど」

「え、ええ。そうね。そうしてもらえると良いかもしれないわね……」


 思った通り、今回のことに母親からの謝意は含まれていなかったらしい。それに、春山美波の申し出はありがたいよりも恩着せがましいとも思えてしまう。私が困るのを分かった上で菓子を押し付けて、更にお礼の電話のことまで先回りして想定しているなんて図々しい。いや、それより何よりも私の神経を逆立てたことがある。


「私の名前、知ってたのね」

「はい、ホームページ見たんで!」


 気安く下の名前で呼ぶな、という不快。担任でも、授業を受け持っている訳でもない教師の名をよく知っていたな、という不審。そのいずれにも無頓着に、春山美波ははきはきと答えた。


「ホームページ……?」


 授業で当てられて、自信のある答えを述べるときのような口調に、しかし私は頬が一層強張るのを感じ

た。鸚鵡返しに呟きながら、目の前に、スマートフォンの光る画面がちらつく気がした。そこに映るのは、つい先日の香奈子とのやり取りだ。平野がSNSから私に辿り着くことをあの子は心配してくれて――そして私は一笑に付したんだった。個人情報をネットに晒すような馬鹿な真似はしないから、と。でも、私自身はしないとしても、他人によって私の名前や所属が公開されていることもあるのを、私は完全に失念していたのだ。


「生物部の麻野夕実ゆみ先生。父親が、どんな人か知りたいって言ったから学校のホームページで見たんです。先生、ちょっと若い時のですよねえ?」


 私よりも若いお前が何を言うんだ。でも、ことごとく私を苛立たせようとしているかのような春山美波の言動を嗜めることはできなかった。それは、教師としては激昂したところを見せられないということだけではなくて。恐ろしい見落としをしていたことに気付いて、その衝撃に私は言葉を失ってしまっていた。

 ホームページ。学校の。新卒で採用されたばかりの頃のことだ。若い女は見栄えが良いとでも思ったのだろう、写真をホームページに使わせて欲しいと校長だったかに言われたことが、確かにあった。それで白衣を着て試験管を持って微笑む、馬鹿馬鹿しい写真を撮られたのだった。大学を出たばかりの小娘に、初めての職場で逆らうことなど考え付きもしなかったのだと思う。悪ふざけをしていた訳でもない、むしろ公的なものだと捉えていたし。――でも、では、私の名前と顔写真は、誰でもアクセスできるところに転がっていたのだ。無防備に、ずっと長いこと。

 平野に、私のフルネームを覚えていて、更にそれを検索する知恵があったとしたら? 私が昔陥れたあいつ、十年も私を恨んでいるらしいあいつが、清潔な服を着て、白い顔で微笑んでいるのを見たら、どう思う?


「夕実先生? どうしたの? 気分、悪い?」


 自分がどんな顔色をしているのか、私には分からなかった。だから葛原くずはら君がいち早く駆け寄ってくれても、答えることはできなかった。口を動かす余裕もなかった、というべきかもしれない。

 ただ、葛原君は春山美波が持ってきたチョコレートに手を出していなかったのは視界の端に何となく見て取れた。単に甘いものが苦手だとかお腹がいっぱいだとかいうことかもしれないけれど――もしかしたら、彼も春山美波とその両親への反発を抱いていて、その表明ということなのかもしれない。そのことだけは、少し嬉しかった。

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