第8話 春山美波

 消えたもう一匹のマウスは結局見つからなかったし、親による子食こぐいとして片付けたから探すこともできなかった。生徒たちは今まで以上に大切に、いっそ腫れ物に触るかのようにマウスの親子に接しているから、当分手を出すことはできないだろう。ストレス発散に一匹摘み出すことも、の行方を探ることも。


 私を除けば最後の目撃者になる葛原くずはら君に話を聞けたら――彼なら多少の不審さには目を瞑ってくれるかもしれないし――、とも思ったけれど、あいにく彼はその日病欠だった。前日には元気そうだったのにまったく使えない。

 コーンスネークのルビーちゃんの次の給餌も当分先だ。我が家の可愛い蛇も同様。ならばこの苛々というかもやもやした思いを発散するなら、自宅で繁殖しているマウスをあの猫の親子に献上するしかないか。それかこの手で握りつぶして小さな心臓が弾ける感触を愉しむか。でも、それで私の気が晴れるかというと、そういう問題じゃ全くない。


 職員室でパソコンに向かいながら、表向きは軽快にキーボードを叩きながら、私はもっぱら生徒やテスト問題や授業の準備以外のことに集中していた。というか、今に限らずこの数日、私はずっと同じことを考えている。

 マウスのケージはしっかりと閉まっていた。子食いが起きるような時期でもなかった。ならば消えたマウスは逃げたのでも食われたのではなく、何者かによって持ち去られたと見るべきだろう。それは誰か――そんなことをする者の心当たりはないけれど、一方で誰にでもできるようにも思える。私は生物室の施錠をしっかりと確認した上で鍵を職員室に返却したけれど、生徒であれ教員であれ、人目を盗んで鍵を持ち出すことはそう難しくないはずだ。部活動などで職員室に生徒が出入りすることは多いし、放課後ともなれば教師の人数もまばらになっていただろうから。

 だから、犯人は学校の中の人間なら誰でもあり得る。でも一方で、わざわざマウスを盗み出す理由が分からない。可愛くてつい、なんていうこともないだろう。そこまで高価な生き物ということもないし、鍵を持ち出す手間がある以上は衝動的に盗んでしまった、とも考えづらい、のだけど。


 私のパソコンの画面に表示されているのは、インターネットのブラウザだった。授業に必要な画像や情報の検索でも、プリント作成のための図表ソフトでもない。教頭辺りに見咎められたら職務怠慢と叱責されかねない――SNSの、ユーザーページだった。それも、私のアカウントでログインした画面のもの。

 アカウント名は、Yumi.A。アイコンに使っている画像は、フリー素材のどこか外国の空の写真。そのアカウントでどんな発言をしたか、どんな画像を投稿したか――勤務中にもかかわらず、確かめたいという思いに駆られて自身の発言を顧みずにはいられなかったのだ。もしかして、私の個人情報を漏らすような投稿をしてしまっているのではないか。平野ひらのかもしれない不審者とやらに、私に近付く手掛かりを与えてしまっているのではないか。そう思ったから。

 でも、結果は香奈子かなこに告げたことと変わらない。私は、年相応、このネット社会相応の注意を十分に払っているはずだった。そもそも四六時中スマートフォンやらタブレットに触れていなければ気が済まない、中毒めいた症状とは無縁でもあるし。行った場所の画像を逐一上げている訳でもない、実況するように行動の全てをSNS上に垂れ流している訳でもない。同音異字の名前が幾らでもあるであろうネットの海で、私のアカウントを麻野夕実という人間と結びつけるのはほぼ不可能のはず、と考えて良いだろう。

 つまり、平野が私の現在の居場所を突き止めるのは不可能ということ。ほんの一瞬だけ、妄想めいた疑いを持ってしまったけど――いなくなってもう一匹の子マウスは、やはり平野以外の犯人によって持ち去られた可能性が高いということ。でも。そいつは一体……?


麻野あさの先生。ネットサーフィンなんて、珍しいですね」


 と、画面を睨みながらの沈思黙考は、お気楽な声によって妨げられた。顔を上げて確かめるまでもない、人のパソコンの画面をのぞき込んで悪びれない呑気な声は、大川おおかわ先生のものだった。


「……ええ。地元で不審者が出たとかで。友人が騒いでたので、気になって」


 素早くブラウザを最小化させながら、動揺も苛立ちも滲ませないようにして答える。そして次の瞬間、あまりにも正直に言ってしまったことに気付いて内心で舌打ちをする。そんなこと、わざわざ口にしなくても良かったのに。


「ああ、先生のお友達だと小さい子のお母さんとかいらっしゃるんでしょうねえ。それは心配ですね」

「ええ、そうなんです」


 子供はおろか、結婚もしてない女に対するものとしては、彼の発言は場合によっては地雷になりかねないものなのだろう。私は別にそんなこと気にしないけど、ただ、大川先生の軽率さに少なからず呆れはする。勤務中のSNSの閲覧をうるさく咎められることがなかったのは助かったんだろうけど。でも、それよりも、明らかにプライベートな情報が含まれていると分かるはずの画面をのぞき込もうとしてくるのは、あまりに不躾で不快だった。

 私の声が尖ったことに、大川先生は例によって気付かないようだった。それどころか、更に身を屈めて私のパソコンを、デスクトップ上に並んだアイコンを眺めている。その程度の情報でさえ、同意なく与えたいものではないというのに。


「それにしても、麻野先生もそういうのなさってるんですね。僕と繋がってくれません?」

「嫌ですよ。……学生の頃の友人ばっかりで。学校とはノリが違うから、恥ずかしいんで」


 ああ、鬱陶しい。気持ち悪い。内心の嫌悪は、もちろん同僚かつ先輩に対しては表してはならないものだ。それでも、愛想の悪い受け答えで、私の本心の片鱗なりと伝わってくれれば良い。それで、大川先生も空気を読むことを覚えてくれれば良い。何といっても国語の教師なのだから。


「――先生。麻野先生」

「あ、麻野先生。生徒が呼んでますよ」


 あまりにも苛立ちに心を囚われていたからだろう。生徒と隣の席の教師と、ふたりからしきりに呼び掛けられているのに、私はしばらく気付くことができなかった。はっと顔を上げれば、女子生徒がひとり、職員室の入り口で私の方に手を振っていた。時計を見れば、昼休みも後半に差し掛かったころ。昼食を終えて、次の教室へ向かう途中、というところなのか、彼女は教科書類と筆記用具を抱えていた。


 手招きされるままに席を立ったものの、私を呼ぶその女子の顔に見覚えはない。肩につくくらいに伸ばした髪はつやつやとして、眉も整えている。肌のきめの細かさは、若さに加えて薄く化粧をしているからだろう。スカートの丈は規定よりもほんの少し短いようだが、大人が見て眉を顰めるほど短いという訳でもない。つまりは枠からはみ出ない程度に身だしなみに気を配った、ごく普通の今時の女子高生だった。顔立ちは、可愛い部類に入るだろうか。

 スカートの生地や夏用ベストの張り――というかこなれていない感じから、入学したばかりの一年生なのだろうか、と思った時だった。その生徒はぺこりと頭を下げると口を開き、私の推論を裏付けた。


「えっと、私、1Eいちイー春山はるやまっていいます。先日は、うちの親がすみませんでしたぁ」

「春山さん……?」


 その名前は、すぐに記憶から掘り出すことができた。でも、だからといって全く嬉しくはない、むしろ不快な思い出を呼び起こす名前だ。あの、突然怒鳴り込んで来た母親と、対照的に穏やかで紳士的だった父親。そう、確かに娘はこの春入学したばかりだったという話だった。

 少し苦笑して首を傾げた春山さんは、両親のどちらに似ているのだろうか。会ったのが一度だけでは春山夫妻の顔などはっきりと覚えてはいないけれど、でも、彼女の口調はヒステリックな母親よりも父親を思い出させる気がした。


「うちの母、うるさいですよね。……ほんと、すみませんでした。そんなつもりじゃなかったのに」

「……ハムスターを飼ってるそうね。だからショックだったんでしょう。別に良いのよ」


 母親の口ぶりからは、もっと感情的で感傷的な子を思い浮かべていたのに、この物分かりの良さ、卒のない謝り方――子供らしくなくて、可愛げがない。だから私の反応も構えたものになってしまった。それを、母親への悪意からだと取ったのだろうか。春山さんは慌てたように顔の前で手を振った。見開いた目のきわにアイラインを引いているのが見えて、やっぱり今時の子だ、という思いを新たにする。


「あ、いえ。びっくりしたけど別にうちの子を取って食われるとかじゃないですし。こういうことをやってるんだって、って話したら勝手に盛り上がっちゃった感じで……えっと、止めたんですけど」

「そうだったの」


 それなら、あの女性の主張は娘を想ったもの、代弁したものではなくて、彼女自身の嫌悪感の表明にすぎなかったのだろうか。春山さんの言葉は――多少、ドライにも聞こえるけど――ごくごく妥当な感想に思えた。でも、自分のせいじゃない、母親が悪いと言っているようにも聞こえる。……そう、思ってしまうのは、母親と接した時の不快を、娘にも重ねてしまっているからだろうか。

 私の言葉の少なさには気付かないように、春山さんは肩を竦めて吐き捨てた。


「うちの親、あんまり仲良くないんで。だからストレス発散みたいになっちゃったんだと思います。父親の方にも言っときますね。ちゃんと抑えとけって」

「お父様は、最終的には場を収めていただいたから……それに、奥さんに付き合ってくれるなんて熱心な方だと思ったんだけど」

「そうでした? 多分うるさく言われて仕方なく、だったと思うんですけど」


 何なんだろう、と。率直に言うならそう思った。

 この生徒の語る両親と、私が実際に見た両親の姿がどうも結びつかない。それに、確かにあの母親には煩わさせられた――それも、正直に言って嘘ではないけれど、授業を受け持っている訳でもない若い教師に対するにしては、あまりにも立ち入ったことを聞かされているように思えてならない。生徒の親の不仲など好き好んで聞きたいものじゃないし、生徒の立場でも言うものではないだろう。まして昼日中、学校の廊下で、なんて。


 結局、何が言いたいの? 何をしに来たの?


 はっきりと、口に出して訊いてしまいそうになった時だった。私と春山さんに、横から声が掛けられた。


美波みなみー? 先、行っちゃうよー?」


 彼女と同じく新しい制服を身に纏った生徒は、クラスメイトなのだろう。馴染みのない教師わたしと対面している友人を、不思議そうに眺めている。


「あ、ごっめーん。もう終わったから。先生せんせ、ほんと、すみませんでしたぁ!」


 さっき良いのよ、と言ったことで彼女の中での謝罪は済んだということなのだろうか。春山さんはまた軽く頭を下げると、さらさらとした髪を翻して友人の方へ駆けて行った。一方的に押しかけてきておいて図々しい。それでも高校生くらいなら、親の所業を謝ろうと思いついただけでもまだマシ、なのだろうか。かえって不躾に思えたとしても?

 でも、とにかく。あの少女も――当然のことながら――制服を着て毎日学校に通っている。校舎にいても見咎められない存在のひとり。ならば、消えたマウスに関しては、彼女も容疑者になり得るということだ。友人に呼ばれていた美波という名前も含めて、彼女の印象は私の胸にはっきりと刻まれた。

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