第7話 子食い
とにかく、私は見事に
でも、それならどうして今さらこんなことを教えられなきゃならないんだろう。
あまりに弄りすぎたからだろう、スマートフォンの挙動が怪しくなって固まってしまうかと思った時。やっと画面がスクロールして、新しいメッセージが表示される。香奈子に似合わない、文字だけの素っ気ないほどの情報。
――不審者っていうのは子供に話しかけるからなんだって。
――何それ。私を探してるってこと?
――ほら、
――でも口頭でしょ? なんで私なの? 浅野とか朝野とかいるでしょ
――それは、みんな言ってるだけだから。注意事項にあったんだけど、自分もこの学校に務めてたんだとか、教え子を探しているとか言って近づこうとする、って。でも平野ならほんとのことなわけじゃん?
スマートフォンの画面が点滅するような勢いで、メッセージが次々と表示されていく。最初の頃の他愛ないやり取りは、押し流されてもう見えない。問い詰めるような私のメッセージと、どこか弁明するような香奈子のそれ。
――何で今さら? もう十年以上たってるじゃん
――それは分からないけど……。
私は幼馴染の香奈子に対してさえ、次第に苛立ちを感じ始めていた。あまりに要領を得なくて、意味のない情報。それでいて私を不快に、不安にさせる。
確かに私の実家は中学校時代に引っ越ししている。父方の祖母の介護の関係で、より身近で世話を焼けるように、と。それでも同じ市内でのことだから、中学高校と一緒に過ごした友人も少なくないのだけど。
もし仮にその不審者とやらが平野なら――昔の私の住所を覚えていて訪ねて行ったということなのか。知らないところでこそこそと嗅ぎまわられていたこと自体も面白くないけど、平野の癖に、私に何をしようとしていたのか。まさか反省して謝りたい、などということもないだろうに。
――でも、あいつが辞めさせられたの、夕実が切っ掛けみたいなもんじゃない? だから、恨んでるんじゃないかって・・
――それもみんなが言ってるの? 私のせいだと思ってるんだ。
――ごめん、違うの。夕実のことが心配で……!
私のせい、というのは別に間違ってはいない。あれは全て私が思い描いたことだから。でも、周囲はそうは思っていない──思わせていないはずだ。何より、みんなだってそれで喜んだだろうに! クラスを抑えつける暴君を放逐できて、みんなせいせいしたはずだった。なのに、今になって私が悪者のように言うなんて。
――もしその不審者が平野だったとして、今の西小に知り合いなんていないでしょ。うちの今の住所だって誰も知らないだろうし。だから大丈夫。心配しないで。
恩知らずだ。そんな、責めるような思いは、言葉でなく文字だけでも伝わってしまったかもしれない。香奈子からの返信に間が空いた隙を突くように、私はもう一文を送信した。
――あんなやつ、どうせ何もできないし。でも、教えてくれてありがとう。
人生とほとんど同じ長さの付き合いの友人との関係を拗らせるのは本意ではないし。多分、香奈子が私を心配してくれたことに嘘はないと思うから。お礼のひと言くらい、送っておくのも必要だろう。
――本当に大丈夫? SNSとか、特定されちゃったりするって聞くじゃん?
ややあって表示された香奈子の心配は、もっともらしいようでやはり過剰で的外れだった。ネットの海に実名を晒すような馬鹿な真似は、私はしない。友人の近況を見るためにアカウントを作っているSNSもあるけど、フルネームや顔写真は使っていない。ふざけた画像を載せて炎上させる、なんて。せいぜい大学生くらいまでの子供がすることだ。
――特定されるようなことはしてないし。あいつがネットに詳しいとも思えないし。大丈夫だって。
そう送ってしばらくすると、香奈子から短くそうだね、変なこと言ってごめんね、という返信があった。反論することはできないけど、多分彼女は納得していないということなのだろう。別に友人と気まずくなりたかった訳でも、言い負かしたかった訳でもないのに。もう動かないスマートフォンの画面を無為に眺めながら、もやもやとした後味の悪い感情だけが私には残された。
* * *
平野のことなんて昔のこと、気にする必要はない――そう思っても、香奈子からの
「あ、夕実先生――」
でも、部活となると話はまた別だ。授業や、担任のクラス以上に密な接触が、嫌でも必要になってしまう。整えた眉を寄せて駆け寄ってきた女子の、用件の見当がついていたことだけが救いだっただろうか。
「あの、先生……。マウスの赤ちゃんの数が足りないんだけど……。鍵もちゃんと掛けてたし、昨日帰る前はみんないたのに……」
「ああ……
女の子たちの小さな悲鳴が、やっと私の気分を上向けてくれた。つり上がりそうになる口元が、ちゃんと悲しげに下を向くように気をつけながら、私は授業の時のように生徒たちに説明した。
生物部員たちは、もちろん毎日飼育している動物たちを観察して記録をつけている。マウスの数が減ったのに気付かないことなどありえなかったから、何を言うべきかも考えてあったのだ。
「栄養が足りない時――は、この場合は当てはまらないでしょうけど。でも、ストレスが原因となることもあるわね。環境の変化とか、人間の臭いをつけてしまった時とか」
そう言うと――予想通り――女子部員たちは顔色を青褪めさせた。心当たりが、あるのだろう。
「昨日、掃除のときに触っちゃったかも……」
「可愛かったから、つい。――それが、いけなかったとか?」
ああ、思った通りだ。動物の赤ちゃんを目の前にして、構わないでいられる女の子なんているものか。たとえ刺激してはいけないと分かっていたとしても。これくらいなら、と言い訳をしながらついつい触ってしまうものだ。――だから、この子たちは勝手に罪悪感を抱いてくれる。私の罪を負ってくれる。
「貴方たちのせいじゃないのよ。そういうこともあるの。これから気をつければ大丈夫」
ほら、平野のやり方はやっぱり下手糞だった。子供の心を操るのに暴言も暴力も必要ない。それどころか、気遣うような優しい声と表情だけでも十分なのだ。私が何を言おうと、この子たちは自分を責める。ううん、教師に叱られないだけ、より強い罪悪感に苦しむことになる。それを慰めるふりで、私は彼女たちの苦しみを間近に堪能することができる。あのマウスの赤ちゃん、あの無惨な最期は一時のストレス発散というだけじゃない。この先の長い愉しみの布石でもあったのだ。
「あの……夕実先生」
自分の手腕に悦に入っていたから、私は女子たちの表情に不審の色も混じっていたのに最初、気付かなかった。
「子食いって……一度に何匹も……あの、食べちゃうもんなんですか?」
「……え?」
「
最近の生徒は考えることをしないですぐに答えを求める、と。年配の教師が嘆くのをしばしば聞かされる。まさにそんな風に、答えを待って私を見つめてくるこの子たちは、一体何を言っているのだろう。
昨日私が持ち出したのは一匹だけだ。
それは、つまり誰かがもう一匹を持ち出したということ、なのだろうか。私が退室した後、こっそりと。誰にも気付かせず、痕跡も残さずに。――でも、誰が?
「そうね」
その疑問は、生徒に――誰にも――言うことはできなかった。だから、私は動揺を隠して取り繕うことしかできない。
「驚くくらい……ぺろりと食べちゃうこともあるのよ。血や内臓も、舐めとってしまうし。まるで初めからいなかったみたいに」
それを聞いた女の子たちはまた悲鳴を上げたけれど、今度はそれを音楽のように愉しむことはできなかった。
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