第6話 過去の影

 自宅のマンションに着くと私は簡単な夕食を済ませ、学校から持ち帰った仕事を片付けた。その後リフレッシュとして入浴してからが、やっと自由時間だ。バッグにしまい込んでいたスマートフォンを取り出してみる。すると、メッセージを受信している旨の通知が表示されていた。チャットアプリを立ち上げると、まず目に飛び込んできたのはウサギのキャラクターがこちらに抱き着くように両手を広げて「ひさしぶり!」と叫んでいるスタンプだった。ついで、メッセージが一行。


 ――やっほー。乃枝瑠のえるちゃん元気ー?


 メッセージの方も、前後を絵文字でデコレーションされていて、きらきらしい。その幼いともいえるような派手さと文面から、差出人のアイコンを見るまでもなく誰からのものかはすぐに分かった。小学校からの幼馴染の香奈子かなこからのものだ。


 ちなみに乃枝瑠というのは私が最初に教えた生徒のひとりだ。教師になった、と身近な友人などに言うと、必ず聞かれる質問のひとつが最近の子供の名前は本当に――マスコミで言われるように――常識外れのものがあるのか、ということ。それへの答えとして教えたら香奈子は大いに面白がって、ことあるごとに挨拶代わりにその名前を出してくる。

 乃枝瑠ちゃんにとっては面白くないことになるかもしれないが、本人が知るはずのないところでのことなので許してもらおう。私も、香奈子から聞いた一般企業の愚痴や非常識、非効率を、教師同士の飲みの席なんかで話の種にすることもあるし。


 ――もう大学生だよー就活頑張るって年賀状もらった。今年は心愛ここあちゃんが入ってきて笑っちゃった。ほんとにいるんだね。


 最後に驚いた顔の絵文字を入れて送信すると、すぐに返信があった。


 ――世も末だね!


 またスタンプで、何かのマンガの一コマらしい白目を剥いた女の子の画像が送られてきた。私には元のネタは分からないけど、生徒たちならもっと面白く思うのだろうか。


 ――ほんとにね。香奈子は? 新入社員はどう?


 くすりと笑ってから、スマートフォンの画面をタッチして新しくメッセージを送る。ちょうど人事異動や新人の受け入れがあって、愚痴が溜まった頃なのだろうと思ったから。


 ――それがさー、すごい子が来ちゃったの! 聞いてよ~~


 メッセージの語尾には「怒り」を現わす顔文字があった。香奈子らしいというか、語調に似合わず可愛い感じのものに、思わず和んでしまう。この子のこの憎めない感じ、昔から変わらない。

 それから私たちはお互いの近況を、愚痴を交えて語り合った。ちょうど私も新鮮なネタがあったことだし。絵に描いたような「モンスターペアレント」の逸話は香奈子を大いに喜ばせたようだった。もちろん、彼女もあの日のあの教室にいた訳だから、マウスだの生餌だのという話は伏せたけれど。

 ひとしきり話も尽きて、メッセージも間が空きがちになって、そろそろお休みを言おうか、と思っていた頃だった。香奈子が――とても珍しいことに――絵文字も顔文字もないメッセージを送ってきた。


 ――あのね、お姉ちゃんとこの子が西小の2年なんだけど。


 西小、とはどこにでもありそうな名前だが、香奈子が言う以上は、私たちの地元の市の名前を上に冠している小学校のはずだろう。香奈子もお姉さんも地元に残っているから、つまりは親子で同じ学校に通っているということになる。


 ――最近不審者が出るってメールが回ってるんだって。で、うちらの同期にも子持ちの子はいるし……。


 そして当然のように、私たちの母校でもある。つまりは例の事件が起きたのも西小の教室でのことだった。――今日は、どうもあのことを思い出す機会が多い気がする。香奈子が素っ気ない文章だけのメッセージを続けて送ってくるのも何か嫌な感じがして、スマートフォンを握る私の手は汗で滑る。それを部屋着で拭いつつ、私は青光りする画面を、そこに表示されるメッセージを見つめた。


 ――だから、私、独身だけど聞いたんだけど。その不審者の見た目とか年とか、平野ひらのじゃないか、ってみんな言ってるの。


 平野。さほど珍しくもない名前だ。大学時代にも、今までの教え子の中にもいた。でも、西小の話が出た後なら。でも、私と香奈子が共通して知っている「平野」と言ったら。昔見たプリントや通知表、そこには何て書いてあったか。


 ……まさか、あいつ?


 フラッシュバックのようにあの日の光景が瞼の裏に閃いた。教壇の上のケージ、ネズミたち。黒板の濃い緑。その前に立つ男。怒鳴る口が大きく空いて、赤黒い舌が見えていた。

 平野……そう、「平野先生」、だった。氾濫する記憶に目眩のようなものを感じた私がその名前とあの教師の顔を結びつけるのに、たっぷり数秒かかってしまった。


 ――平野ってあの平野? なんで分かったの?


 スマートフォンの画面に表示された文字列を見て初めて、私は自分の指がメッセージを綴って送信していたことに気付いた。無意識にそうしてしまうほど、香奈子が知らせてきたニュースは衝撃的だった。それにまただ、という思いもある。今日はもう何度、あの男のことを思い出しただろう。まるでまとわりつくように、あの男の影が私の行く先々にちらついている。

 実際に視界の端に何かが過ぎった気がして、私は思わず顔を上げた。黒く小さく素早い――ネズミが、駆け抜けたような。もちろんぐるりと見渡してみたところで、何もいなかったけど。見慣れた私の部屋、蛇のケージとマウスのケージ。蛇は大人しくとぐろを巻いてじっとしているし、マウスも、かさかさと寝藁が動く微かな音こそするけれど、私は逃がすような甘い管理はしていない。だから、気のせいだ。平野とかいう教師のことを思い出して過敏になっているだけ――否、過敏になる理由さえない。


 あの男は、私よりも弱くて愚かだ。ほんの小学生の女の子にさえ後れを取った。なのにどうして恐れる必要があるだろう。


* * *


 、私は目覚めた。人を見下し弄ぶ愉しみに。平野が教えてくれた。あの男も、生徒たちを怯えさせて抑えつけることが楽しかったのだろう。でなければあんなショーを思いつくはずがない。

 でも、同時にあの男のやり方はどうしようもなく拙劣だった。あまりに乱暴で、単純で――だから、私はもっとスマートにやってやろうと思ったのだ。どれだけ人に気付かれずにできるか、という、テストのようなものでもあった。


 私はまず、理由も言わずに学校に行くのを止めた。親が怒鳴っても泣いて懇願しても、首を振って黙りこくるだけで、時に自分自身も涙を浮かべて。親はもちろん友人や学校に心当たりを尋ねたけれど、実のある答えは得られなかっただろう。平野が理由を正直に話すはずもないし、友人たちも誰も口を割らなかった。

 ネズミをあんな形で死なせてしまったのは自分たちの怠慢が原因だ、と平野に刷り込まれていたから。親や他の教師に言いつけでもしたら、きっと命を弄ぶ結果になったことを叱られる、と。罪悪感や羞恥心で縛られていたのだ。もちろん、平野に何をされるか言われるか分からない、という恐怖心もあっただろうけど。

 親を十分に不安にさせたところで、私はやっと登校を再開した。ただし、教室にではなく保健室に。ずっと姿を見せないことで、友人たちも不安にさせる狙いがあった。ネズミを殺したは私だから、彼らは私に罪を押し付けて責める恐れもあったから。だから、先に弱ったところを見せるのが良いだろうと思ったのだ。

 保健室の先生は中年の女性で、「問題のある」生徒にも根気強く向き合ってくれる人だった。あるいは、そのように信じられている人だった。だから、親や友人たちとの会話を避けて、彼らの不安げな目が刺さるのを心地よく感じながら、私は少しずつ保健の先生と打ち解けて――もちろん、そう見えるように演技して――いった。


 そしてある日、保健の先生との雑談が途切れた合間に、私はぶちまけた。あの日のこと、私がしたこと、させられたこと。いかにも押し殺した感情が堰を切って溢れ出たかのように。夜、ベッドの中で練習した嗚咽に似た声も堂に入ったものだったろう。演技に熱が入るうちに本当に涙も出てきて、説得力もいや増したはず。

 私の話を聞きながら、保健の先生はずっと背中を撫でていてくれた。私は平野を責めたり恨んだりするようなことは口にしないで、ただ私が悪かったから、可哀想なこと、取り返しのつかないことをしてしまった、と繰り返したのだ。平野にそう思い込まされている、この子は悪くないのに自分を責めてしまっていると大人の目には見えるように。そんな風に聞こえるであろう言い回しも、ずっと考えてきたのだ。

 校長先生に話さなくちゃ。あなたは叱られたりしないから安心して。

 やがて私が泣き止んで――その振りをして――肩を震わせていると保健の先生はそう言った。彼女の目に、平野への嫌悪が浮かんでいるのを読み取って、私は内心でほくそ笑んだ。表面はでも、と呟いて涙を浮かべて、庇護欲をそそる怯えた子供の演技を続けながら。

 事態が動き出すと、私は次に友人たちにを許した。言っちゃってごめんね、でも、どうしても抱えきれなかったの。保健の先生のただならぬ様子に、真っ先に様子を見に来た香奈子に縋りながら、私はまた泣き真似をした。日々の食事を減らしていた甲斐あって、その頃には私はすっかり窶れていたから、友人たちはみんな同情してくれた。――そして、憤ってくれた。


夕実ゆみは悪くないよ。あいつがやらせたんじゃん!』

『もう黙ってられない、みんなで他の先生に言おう!』


 多分みんな、自分たちは悪くないと思いたかったのだ。罪悪感を押し付ける先を探していて、そこへ、私という弱り切った被害者が現れた。それが、都合が良かったのだ。友達を案じているという口実のもと、心置きなく平野を糾弾することができるようになった。私は、切っ掛けを与えてあげたのだ。

 それから保護者会が何度かあって、私の親も出席していた。父も母も憤って、きっと張り切って学校側を責め立ててくれたに違いない。彼らもまた、娘の変化に寄り添えなかった後ろめたさを転嫁する先を求めていたのだろうから。


 大人の世界で何があったか、詳しくは知らない。ただ、結果として平野は学年の途中でいなくなった。全校集会では病気のため、と説明されたけど、子供といえども誰も信じてはいなかっただろう。そんな穏当な理由だったら、担任のクラスに挨拶もなく突然学校に来なくなることなどあるものか。

 私のクラスは、しばらくの間自習や、馴染みのない先生による授業が続いた。そして新しく担任になったのは、白い髪もかなり薄くなったおじいちゃん先生だった。もしかしたら定年が間近な人で急な都合がつきやすかったのかもしれないし、若い乱暴な教師にあたった後で、生徒には経験豊かな人をつけなければならないとでも思われたのかもしれない。そのおじいちゃん先生については大した思い出も残っていないから、多分普通程度に良い先生だったんだろう。

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