第5話 本性

 生徒がみんな帰ってしまうと、生物室は心地良い沈黙に包まれる。わずかに物音があるとしたら、教室の前方、授業中は生徒たちの視線を一身に浴びている時計が秒針を刻む音くらい。それからアクアリウムの泡の音、マウスが寝藁を整えるかさかさという音。

 私にとってはごく馴染みの、落ち着く静けさのはずだった。明日の授業に使うプリントをめくる音、薬品の在庫を点検するガラス瓶の触れ合う音と合わせれば音楽と呼んでも良いくらい。いつもなら、この静寂を楽しむことができるはずなのに。


 なのになぜか――むしゃくしゃする。


 今日はあまりにも色々なことが重なったからだろうか。モンスターペアレントとの対決じみた面談に、同僚の教員は鬱陶しいほど馴れ馴れしくて。やっと自分の牙城に戻れたかと思えば、奇妙に暑苦しい圧の生徒が尻尾を振って待っている。誰も私の内心なんか知らないで、自分の都合ばっかりで……!


 ぱき。


 と、力の加減を間違えたのか、シャープペンシルの芯が折れて飛んだ。仕事の能率が落ちていることを自覚して、溜息を吐きつつ顔を上げると、ちょうど視線の先にはマウスのケージがあった。今日は蛇の生餌の運命を逃れた赤ちゃんが一匹、短い手足で陶器の餌入れを乗り越えようともがいている。


「…………」


 女子たちがまだ残っていたら、悲鳴のような黄色い声で可愛い可愛いと叫んでいたに違いない。私の口元にも思わず微笑みが浮かぶ。一日中、計算して人目を窺って作っていたようなものではなくて、心からの自然な微笑みが。

 もう、今日の仕事は終わりにしよう。少なくとも、学校ここでは。後は家に持ち帰ってやれば良い。

 心の中でそう決めると、私は広げていたプリント類や筆記用具をバッグにしまった。職員室だと年配の教員の話に相槌を打つのが煩わしいから、戻らないと決めていたのだ。


 薄手のジャケットも羽織って、もう帰るだけの姿になって、マウスのケージの前に歩み寄る。さっきの赤ちゃんは好奇心旺盛な個体なのか、兄弟たちや母親とは離れたところを探索しているようだった。


「元気が良いわね……」


 しんとした生物室に、私の呟きが落ちた――その残響も消えないうちに、マウスのケージの蓋を開ける。プラスチックの本体の上部を覆う、金網状の部分を。

 ケージに突っ込んだ私の手は、マウスたちにしてみれば天変地異のようにも思えるだろう。どこからともなく現れて彼らの満ち足りた世界を乱す、巨大な何か。こんな小さな生き物相手であっても、生殺与奪の全てを握っているという感覚は気持ち良いものだ。

 さっきの子供が、巨大な侵入者に驚いてかケージの隅に逃げようとしているのを捕らえて、摘み上げる。母マウスの抗議のようなチイという鳴き声は無視して。そしてケージの蓋をまたしっかりと閉めて、赤ちゃんマウスを掌に載せてじっくりと眺めてみる。さすが一匹だけで動き回っていただけあって、怯えているという感じはなく、落ちてしまうのではないかと心配になるくらいに素早く躊躇なく、私の手首から腕の方へ進もうとしている。――これでは元気過ぎるかもしれない。

 だから私は赤ちゃんマウスの前脚と後ろ脚を一本ずつ捻り潰した。細い細い骨が砕けて磨り潰される感覚、小さな小さな声帯が精一杯張り上げる悲鳴は絶頂しそうなほどぞくぞくする。痛みのあまりにか、掌の上で失禁されたのは興醒めだったけど。


 手を石鹸で念入りに洗って、アルコール消毒をしてから、私は弱々しく震えている赤ちゃんマウスをビニール袋に放り込んだ。多少の粗相をしても大丈夫なように、それから窒息はしない程度に加減して口を縛って。

 バッグを肩に掛ければ、瀕死の子ネズミを中に忍ばせているなんて誰にも気付かれないだろう。


* * *


 職場の高校の駅から自宅の最寄りの駅までは、ダイヤや乗り換えのタイミングにもよるけど三十分弱ほど。普段は混雑を避けて各駅停車を使うけれど、今日はマウスのも考えて急行に乗り換えた。それでも世間のサラリーマンの帰宅ラッシュよりはだいぶ早い時間だ。マウスが圧し潰されてしまわないように満員電車の中で踏ん張る必要がないのは良かった。


 その甲斐あってか、自宅にほど近い公園に着いた時、子ネズミはまだ生きていたし陽も――だいぶ翳ってはいたど――それなりの明るさを保っていた。

 公園を棲み処にしている猫の親子は、私の姿を認めるとすぐに出てきてくれた。少々薄汚れているものの、気位の高さを窺わせる三毛の母猫と、子猫が二匹。父親に似たのか遺伝子のいたずらか、毛並みはそれぞれ違って、白黒のぶちとキジトラだ。まだ寒い頃から時々をしていた甲斐あって、喉を鳴らしながら私の脚にふわふわとした毛皮を擦りつけてくれる。きっとノミを持っているだろうから、あとで念入りに身体を洗わなければならないけれど。でも、きらきらと期待に輝く目に見上げられるのがくすぐったいようで嬉しくて、少し頭を撫でてやる。


「こっちよ」


 物陰に手招きすると、親子してとことことついて来てくれる。これも今までの信頼関係の賜物だ。公園に出る猫に餌をやっている人は他にも何人かいるようだけど、私と同じものを与えている人はいないだろうし。


「さあ、召し上がれ」


 子供がたむろする遊具のある一角からは遠く、散歩の人もあまり来ないような木の陰で、私は手足の折れた仔マウスをビニール袋から出してやった。初めて感じる硬くざらざらした地面の感触に驚いたのだろうか、びくりと怯えたような仕草を見せた。そして次の瞬間――


 ぶちの子猫の前脚が、マウスに襲い掛かっていた。


 あとは、きょうだい同士で争うかのように。弱々しくも必死にもがくマウスは、猫の狩猟本能をよくくすぐるのだろう。あるいは噛みつき、あるいは爪に引っ掛けて宙に飛ばして。子猫たちは動く生きた玩具に夢中になって遊んでいた。マウスの白い毛並みはすぐに赤く汚れ、私が折り潰した時以上に手足も歪に曲がっていく。やがて子猫たちは食欲も刺激されたのか、マウスの上半身と下半身を咥えて引っ張り合う。幼いとはいえ肉食獣の牙が小さなマウスに食い込み、四肢に力を入れて踏ん張る力がぼろぼろの身体を引き裂いていく。


 それを見て、私の口元は自然と微笑んでいた。

 ああ、やっぱり可愛い。強いものが弱いものを嬲って食い物にする姿はいつ見ても心躍る。


 あの幼い日、教壇から見下ろした同級生の顔――恐怖に引き攣って、逃げ出したくて堪らないといった表情。でも動くことも止めてと懇願することもできない、追い詰められた者の表情。あの日、あの表情を引き出したのは例の教師とも呼べないような男で、私の作品ではなかったけど、それでも私を魅了するには十分だった。それに、溺れさせられたネズミたちの慌てよう、あのパニックといったら!

 相手の心を、恐怖を支配すること。弱い命を弄んで握り潰すこと。あの頃の私は初潮を迎えていたかどうかも怪しくて、性的なことはどこか遠く、何か汚いものとして忌避していたように思う。でも、感覚は確かに快感だった。身体ではなく、心で感じるからこそのこの上ない絶頂。

 あの日から、私はその感覚に目覚めて囚われてしまったのだ。


* * *


 マウスを粗方食い尽くすと、子猫たちは満足そうに毛繕いを始めた。白かったマウスの毛皮も血と土埃に塗れてゴミのようになっている。それでも目を近づけて見れば動物の死体だと分かってしまうだろうから、私はそれをパンプスの爪先で植込みの陰に押し込んだ。猫が獲ったのだと思われるだろうから特に問題にはならないかもしれないが、小動物を殺して弄ぶ変質者がいる、などという話になっては困る。私の職場の高校こそ駅を幾つも隔てているが、この辺りにも小学校や中学校はあるのだ。意識の高い保護者やボランティアの見回りが始まったりして、この密かな愉しみが邪魔されるのはご免だ。


「楽しかった? また持ってくるからね」


 口の周りについた血を取ろうと懸命に前脚でこすっているキジトラの子猫の頬を、指先でぐりぐりと撫でる。軽い身体を押し付けるようにして甘えてくる姿は、まだ少し血に汚れてはいても可愛らしくて口元が緩む。


『小動物から犬猫に、それから人間に……なんて、よく言うじゃないですか』


 先ほど会った春山はるやま氏の言葉を思い出すと、それも苦笑に変わってしまったけれど。確かに私はマウスなら命を弄ぶのになんの躊躇もない。自宅にも蛇を飼っていて、部活動では滅多に生餌を呑み込む様を見られない分、自宅の蛇はできるだけ生きたマウスをあげられるように繁殖管理もしているし、公園の猫に覚えられるくらい今日のような餌付けを行ってもいる。春山氏の妻、あのうるさい中年女なんかはきっと残酷だと喚きたてるのかもしれない。

 でも、この衝動はあらゆる命に対して無差別に向くようなものではない。私は弱いもの劣ったものを握りつぶすのが、それを間近で見るのが好きなだけだ。だからマウスは獲物だけど、猫に対しては仲間意識のようなものさえある。私と同じ、捕食者、襲い掛かるもの。同胞を、どうして傷つけようなんて考えるだろう。


 それに、人間に対してだって。獣だって獲物の大きさは選ぶだろうに、同じ種族の、つまいりは同じ大きさの生き物をどうにかしようと考えるのはおかしいのではないだろうか。人間には獣と違って知性があるのに。感情も、他の生き物よりはるかに複雑で、だからこそ面白いのに。

 葛原くずはら伊織いおり君――彼の、私を見る目の熱さを思い出す。去年、彼が入学したばかりの時、新生活に馴染めないようだった寂しそうな表情も。女性的に思われがちな名前や、くずクズを掛けた言葉遊びで揶揄われて、顔を赤くしていたところも。彼は口下手な方で、とっさに言い返すということが難しい質なのだと、見ていてすぐ分かった。だから私は助け舟を出すことにしてあげたのだ。


『伊織、って。昔の官職に由来する名前でしょう。古風で、由緒ある良い名前だと思うけど』


 そう、彼を揶揄っていた男子生徒数人に対して話しかけると、若い女とはいえ教師に声を掛けられたことに怯えたように、曖昧な笑いを浮かべて去って行った。それから、助けが入るとは思っていなかったのだろう、ぽかんとしていた葛原君に私は微笑みかけて、生物室に誘ったのだ。多分こういう子は体育系の部活には入りたがらないだろうと思ったから。

 事実、彼は部で飼育している生物に相好を崩し、新入生相手の実験教室に興味深げに見入っていた。その後も強く勧誘するまでもなく彼は入部を決めて――そして、誰よりも熱心な部員として今に至っている。

 生物部にのめり込むことで、一層クラスからは孤立していることには気付いているのかいないのか。

 生徒の心を支配するのには、声を荒げる必要などないのだ。ただ、彼らが認められないと思っているところを認めてあげれば良い。未熟な自尊心をうまくくすぐってやれば良い。私は大方の生徒からは親しまれつつ軽んじられている。そんな若い教師に尻尾を振るかのような姿は、周囲からも嘲笑というか失笑に似た反応で見られているけれど、私のいないところでは彼への揶揄いは変わっていないのは知っているけれど、でも、それが何だというのだろう。どうせあと二年弱の高校生活、彼に理解者を得たという錯覚を与えてあげても良いじゃないか。そして私だって。人ひとりの心を簡単に操ることができると証明できるのは愉しくて堪らない。犬を躾けるように餌で釣って罰で脅せば従うのは当たり前。そうではなくて、操られていると気付かせないまま操るのこそ人間のやり方というものだ。その点でも、あの教師は三流だった。


 そう、だから――私は現状に満足している。身の程を弁えて獲物を選んでいる。わざわざこれ以上を望んだりはしない。だから、口うるさい連中もあしらって上手く立ち回らなくては。もちろん、たまにはストレス発散も必要だけど。

 公園を出る時、私は遊んでいる子供たちに手を振ることさえした。感じの良い爽やかな女性を演じるために。職場でも自宅の周辺でも、私がそれ以外の印象を持たれることはあってはならないのだ。

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