第3話 モンスターペアレント

「うちでは、ハムスターを飼っているんです」

「そうですか」


 その女性は、私がソファに掛けて自己紹介をするなり――というか、し終えるのをほとんど待たずに切り出した。ベージュを基調とした明るいトーンでまとめられた応接室、そこに似合いのライトグレイのジャケットを着ている。きちんとセットされた髪にマスカラもアイラインも黒々しいメイク。臨戦態勢と言ったところだろうか。傍らには、夫と思しきスーツ姿の男性までいる。まだ明るい時間だというのに、仕事を早退でもしたのだろうか。ならば大した気合の入れようだ。


「赤ちゃんの時に買ってきて、懐いて、手に乗るくらいなんです。だから、生物部でネズミを飼っていると聞いて、最初は入部しようと思っていたのに――」


 女性の言葉の主語は、彼女の子供なのだろう。男子か女子か、学年さえ言ってくれていないけれど。この口ぶりからすると、この春入学してきた新入生、なのだろうか。確かに四月の新入生勧誘の時期、マウスの赤ちゃんは大いに客寄せになってくれた。先ほどルビーちゃんの食事になった個体と同腹の兄弟たちだ。もちろん、事実を伏せていては後々問題になるだろうから、蛇の生餌にすることがあるということもちゃんと説明していたのだけど。


「抵抗を覚えるという子もいますね。でも、部員は納得してくれていますから」

「生物室を使うのは生物部員だけじゃないでしょう! 授業のたびに見守っている子が、ある日いなくなっていたら、どうです!? それに気付いてしまった時の気持ちが分からないんですか!?」


 女性の悲鳴のような声を宥めるように、かちゃりと静かな音を立ててティーカップとソーサーが置かれた。それから砂糖のポットにスプーンも。カップから立ち上る香りは安物のティーバッグに相応のものだけど、それでも砂糖を紅茶に入れてかき混ぜるだけの間、女性を黙らせる効果はあったようだ。

 たまたま手すきだったのだろう、お茶を運んできた男性教員は、ちらりと同情の眼差しを向けてからお盆を抱えて退室していった。同じく目線で頷いてから――私は反論を開始する。私の前に置かれたカップには手も付けないまま。


「お言葉ですが」


 ソファに足を揃えて座って、膝の上で品良く重ねた私の指。その先が、さっきからむずむずしている。あの日のあの感触を思い出しているのだ。あの、溺死していくネズミたちの最期の足掻き。閉じ込められたケージからどうにか逃げ出そうと空しく四肢をばたつかせていた、あの死の振動を。


「ネズミ算、という言葉はご存知ですよね」


 記憶が蘇るのは指先だけではなく、視覚にもだった。私は、目の前の保護者に重なるようにあの暴君の顔を見ている。傲慢な、けれど臆病な自意識を保つために、もっともらしい理屈で取り繕っている。自分より弱いと見て取った者に対して上っ面のそれを振りかざして、力を見せつけようと威嚇している。ああ、何て浅はかで愚かな。私の唇がゆるりと弧を描いたのはまぎれもなく嘲笑によってだと、この女にバレてはしまわないだろうか。まあいい。そうなったらそうなった時のこと。今は言いたいことを言ってしまおう。


「マウスの繁殖も部の活動の一環です。ご承知の通り、哺乳類の赤ちゃんは可愛いものですし、生き物を育てる経験、その責任は生徒にとっても糧になるものだと思っています。でも、だからといって殖えるに任せていたらどうなるか――想像できますよね?」


 仮にも生徒の保護者の理解力を試すかのような、傲慢な物言いになっているのは承知している。

 でも、だって私は実際この女を嘲っているのだから仕方ない。この女は惨状を知らないのだから。折り重なって潰れたネズミの赤ちゃんたちの死体。下の方は黒ずんでミイラのようになっていた。生きているのも狭いケージの中でひしめき合って、後から知ったホロコーストの地獄絵図さながらだった。もちろん、その前に対策は幾らでもとれるけど、それがどのようなものか、この女は少しでも想像しているのだろうか。


「生徒に引き取ってもらうにも限界がありますよね。だって一度に何匹も、年に何回も出産できるんですから。学校で飼い続けるにしても、オスとメスを厳密に区別してケージを分けなければならない訳ですが、生まれたてのマウスの性別を一〇〇%見分けるのは難しいです。一匹でも異性が混ざっていれば水の泡。たとえうまくいったとしても、マウスがストレスを感じない環境を整えるにはどれだけの場所が必要か――」


 立て板に水とばかりに滔々と噛むこともなく述べることができたのは、教頭など学校関係者に、これまでも散々説明してきたからだ。横に座っている教頭の顔を視界の端で窺えば、案の定というか苦虫を噛み潰したような顔をしている。この女と同じような難癖をつけて、そしてやはり同じように反論されてきたのを思い出しているのだろう。


「で、でも! だからって蛇の餌なんてひどすぎます!」

「では、どうすれば良いのでしょうか」


 ああ、やっぱり聞き飽きたことしか言わない。つまらない、頭の悪い女。心の中で嗤いながら、私は首を傾げて見せた。


「マウスとはいえ数が増えれば餌や寝藁にもお金がかかります。言うまでもないことですけど、部の予算は学校から割り当てられるものです。顧問が言うのも何ですが、はっきりとした成績を残せる訳でもない生物部が、マウスのために多額の予算を持って行ったら他の部の生徒や保護者さんはどう思うでしょうか? もちろん、世話をする生徒の時間だって今以上に奪うことになるんですよ? それとも逃がしてしまいますか? 猫やカラスの餌になると知っていて? 外来種による生態系破壊がこんなに危惧されているというのに?」


 私の問いのどれひとつに対してさえ、女性が答えを持たないことを知った上で、私はあえてまくしたてた。そして相手が顔を――理由が怒りか屈辱かは知らないけど――赤くして黙り込んだところで、にこりと笑う。


「それとも――私に殺処分しろとでも仰るんでしょうか」


 指先に、またあの死のざわめきが蘇っていた。ざわざわとした苦しみ、もがき、悲鳴の振動。それらが私の心をも波立たせてどこか好戦的な気分にさせる。


「さつしょぶん……?」


 私の言っていることが分からなかったのか――やはり愚かなことだと思うけど――、女性は茫洋と繰り返し、でも、次第に意味を咀嚼したのか、頬をチークによらず紅潮させてまたヒステリックに怒鳴った。


「そんな、残酷なこと……っ!」


 軽く腰を浮かせての金切り声に、その大げさな身振りに、カップとソーサーがかちゃかちゃと音を立てる。年甲斐のない慌てように、私は相手を刺激する危険を知りながら嗤うのを止められない。


「はい、残酷です。でも、私は教師ですし大人ですから、生徒たちの希望に責任を取らなければならないし、責任を取ることを教えなければならないと思っています。赤ちゃんマウスは見たい、でも全てを引き取ることはできない。だからといって――殺す、なんて可哀想すぎる。現状は、生徒たちと話し合って決めた折衷案なんです」


 親マウスのつがいも、普段はケージを分けて飼育する。繁殖は年に2回まで。生まれた子供は蛇の生餌にしてそれ以上は殖やさない。親マウスが事故や病気で死んだり弱った時だけは子供世代から次の番を選ぶか新しい番を購入する。一度、ルールとして取り決めると、生徒たちはこちらが驚くほど律儀に守ってくれている。


「でも蛇の餌なんて……」

「先生は生徒を信じているのですね。こういうと反発されるかもしれませんが――その、残酷なことを好む子供もいるかもしれないでしょう」


 女性がいまだ不満げに呟くのに対して、夫とおぼしき男性の方はまだしも冷静だった。やっと話の通じそうな相手……それに、ちょうど都合の良い指摘でもあって、私の口元は思わず緩む。


「命を弄んでいるのではないか、と仰りたいんですね」

「はい。小動物から犬猫に、それから人間に……なんて、よく言うじゃないですか」


 やや気障っぽく首を傾げた男性の口元が、あるかないかの微笑みを浮かべているように見えたのは気のせいだろうか。もしかしたら彼も、ヒステリックな妻にうんざりしているのでは、まともな話し相手が欲しいのでは、なんて思ってしまって。私はまたあからさまに笑いすぎないよう堪えるのに苦労した。


「楽しむだなんてとんでもない。みんな、マウスも蛇も可愛がっているんですよ。ただ、それぞれの健康な――健全な飼育のためにはどうするのが最善か、きちんと考えてもらっているだけです」

「殖えすぎると困るから、ですね……でも、蛇の餌は生餌じゃなくても良いのでは?」

「はい。だから普段は冷凍のマウスを使っています。生物室の冷凍庫はマウスで一杯ですよ。給餌の直前に湯煎で温めてあげるんです」


 どのような絵を想像したのだろうか、女性と、それから視界の端で教頭が盛大に顔を顰めるのが見えた。何て愉快な表情だろう。彼らの渋面には気付かない振りで、私はあくまでも男性に向けて、そして真摯に見えるように訴えかけた。


「でも、生き物を飼うなら自然に近い姿を観察することも教育だと思うんです。マウスの数の調節だけではなくて。一見残酷に見えるでしょうが、私たちだって色々な形で沢山の命をいただいて生きている、そのことにも思いを馳せて欲しいんです」

「…………」

「それに、必ずしも一方的なショーにはなりません。マウスの中にも気性の荒い個体はいます。窮鼠猫を噛む、と言いますでしょう。この場合は猫じゃなくて蛇ですけど。生餌に怪我をさせられることもあり得ますし、反撃されたショックで拒食になることもあります。そうならないようにしっかりと見極め見守ること――これもまた、生き物を飼う責任を教えるということではないでしょうか」


 せいぜい生命について真摯に考えている教育者に見えるように、私は熱弁を振るった。そもそもルビーちゃんを飼い始める時に散々言ったことでもある。あの時は机上の論に過ぎなかったけれど、今の私には実績がある。ごく真面目に部活動に飼育に取り組んでくれている生徒たちが。生物室を出る時の、葛原君の必死な顔が脳裏をよぎる。保護者に詰め寄られても生徒には庇ってもらえる教師――これは、美味しい立ち位置だと思う。


「――なるほど。よく考えて指導しておられるんですね」


 口元だけは微笑みながら、でも目は真剣に睨みあうように見つめ合うことしばし。男性は、ふ、と表情を緩めた。そして私から視線を外し、傍らの――いつの間にか傍観者にさせられていた――配偶者の方をちらりと見やる。


「余計な心配でお騒がせしたようです。大変申し訳ありませんでした。貴重なお時間をいただいて、感謝いたします」

「いいえ。こちらこそ分かっていただいて嬉しいですわ」


 酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせている女性には言葉を挟む隙を与えず、私と男性は微笑んで会釈を交わした。そして話は終わったと教頭にも示すために立ち上がる。


「そういえば名乗りもしませんで失礼しました。春山はるやまと言います。娘がこの春入学して、お世話になっています」

「春山さん……すみません、私は教えてはいないようです」


 つまりはその少女は何の接点もないのに生物部を――あるいはルビーちゃんを目の敵にして両親を差し向けたということらしい。それとも母親が勝手にヒートアップしたのだろうか。実際に授業を受け持つことになったら身構えてしまいそうだ、と思う。もちろん今のこの場でそんな感情を匂わせる訳にはいかないから、私はまたにこりと微笑みを作って見せた。


「蛇が苦手なのは残念ですけど、夏休みにはハイキングみたいなこともしますので。野鳥や植物観察ということで……良ければお嬢さんにも参加していただければイメージも変わると思うんですけど」

「ええ、是非。よろしくお願いします」


 春山氏が手を差し出す仕草があまりに自然だったので、私も何も考えることなく握手に応じていた。会社員ではなく、教師という立場ではあまりすることのない挨拶、触れる機会の少ない成人男性の大きな硬い手。この人が相手ならば、それほど嫌な感じはしないけれど。でも、とにかく慣れないことではある。でも、これでやっとこの不愉快で煩わしい面談も終わるのだ。

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