第2話 生物部
生物部
マウスの黒いつぶらな瞳に映っているのは、まぎれもない諦めだった。親指ほどの大きさしかない小さな脳でも、
マウスの身体は、もう半分以上が蛇の顎の中に呑まれている。長い尻尾も、可愛い仕草で耳を掻いたりしていた後足も。関節を外して大きく開いた蛇の顎に捉えられて、じわじわと沈むように死へと引き寄せられている。狭いケージの中、最初は巨大な捕食者から逃げようと右往左往していたけれど、しなやかな蛇の身体で締め付けられて骨が砕けると、自分の運命を悟ったらしい。胸の前で小さな手を合わせているのは、蛇の口内にきっちりと嵌ってしまってそのポーズしか取れないのだろうけど。でも、お祈りのようにも見えて、写真に収めたら何かのメッセージ性があるとでも評されるかもしれない。
「すごーい……!」
「食べてる食べてる」
生物部の月に一度の大イベント、生体の給餌に黄色い声――悲鳴というよりは嬌声のような――を上げるのは、意外にというかやはりというか、女子の方が多かった。部で繁殖させて、目も開かない頃から甲斐甲斐しく世話をしてきたマウスだけど、いずれ生餌にすることを承知している女子たちは驚くほど冷徹で割り切っていて、私が禁じるまでもなく赤ちゃんマウスに名前をつけたりするようなことはなかった。
それどころか、名前をつけるというなら、蛇――コーンスネークのルビーちゃんの方だ。アカダイショウとも呼ばれる通り、ピンクがかった身体に赤の模様の彩りが美しい。中でもこのアルビノの個体は模様の黒い縁取りがなく、赤やピンクが通常の個体よりも明るく発色している。この高校に採用されて、生物部を受け持つことになって。この鮮やかさを気に入ってこの子の購入を決めたのも、宝石の名前をつけたのも、当時在籍していた女の子だった。女子生徒たちにとっては、マウスと同じかそれ以上に、ルビーちゃんは可愛いペットなのだろう。
ルビーちゃんの食事風景に盛り上がる女子を、男子はむしろ遠巻きに怖々と眺めているようだ。
「女子、毎回テンション上がって怖え」
「お前ら、今回は生き延びて良かったなー」
もちろん怖いのは女子の無邪気な残酷さであって、蛇の捕食が怖いとは誰も――もしかしたら心の中で思っていたとしても――口にしないし態度に見せてもいないけれど。せっせとマウスのケージの掃除をしながら、来月の餌になるかもしれない個体にも、大した感慨もなく気楽に話しかけているのがその証拠だ。
「…………」
ただひとりを除いては。
「
「
「葛原、カンニングするなよなー」
蛇やマウスに気を取られていた生徒たちも、私の声に気付いて顔を上げた。囃すような声にも私は笑みを絶やさないし、彼――
「テスト問題じゃないし、学年も違うわ。――それに、葛原君はそんなことしないもの。でしょ?」
「うん、もちろん。――分かりました、夕実先生」
急に声を掛けられて驚いたように目を瞠ったのも束の間のこと、葛原君は年相応の無邪気な笑顔をちらりと見せて頷いてくれた。若いとはいえ教師の立場にある者から信頼を示されること――それはきっと、思春期の少年の感性に自負心のようなものを抱かせることができるだろう。それに、彼は多分生物室(ここ)にいたくないのだ。呑まれていくマウスを直視することができず、でも友人たちの手前あからさまに怯んだ姿を見せることもできない。なら、立ち去る口実を与えてあげるのが良いのだろう。
「クズ原、だっせぇの!」
「あいつ
それでも、彼が後ろ手で扉を閉めた後を、男子部員たちの笑い声が追いかけたけど。子供は本当によく見ているものだ。お互いの見栄や虚勢、侮って嘲っても良い相手かどうか。大人しく内気な彼は、まさにそのカテゴリーに当てはまってしまっている。
「そんなこと言わないの。葛原君、優しいのよ」
「……夕実せんせーのがよっぽど強そうだよな」
一応は窘める言葉をかけてみたけれど、言葉を発した男子生徒たちは軽く肩を竦めてにやにやとするだけだった。言葉遣いは丁寧に、声を荒げることはせず、生徒たちに流行りの雑誌やドラマやアーティストにも理解を示して。そうやって作り上げた気さくなお姉さん、のポジションもそれほど役に立つものではないということだ。親しみは、侮りのごく近くにあるものだから多分仕方ない。麻野先生、ではなく夕実先生、だなんて。下の名前で呼ばれてしまうのもその証拠だ。強そう、だなんて評も、決して誉め言葉とは言えないだろう。でも、それで良い。
私は
* * *
「先生……」
ルビーちゃんが胴体をマウスの形に膨らませて満足そうにとぐろを巻いて、部員たちがマウスのケージ、メダカやカエルや金魚の水槽の掃除を終えた頃になってやっと、葛原君は帰ってきた。
「お帰りなさい、ありがとう」
「遅かったじゃねーか」
「葛原、サボりかよー」
職員室までの往復にしては時間が掛かったと、私も気付いてはいるけど指摘はしない。ルビーちゃんの食事が終わるまで生物室に戻りたくない、と彼が考えても無理のないことだから。彼だって掃除に参加しなかった後ろめたさは十分あるだろうし、この後実験の片付けなんかはきちんとやってくれるはず。それならこれくらいは可愛い嘘というものだ。
「あの、夕実先生……」
だからそれ以上触れるつもりはなかったのに――葛原君は、プリントを手渡してくれた後も、もの言いたげに私の顔を窺っていた。言いたいことがあるなら、なぜ言わないのだろう。さざ波のように胸に起きた苛立ちは顔に出さないように努めて、私は彼を促した。
「なあに? 何かあったの?」
私は優しくて気さくな麻野先生、で通ってるのだ。口下手な生徒にも辛抱強く付き合ってあげなければそんな評判は得られない。それを裏切るようなこともあってはならない。穏やかな笑顔を保った甲斐あって、ということなのか。葛原君は気まずそうに目を逸らしながらもぼそぼそと教えてくれた。
「教頭先生が、先生を呼べって……職員室まで。あの、部のことで、保護者の人? が来てるって……」
葛原君が目を向けた先には、食事を終えてご満悦といった表情の――もちろん、人間が勝手にそう思うだけだろうけど――ルビーちゃんがいた。育てたマウスを生餌にすることについて、一部の教師や保護者から残酷だという声があることは知っていたけど、とうとう学校にまで押しかけてきた人がいたということなのだろうか。
「なるほどね」
所属する部活動への批判的な目は、生徒たちも感じている。今日は何の実験をしようかとまったりと駄弁っていた寛いだ雰囲気は凍って、私に不安げな目が注がれる。不安の度合いは全く違うし、この子たちの目に恐怖の色こそ宿っていないけれど――あの日のことを思い出す。
「先生がいないんじゃ実験はできないから……動物の観察とか、自習みたいにしていてもらえるかな? 遅くなりそうだったら、最後の人は施錠を忘れないで」
私の微笑みはいつもと変わらないはずだったけれど、生徒たちの不安を払拭できたかどうかは分からなかった。若い女教師と、教頭や保護者と。どちらの方が強いのか、生徒たちにも分かってしまっているのだろうか。やはり私では頼りないと思われているのかもしれない。
「あ、あの……先生っ」
生物室を後にしようとした私の背に、震える声が掛けられた。誰のものかは知りつつ振り向くと、案の定というか葛原君が日に焼けていない白い頬を紅潮させていた。
「あっ、と……あの、俺、この部が好きだから……だから、ルビーちゃんのこととかで何か言う奴がいたら、俺も言ってやりますから。だから……」
お前何熱くなってんだよ、と。呆れたような呟きが男子生徒の間から聞こえた。全くだ。生きたマウスを呑み込む蛇を正視できなくて顔を青ざめさせているのに、この熱弁ぶり。思わず口元を綻ばせそうになってしまうけれど――彼の自尊心を尊重して、堪える。他の部員たちも、部の存在意義に関わることとあってか、今は彼を嘲るというより照れ隠しに笑ってみせているような空気だった。
「そう、ありがとう」
にこり、と目を合わせて笑ってあげると、葛原君は一層顔を赤くして黙り込んでしまった。本当に分かりやすくて――可愛らしい。
「でも、急にそんな――廃部とかの話にはならないと思うから大丈夫。そうならないように、ちゃんと話してくるから」
私の言葉にどれほどの信憑性があるかは分からないけれど、生徒にこれ以上食い下がることはできないだろう。駄目押しとばかりにもう一度微笑みをあげてから、今度こそ私は職員室へと足を急がせた。そこでは、件の教頭が私を待っている。
「部活動中のところ、すみませんでしたね、
「いえ、とんでもないです」
言葉とは裏腹に、教頭が悪いと思っていないのは明らかだった。薄くなった頭髪に銀縁の眼鏡をかけた痩せぎすの初老の男――「教頭先生」と言って多くの人が思い浮かべる冴えないというか中間管理職的なイメージそのまま、なのかもしれない。
でも、この男が浮かべているすまなそうな苦笑も信じてはいけないのだ。私が部費でルビーちゃんの購入を申請した時に、更にマウスも同時に購入して生餌にする計画を提出した時に、大げさに可哀想がって最後まで反対したのがこの男なのだから。やれ残酷だ野、やれ生徒の心に悪影響が、だの。生物部の活動を満喫している生徒がいるのも気に入らなしい。だから、保護者からのクレームに屈して私を呼び出したというよりは、気に入らない小娘をやり込める好機に喜々として飛びついたに違いないのだろうと思ってしまう。
「応接室で待ってもらっていますので」
「はい。――ところで、誰の親御さんなんですか? 部員の子からは何も聞いてなくて」
部外者からのクレームではないのか、という含みは正確に伝わったようで、教頭は軽く眉を顰めて顔の皺を深くした。父親よりもずっと歳上の年配だというのに、その不服げな表情はどこか子供っぽく見えた。周囲から教師、聖職者として敬われるからだとしたら、私も気をつけなければならない。
「
生物室で飼っている動物なんだから部員以外の生徒だって見るでしょう。蛇なんてね、普通は気味が悪いもんですよ」
「そうですか」
個性を重んじるとは、校訓で掲げていることだというのに。教育者、若人の導き手と言っても本音はこんなに偏見に塗れているのか。
失笑を隠すために、私は意味もなく窓の外を眺めた。五月の空は、青く高い。ガラスの向こうでは、運動部の歓声が響いているのだろう。
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