窮鼠の牙

悠井すみれ

第1話 全ての始まり

 記憶の中で教壇に立つ男は、教師にしては若かったと思う。二十代半ばか三十代に入ったか、それくらい。それでも小学生にとっては絶対的な「大人」で、支配者であることに変わりはない。それも、そいつはとんだ暴君だった。


「下を向くな! ちゃんと見るんだ!」


 の命令に、子供は馬鹿正直に顔を上げることしかできない。あの時のクラスには、何人の生徒がいただろうか。とにかく、多分だいたい三十対の目が見つめるのは、教卓に置かれた。普段なら何かしらの教材や理科の実験道具、これから配られるプリントや提出したノートなんかがあるはずのそこにあったのは――


 薄黒い毛皮が無数と思えるほど蠢く、ケージ。誰だったかがどこかからもらってきたハツカネズミをクラスで飼っていた、その、末路だ。最初は皆で交代で大事に世話をしていたはずが、次第に水を替えるのもケージの掃除も適当に間遠になっていった。子ネズミが生まれて、共食いしたり踏みつぶされる個体が出たりし始めると、みんな段々見ようとさえしなくなっていった。たまにおざなりに飼料を投げ込むだけで。白いはずの毛皮が汚れているのは、糞尿か血や臓物か、それとも死体が干からびたのか腐っているのか。とにかく臭いも近づきたいものではなかったし。


 飽きっぽくて無責任な子供に生き物を任せたらどうなるかという、見本のような。そいつは、きっとこうなるのを待ち望んでいたに違いない。


「良いか、これはお前らのせいだ! お前らのせいでこうなるんだからな!」


 教卓の上にあるのはネズミのケージだけではない。水がいっぱいに張られた水槽も置かれている。一時はケージから溢れた子ネズミをそちらにも入れていたのだったか。みんな逃げるか死ぬかしてしまったけれど。――水槽は、ちょうどケージがすっぽり収まるくらいの大きさだった。


 これから何が起きるかを予感しながら、何人かはもう涙を流し啜り泣きながら、でも、誰もそいつに逆らおうとしなかった。子供にとって教師は絶対の存在だから、だけではない。大きな身体よりも大きな声よりも、そいつの理屈に縛られてみんな動けなくなってしまっていた。ネズミの世話を怠って無駄に増やして無駄に死なせた、その罪悪感を誰もが心に抱えていた。


 誰もが――そう、多分私以外は。


 顔も全身も強張らせて、蠢くネズミどもを見つめるクラスメイトたちを他所に、私はひどく醒めた目でその茶番を眺めていた。当時のクラスの担任だったそいつは、卑劣なサディストに過ぎなかった。そうなる前に幾らでも生徒を教え諭す機会はあっただろうし、それが教師の役目というものだろう。なのにその役目は果たさないで、もう遅すぎるという時になって始めて行動に移したのだ。それも生徒の罪悪感を弄びいたぶり、心に傷を抉りつける最低の形で。


 ネズミを死なせたのは私たちかもしれない。でもお前も同罪だ。そんなところで偉そうにできる資格なんてない。


 小学五年だったか六年だったか、その頃の私の語彙ではそんな明確な思考にはなっていなかっただろうけれど。とにかく、そのようなことを考えて私はそいつを睨んでいた。


麻野あさの! なんだ、その目は!」


 生徒の心の機微など無頓着なはずだったのに――そいつは、敏感に反逆の芽を感じ取ったらしかった。教師として、というか大人としてあるまじきことに私に指を突きつけると、反抗への罰を命じてきた。


「前に出ろ。お前がやるんだ」


 周囲の、特に仲良くしていた女子からの声にならない悲鳴を聞きながら、私は自席から立ち上がると教壇へと向かった。確か後ろの方の席だったと思う。教壇までの短い道のりの間、級友の眼差しが突き刺さってきたのを覚えている。その眼差しが意味するのは、恐怖なのか哀れみなのか。余計なことをしたからだ、というような――呆れのような感情も混ざっていたかもしれない。

 でも、そんな感情は全て、暴君になす術もなく圧し潰されて疑問も抱かなかった奴らの諦めからくるものに過ぎない。ケージの中で蠢いて無為に鳴いているネズミと同じ。こいつらは弱くて愚かで――私はこいつらとは、違う。


 そしてそいつとも、違う。


「さっさとやれ!」


 黒板の前にふんぞり返るそいつは、ケージのすぐ傍まで来ても顔色を変えない私に怯んだようだった。もちろん隠そうとしてだろう、一層の怒鳴り声を張り上げたのだけど。怯えた犬が吠えるみたいでみっともなかった。級友の方に目を向けてみると、そんな負け惜しみのような恫喝にもいちいちびくりと震えていておかしいほど。ここで笑うほど私の方も馬鹿ではなかったけれど。


 間近に見てみると、ケージはやはり汚れきっていた。金属の柵が錆びているのは、ネズミの糞尿によるものだろうか。そう思うと直接触るのが躊躇われて、私は服の裾で指先を拭いた。できるだけ素肌には触れないように、でもひっくり返したりしたら大惨事だから、しっかりと固定しなければならなくて――そのギリギリを慎重に見極めて、私はケージを摘まんだ。急な振動にネズミたちが騒めいて、私の手にもその慌てようが伝わる。触ってもいないのに、まるで肌の上をネズミが駆け回っているかのような。

 寝藁の代わりに敷いた、細かく裂いた新聞紙――ネズミたちが食いちぎって踏みにじって更に細かくなったそれがはらはらと舞って教室の床を汚す。私の服にも舞い散るのが目に入って、泣きたいような気分になった。もしかしたら、おろしたての服だったのかもしれない。


 とにかく、小学生の背丈、手の長さでは少々苦しい高さまでネズミのケージを持ち上げる。水を張った水槽の、その真上へと。背後には、絶対ににやにやと笑っているであろう担任ぼうくんの目。前には、息を詰めた級友たちの怯えた目。前後から突き刺さる視線をたっぷりと意識させられながら、私はゆっくりと腕を下ろしていった。


「――――っ!」


 声にならない悲鳴は、級友たちの口から漏れたもの。それに、水につけられたネズミたちの口からも。人の耳には聞こえない周波の断末魔が、私の手には伝わってきていた。突然の苦しみに暴れもがく小さな命の群れ。小さな肺を満たしていく水、小さな口から零れる最後の空気の泡。水面を目指そうとして押し合って、逆に底へと追いやられて。次第に弱まっていく動き。死んで沈んで、静まりかえっていく水の中。他のみんなは見るだけだっただろうけど、私には肌で感じられた。

 その時の感覚は、言葉で言い表すのは難しい。


 ああ、何て、何て。この感じは――


 でも、その時の私がその感覚をはっきりと掴むことはできなかった。背後から耳に刺さった怒鳴り声に、掴みかけた感覚はどこかへ霧散してしまったから。


「お前たちがちゃんと世話しなかったからこうなったんだぞ! 無責任だ! 生き物を飼うということは最後まで面倒を見るってことだ! ちゃんとやったのは麻野だけだな!」


 ああ、うるさい。軽く眉を顰めたのは、級友たちからはネズミを溺死させた罪悪感に見えただろうか。実際にはいかにも得意げなの声が気に障っただけなんだけど。それにこの言い草――仲間割れを誘っている。直接的に手を下したのは私だと、血も涙もないヤツだと、皆に思わせようとしているみたい。皆、それほどバカじゃないと思うけど。

 溺れたネズミたちが暴れて、汚れや糞尿が溶けだした水が私にも飛沫になってかかっていた。服に描かれた歪な水玉模様にすごく嫌な、というか悲しい気分になったのは、やっぱり新しい服かお気に入りの服だったから、なのだろうか。水は思いのほか広範囲に跳ねていて、上履きに油性マジックで書かれた名前が少し滲んでいたのも覚えている。


 担任とかいう肩書のサディストはまだ何か得意げに喚いていたようだったけど、それも不意に悲鳴じみた怒声に変わった。堪えられなくなった誰かが盛大に吐いたのだ。

 バケツや雑巾を取りに立ち上がる子、保健の先生を呼ばなきゃ、と言う声。あいつは止めていたような。――とにかく、椅子と机が立てるがたがたという音や悲鳴や泣き声はネズミの悲惨な死を押し流したようだった。皆、動画の再生ボタンを押したみたいに急に動き出して。教壇から混乱を見下ろしている私のことなんかその時は忘れていたかのように。


 そう、私はひとり、見下ろしていた。極めて冷静に、全てを観察していた。教室は、それこそ水に浸けられたネズミのケージのように騒然としていたけれど、私だけはその外にいた。


* * *


 の名前も覚えていないし、何年生の時のことだったかも定かではない。でも、その時確かに始まったのだ。私の――全てが。

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