第4話 優しい先生

 春山はるやま夫妻や教頭と二、三の挨拶を交わすと、私は応接室を後にした。手には半ば紅茶が残ったままのティーカップのセットをお盆に乗せて。放課後の校舎に生徒の影は少なく、閑散とした雰囲気さえある。怪談好きの生徒なら、ネットに蔓延しているような都市伝説を思い出して早足になるのだろうか。私には、この静かさは好ましいものでしかないけど。誰も見ていないから、苦笑と嘲笑の入り混じった顔を見られなくても良い。「優しい麻野あさの先生」にはきっと相応しくない顔だろうから。でも――あの春山女史の顔といったら! 勢い込んでクレームをつけに来たのに、伴った夫に後ろから撃たれるような構図になって。なんて……なんて愚かしい。


 ああ、でも嗤うのもほどほどにしないと。まずはこのティーカップを片付けて、生物部の様子を見に戻る。部員たちがどれだけ残っているのかいないのか、何かしら活動内容を考えて指導しなければならないかどうか。授業の準備もしなくてはいけないし、あまりぐずぐずしていては――


「災難でしたね、麻野先生」


 自分の世界に没頭していた最中、不意に背後から声を掛けられて。私は思わず肩を小さく跳ねさせた。


「え、ええ……」


 言いながら、どきどきと高鳴る心臓を必死に宥める。焦るようなことじゃない、声は後ろから掛けられた。だから私の厭な表情は見られていないはず。いや、見られていたとしてもどうだって言うんだ。モンスターペアレントじみた強烈な保護者から解放された後、ほっとして顔が緩むくらいあり得ることだ。何より、私は声の主を知っている。だから私は――昏い悦びなど微塵もないはずの、「優しい麻野先生」の――笑顔を作ると振り向いた。


「ええ、ありがとうございます、大川おおかわ先生」


 すると果たしてそこにいたのは、声から予想した通りの人物だった。中肉中背、ごく平凡な顔におっとりとした笑みを浮かべた――国語の大川先生。独身男性らしく、アイロン掛けが甘い、けれど清潔感はあるワイシャツをいつも着ている。先ほど応接室にお茶を運んでくれた人でもある。だから、春山女史の剣幕を見て、私を心配してくれたのかもしれない。


「片付け、やりますよ。女性に任せるなんて時代錯誤だし」

「いえいえ、出していただいたんですから。片付けくらいやらないと」


 比較的歳が近いこともあって、職場の、というよりは学生時代の先輩に近い感覚で話しかけてくれる人だ。お茶を出すついでに同情めいた目を投げていったのも、その関係がさせたこと。もしかしたら気にして待っていてくれたのだろうか。だとしたら、少しおせっかいな気もするけれど。


「いやあ、麻野先生にそんなことさせられませんって」

「そんな……」

「麻野先生、強いからなあ。後が怖いじゃないですか」


 この人は、悪い人ではない。生物部の活動にも好意的だった。でもどこか苦手というか好意を持つ気になれないのは、こういうところ――馴れ馴れしく下手に出るという、器用で面倒な接し方をしてくるからだ。この態度の裏側にあるものを、感じない訳ではないけれど。でも、面倒なことに変わりはない。


「じゃあ、手伝っていただけますか? 分業にしましょう」


 仕方なく――だって先輩の申し出を断るなんてできやしない――妥協案を提示してみせると、大川先生はひどく嬉しそうに破顔した。こういう、空気が読めないところが苦手なのに。どうやら伝わってはいないようだった。

 職員室と並びの給湯室で、飲み残しのお茶を流してカップを洗う。大川先生にはカップやソーサーを拭いて戸棚に戻す役を受け持ってもらった。作業の合間に雑談をすることになったのは煩わしいけれど、きっと彼の狙い通りになってしまったのだろう。


「保護者からの呼び出しって、怖くありませんでした? 強烈な人だったし……」

「それは、まあ。でも最後は分かっていただけたようでしたし」

「こう、信念を感じますよねえ。普通、クレームがついたら止めようってなりそうじゃないですか。あえて生徒に生と死に向き合わせるって、なかなかできないですよ」

「そんな……」


 ああ、面倒くさい。狭い空間にふたりでいると息が詰まりそう。こんなに持ち上げて私が喜ぶとでも思っているのだろうか。強さを褒められて、若い女が喜ぶとでも? 生物部員の男子にも言われたけれど、あれは女教師に対する青臭い反発みたいなものもあっただろう。大川先生くらいの年だったら、もう少し如才なく雑談をこなしてもらいたいものだけど。

 相槌を打つのも面倒になって、つい、こちらから話を振ってみようかという気にもなってしまう。私の情報を与えるということだから、これも思惑に乗せられているということなのかもしれないけれど。気を許したとでも思われたら癪ではあるけれど。


「昔……小学校の時だったかな。クラスでネズミを飼っていて。でも、ちゃんと最後まで面倒を見てあげられなかったことがあったんです。その時の先生の対応で、教師を目指したのもあって……それで、こだわりというか、あるのかもしれません」


 洗剤の泡を洗い流す水の流れも、あの時のネズミの断末魔を思い出させた。水道の蛇口から出てくる清潔な水だ、ネズミの糞尿と死体が溶け込んだあの水槽の水とは全然違うはずだけど。指先にもがく小さな命のざわめきをまた感じた気がして、心臓が妖しい鼓動を奏でる。


「なるほど。良い先生だったんですね」

「そうですね」


 都合の良いように話したことを都合の良いように解釈したのだろう、大川先生は納得顔で頷いた。私の内心の嘲りも知らないで。あの男が良い教師だなんてありえない。反面教師とは言えないこともないかもしれないけど、恩義も尊敬も欠片たりとも感じていない。もちろん、誤解させるような言い方をしたのは百も承知だ。何も知らない男の無邪気な笑顔、これはこれで愉しいものだ。


「うちは、親戚中で教師が多い家系――というか――でしてね。それで何となく教職課程を取って今に至る、です。いやあ、志がなくて恥ずかしいですが」

「そんなこと。大川先生、生徒に人気じゃないですか」


 私と同様に、生徒に対して当たりがきつくない先生というのは親しまれるものだ。侮りと裏表のことではあるし、この人がどこまで自覚的なのかは分からないけれど。


「恐縮です。麻野先生に褒めていただけると嬉しいなあ」


 私の内心には気付かないで、はにかんだように呑気に笑っている彼は、やっぱり何も考えていないのかもしれない。


* * *


 大川先生をあしらうことに成功したので、生物室に戻る頃には私は大分平常心に戻っていた。浮かれすぎず、かといって機嫌が悪いという訳でもなく。


「麻野先生……!」


 葛原くずはら君が、私の足音を聞きつけでもしたかのように、そして尻尾を振る犬みたいに、満面の笑顔で駆け寄ってくるまでは、だったけれど。


「……葛原君だけ? みんな帰ったの?」


 既に私よりも背が高い彼の肩越しに生物室を窺えば、室内を舞う細かいチリが傾き始めた陽に輝くのが見えるだけで人気ひとけはない。生き物の世話が終わって、顧問はおらず実験もできないとなれば、大方の生徒は帰って当然だ。勉強するにしても自宅や図書館の方が生物室の固い椅子よりよほど効率が良いはず。葛原君だけが残っていたのは――


「日誌、直接渡した方が良いかと思って。待ってたんです」

「そう。ありがとう」


 葛原君が両手で差し出したキャンパスノートは、確かに部員たちが交代で記しているものだった。年度初めから番号を振って、今は二冊目。女子がシールや色とりどりのペンでデコレーションしたページもあれば、男子が書き殴ったページもある。ぱらぱらとめくると、最後のページには几帳面な楷書が連ねられていた。の後のルビーちゃんの様子やマウスの赤ちゃんの観察について、スケッチを添えて。生餌が呑み込まれる様は正視できなくても、彼は蛇もマウスも同様に大事に面倒を見ているらしい。優しくて真面目で、良い子ではあるのだろうけど。


「――待たせちゃってごめんね。お疲れ様。今日は部活にならないからおしまいにしましょう」

「……はい」


 彼が「待て」をされた犬みたいに待っていたのは、本当に真面目さの表れだけなのだろうか。日誌は明日渡すのでも良いし、何なら教卓の上にでも置いておいたってかまわない。大した内容のものじゃないんだから。帰れと言われて一瞬だけ不服そうな色が葛原君の目を過ぎった気がしたのは、私の思い過ごしだろうか。待っていたことを褒められたい? 二人きりで、何かしらのをしたかった? まさか、一緒に帰りましょう、なんて言われるとでも期待してた?


 同僚に続いて、教え子まで? 鬱陶しい……!


 お互いに相手の出方を探るような、一瞬の微妙な沈黙。それを先に破ったのは葛原君の方だった。


「……それじゃ先生、また明日」

「ええ。帰り道気をつけて」


 彼が少しでも食い下がる様子を見せていたらさすがに苛立ちを見せてしまってたかもしれない。でも、葛原君は駆け寄って来た時と同じ、忠犬の従順さで頷いてくれた。素直な子でもあるのだ。彼のような生徒は教師に反抗することは少ないはず。――そう、だから毅然とした態度でいれば良いはずだった。

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