第26話 齟齬
私はちらりと時計を気にしてから、リビングの椅子に掛けた。片手が塞がっていてはコーヒーを淹れることができないのが残念だった。でも、良いか。いつもの得意げな表情から一転して、今にも泣きだしそうな
『昨日、塾から帰ったらあいつが話があるって……で、画像、見せられて、どういうこと、って……。うざかった……!』
「お母様でしょう。そんな言い方は良くないわ」
さっきの女性教師とのやり取りでは、電話だと顔を見られなくて良かった、と思っていた。でも、今は残念だ、と思ってしまう。春山美波は、いったい今どんな顔をしているのだろう。泣いているのか、怒っているのか。声だけでも良いけど、混乱に歪んだ表情だって、ぜひとも見たいと思うのに。
『別に。大して美味しくもないのに毎日作るから……だから、あいつが悪いんだもん。言わなかっただけ感謝して欲しいくらい! ずっと気付いてなかった癖に、今さら……!』
「でも、食べ物よ? それも、手作りの。作った人の気持ちになったら――」
『だから捨てたんじゃん! うるさいだけの馬鹿の癖に、母親面するから。だから、捨ててやったら面白いな、って思ったの! 何も知らないで今日も食べてくれたのねって、ほんと、受ける……!』
形ばかりに常識的な説教めいたことを言ってみると、スマートフォンから爆発するような怒声が聞こえてきた。思わず少し耳から離すと、続いて飛び込んできたのは、耳だけでなく私の胸にも刺さる言葉。
『
「……何を言っているの?」
『……私、分かってたもん。お父さんだって……。あいつを言い負かした時の夕実先生、すっごく楽しそうで素敵だったって。部でもさ、ネズミ食べさせるのも、それ見て怖がる子がいるのも面白がってたでしょ? でも、夕実先生は優しそうで、誰も疑ってなくて……すごいな、って思ってたんだ……』
春山美波の声は、今や完全にトーンを変えていた。最初の錯乱めいた混乱と、母親への憎悪と呼べるほどの苛立ちから、どこか甘ったるい調子へと。何か……告白でも、するかのような。否、私はもう告白されていたのだったか。
『夕実先生好きだし~』
あの画像を手に入れた日。校舎裏でこの少女と行き会った時に。挑発か、的外れな媚びとしか聞こえていなかったけど、この子が私の本性を見抜いた上で言っていたとしたら。捨てられていた弁当を見つけた時に予感はしていたけど、本人から告白されるのはまた別の不気味さだった。
ああ、でも何だって? 楽しそうだった、面白がってたって……。確かにそうだ。よく覚えている。でも、私は隠していたつもりだったのに。こんな子供にさえ見透かされるほどだったのか。私は、一体どんな顔で今まで過ごしてきていたのだろう。
「何を……言ってるの……」
『私、先生と仲良くなりたかったの。だからアピールしたかったの。だからあいつを学校に怒鳴り込ませたの。私も一緒だよ、って……それで、上手く扱えるでしょって、見せたかったの……!』
呆然としている間に、春山美波の声はまた必死な響きを帯びてきている。自分が語っていることに、感極まっているような。あの母親はとんだピエロだったのか。私にも娘にも良いように操られて――罪を犯した、のだろうか。私はまだ具体的には何も聞いていない。
『ねえ、夕実先生、だから助けて! 先生も楽しかったんでしょ!? 分かるんでしょ!? あいつに何て言ったの? どうしてあいつが、あんなこと……っ! お父さんがっ!』
スマートフォンからは、春山美波の悲鳴のような声が漏れ続けている。私が返事をしないことで、相手はまた平静さを失いつつあるようだった。うるさい。考えがまとまらない。今や混乱しているのは私も同じで――悔しいことに、次の言葉は少し
「待って……ほとんど何も聞いていないのよ。ご両親の間でトラブルがあったご家庭があった、ってだけ……春山さんのことなのね? 何があったの? 今どこにいるの?」
まだ「優しい
『今、病院……。お父さんが……おばあちゃんとかおばさんとか、親戚と話してて』
「お母様は? お二人とも怪我されたって……」
『突き飛ばしただけなのに大げさなんだよ! 絶対大したことないのに……救急車呼んで、検査するとか言ってて!』
下手に出たのが良かったのか悪かったのか。私の問いに一度は大人しく答えてくれた春山美波は、母親への言及にまた声を荒げた。問いかける時には近づけて、答えを怒鳴られて遠ざける。私がスマートフォンを持つポジションも安定しない。
『それだって、あっちが包丁持ち出してきたから! お父さんだって怪我したのに! ね、
とはいえ、ここまで聞けばおおよその事情は想像がついた。
お弁当の件で激昂した春山さんが、夫と娘に詰め寄った。家族――と見せかけた捕食者と玩具――の間でどんなやり取りがあったは分からないけど、春山美波のこの調子からして、ふたりとも素直に謝ったりはしなかったのだろう。春山さんの激情は収まらず、夫に刃物を向けるに至る。窮鼠の牙を見せつけられて、夫は初めて事態の深刻さに気付いたのだろうか。それとも、ネズミ風情の反逆に怒ったか。包丁は取り上げられて、春山さんは突き飛ばされて。それだけで、済んだとも思えないけど。
「さあ……それは、怪我の様子も知らないし。弁護士に聞いてみないと」
あの父親の将来は、どうなるだろう。そう思うと、やっと少し嗤う余裕を取り戻すことができた。多分、春山さんが何を言ってもヒステリックな女の妄言としか取られないように上手く立ち回ってきたのだろうけど。でも、傷害事件を起こすほど妻が追い詰められていたとなったら話は変わる。春山さんが訴えると言っている以上は、今までの仕打ちも証言するつもりということだろうし。検査が必要ならそれなりの怪我を負ったのだろうし。
離婚。DV。モラルハラスメント。彼のキャリアに、それがどの程度の陰を落とすのだろう。娘は、父親につくのだろうか。でも、学校は変えなければならないかもしれない。今のままだと人目が気になるだろうし、慰謝料を支払ったら私立の学費を払い続ける余裕はなくなるのかも。
――じゃあ、私は春山美波の排除に見事に成功したのかもしれない。春山さんと話しただけで、自分の手は汚さずに。父親の社会的信用も傷つけることができて、馬鹿にしてくれた意趣返しにもなった。これは、私は、また成功したと思って良いんじゃないだろうか。それは、多少は想定外のこともあったけど──
『夕実先生……っ! なんでそんな冷たいの……!?』
そう思うと、春山美波の悲鳴も滑稽なものとしか聞こえない。
「だって春山さん、ルビーちゃんを殺したでしょ? 私だって気付いていたのよ。悪いけど、良い気味だ、って思っちゃう」
口調は、さっきまでと変わらず優しく穏やかなまま。でもたっぷりと毒と嘲りを滲ませてスマートフォンに向かって囁くと、春山美波が回線の向こう側で、え、と呆けたように呟いた。あんなにうるさいくらいに喚いていたのが急に無言になってしまったのがおかしくて、くすくすと笑ってしまう。
「私だって気付いてたのよ。貴女が同じ種類の人間だって。でも、だからって親近感を覚えるとは限らないでしょ? お互いの縄張りを荒らさないのがマナーってものでしょ? 家庭の中で何があっても口出しする気はなかったけど、生物部に手を出すなら話は別よ」
『先生……何、言ってるの……?』
ルビーちゃんのことを、面と向かって問い詰めることなどできないと思っていた。それが、こんな機会が巡ってくるなんて。あまりに愉しくて滔々と語ってしまって――でも、春山美波が白々しく戸惑ったような声を出すので浮かれた気分にも水を差されてしまう。
「だから……! 貴女なんでしょう? ルビーちゃんだけじゃない、マウスの赤ちゃんも盗んだでしょ?」
とぼけるな、全て分かっているんだぞ、と。念を押すように脅すように、声を低めて告げる。騒がれていない罪状まで挙げて追い詰めたはずなのに、春山美波の反応はやはり鈍かった。
『違うよ。私じゃないよ。ルビーちゃん、可哀想だったのに……それに、赤ちゃんって何のこと?』
「生物部で飼ってる、ルビーちゃんの生餌。新歓の時に見たでしょう。あの子たちが一匹いなくなってたのは、貴女が持ち出したんでしょう?」
ルビーちゃんを殺した癖に可哀想、だなんて。この期に及んで言い逃れようなんて。その図々しさが許せなくて、私の声量も上がっていく。そしてそれにつられるように、スマートフォンから聞こえる声もますます甲高くなっていった。
『違うって。本当に。マウスのことなんて知らなかったし。――先生が私を睨んでたの、それでだったの……? あいつのせいじゃなくて?』
春山美波はもう戸惑っているだけじゃない。最初は母親に向けられていた苛立ちが、今は私にも向けられている。――ううん、苛立ちというよりは、憤り、なのか。身に覚えのないことを疑われて傷つき気分を害しているかのような感情が伝わってくる。でも、こいつがやったはずなのに!
『夕実先生、本当だよ。ねえ、私を疑ってたの? だからあいつにあんなことさせたの……!? あんな画像を持ってたのも、それでなの……!? そんな、ひどいよ……!』
うるさい。お前があんなことをするからだろう。母親の愛情を裏切っておいて被害者面するんじゃない。お前の父親だって自業自得だ。今まで積み重なったことの報いを受けただけだ。
そう、吐き捨ててやれば良かった。そうしたかったのに。でも、できなかった。それほどに、今度は私の方が呆然としてしまっていた。私を責める春山美波に、咄嗟に反論することができなかった。
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