第25話 着信

 自室に辿り着いて鍵とチェーンをしっかりと掛けると、私はしばらく玄関にへたり込んだ。年甲斐もないダッシュ、それもパンプスを履いてのことに足が悲鳴を上げていた。二回転んであちこちぶつけて、痣や擦り傷も沢山出来てしまっているだろう。お風呂に入って、綺麗にして。消毒薬はあっただろうか。明日はパンツスーツの方が良いかもしれない。スカートで、ストッキングから見えるところに目立つ傷があったりしたら不審に思われるかもしれないから。ストーカーがいると思って走って転んで――でも、振り向いたら誰もいなかったなんて恥ずかしすぎる。


「どうして、私が……!」


 安全な場所に辿り着いたと確信できると、ふつふつと平野ひらのへの怒りが湧いてくる。確かに街灯の下、あいつの姿を見たのに! あいつは、姿を見せつけただけで満足したのだろうか。私が焦って走り回るのを、どこかで見て笑っていたのだろうか。


 傷の手当てをした後は、何もかもどうでも良くなって寝た。緊張や興奮、それに恐怖もあったはずだけど、疲れがそれを上回っていたのだろう、すぐに寝付くことができたと思う。飼っている蛇の様子を見ること、マウスのケージに飼料を足すことは習慣として忘れなかったはず。明日の授業の準備は十分に見直すことができなかったけど。でも、それは明日学校でやれば良い。少なくとも、学校なら人がいる。大川おおかわ先生だろうとあの教頭だろうと、家で一人きりよりははるかにマシだ。

 あの脅迫状が届いた夜と同じように、毛布に包まって。でも、今度は見えないネズミが足を這うようなことはなかった。疲れ切っていれば現れないということは、やっぱりあれは不安が見せた幻だったのかもしれない。それか──マンションの入り口で踏み潰したからいなくなった、とか? それも、馬鹿馬鹿しい発想だけど。


 とにかく、私は夢も見ずに寝て――そして、枕元のスマートフォンのバイブ音で目が覚めた。アラームの時間だ、起きて止めなければ、と思って画面を見て。眠気が一気に覚醒した。

 スマートフォンに表示されている時刻は、アラームを設定している時間よりも早かった。だから、バイブ音は着信を知らせるためのもの。表示されていた着信元は、同僚の教師のひとりだった。教員向けに用意されている連絡網で、私の前に位置している女性の先生だ。台風で休校になるかどうかの時なんかに数度使ったことがあるだけの連絡網。もちろん、今は緊急で連絡が必要なことがあるとは――少なくとも天候関係では――予想されていない。


「――もしもし。麻野あさのです。おはようございます」


 通話ボタンをタップしながら頭をよぎったのは、昨夜の春山はるやまさんとのこと。思いつめた表情で、何度も頭を下げながら闇の中に消えていった気の毒な女性ネズミのこと。予感のような期待のようなものを感じながらスマートフォンを耳に近づける。すると、案の定というか聞こえてくる声は緊迫感に溢れるものだった。


『おはようございます。朝早くにすみません、ちょっと……大変なことが起きて』

「大変なこと。何でしょうか……?」


 相手に合わせて神妙な声音を作りながら、私の胸はもう高鳴り始めている。これはやはり春山家で何かあったということだろう。窮鼠が猫を噛んだのか、それともネズミはネズミに過ぎなかったのか。それにしても昨日の今日でこんなに上手くいくとは思わなかった。


『ある生徒さんのお家で、ご両親が刃傷沙汰を起こされた――というか、お父様がお母様に対して暴力を振るわれた、と……。いえ、その前にお母様がお父様に乱暴なことをしたとか……とにかく、ご両親とも病院にいて、お母様は訴えるつもりだということです』

「そんな……」


 ああ、電話って何て便利なんだろう。声でだけ演技を続けていれば、表情に気を遣う必要はない。ただ、大声で笑い出したいのを堪えるのはちょっと大変だったけど。連絡網で伝えられたのは、間違いなく春山家の出来事だ。あの母親は、思い上がった夫に一矢を報いることができたらしい!


「何年の子ですか? いったい誰が、そんな……」


 どの家庭でのことなのか察した上で白々しくショックを受けた振りをして尋ねると、相手の先生はさあ、と言葉を濁した。


『私も一報を聞いただけなので、詳しくは、まだ。今の段階で回っているのは、警察も関わることになってしまったので、学校にも報道陣が来るかもしれないけど、生徒たちを心配させないように努めてください、とのことです。それから、取材のようなことがあってもノーコメントで、と……』

「分かりました」


 やや無責任というか逃げ腰にも聞こえるが、学校内で起きたことでもない、生徒の家庭でのことならばこんなものだろうか。ルビーちゃんの件は公にはしていないから、生徒や教師の口から外に漏れてこの件と関連付けられるのを警戒でもしているのかもしれない。

 まあ、今の段階で聞けるのはここまでだろう。私は教師で、春山美波みなみとは多少なりともかかわりがあって、しかも当事者である春山母の連絡先を入手している。追々、詳しい事情を幾らでも聞くことができる立場にあるのだ。今は春山家の崩壊を知ることができただけで十分。詳細は、後の楽しみに取っておけば良い。


『……麻野先生も部のことがあったばかりなのに……。大変でしょうけど、何かあったら言ってくださいね』

「ありがとうございます。そうですね、不安ではありますけど……生徒には見せないように、頑張らないと」

『さすが、しっかりしていらっしゃいますね。――では、また学校で』

「はい、また後ほど……」


 相手の先生は私のことを心優しい後輩だと信じ切っているようで、最後まで心配する声音だった。それに答えるべく、私も神妙かつ真摯なトーンを保って、通話を終えた。――その瞬間に、私の喉から笑い声が溢れ出す。


「うふ、ふふふ、あははははははっ」


 やってやった、という達成感がそうさせていた。愉快でならなかった。私はまた人間を思い通りに動かすことに成功したのだ。それも、春山美波とその父親が長年に渡って操っていたあの女を、操り返してやった! 私のことを小娘とでも思って馬鹿にしていたのだろうが、そうはいかなかったということだ。

 春山美波は今日は登校できるのだろうか。どんな顔をしているか、是非とも見てやりたいところだけど――

 と、思った時、手の中に持ちっぱなしだったスマートフォンが再び振動した。まだ連絡事項があるのだろうか、そうだ、ちゃんと連絡が回ったことを伝えないと。そんなことを思いながら画面を覗いた私は、そこに表示されていた名前を見て目を疑った。今、このタイミングで着信するとは思えない番号だったから。忙しなく震えては私に電話を取れと促している、スマートフォンが映し出すのは。


 春山美波の母親の番号だった。


* * *


 何だ、これは。どういうことだ。


 静かなバイブ音とともに私の手の中でスマートフォンは振動を続け、昨日交換したばかりの番号を表示している。

 先ほど回って来た話だと、春山美波の母親は病院にいるとか。怪我の程度は伝わっていないから、会話が不可能な状態とは限らない。入院しているということではなくて、単に手当を受けているだけかも。でも、同時に夫を訴えるつもりだとも聞かされた。それなら私に電話を掛けている暇などないのではないだろうか。弁護士を呼んだりとか、もっと他にやることがあるだろう。


 まさか、たまたま違う生徒の家庭で暴力事件が起きたというのか。それとも――春山さんの番号だからといって、掛けてきているのが本人とは限らない、ということもあり得る?

 昨晩の出来事が頭の中を駆け巡る。春山さんと別れた後、平野と追いかけっこめいたことをさせられた記憶。私を追い詰めなかった代わりに、あいつが春山さんを襲ってスマートフォンを奪っていたら、とか。あの時あの場で番号を交換したなんて、他人に分かるはずはないんだけど。そんなことが起きていたらそれこそ事件になってしまうし。――でも、理不尽に狙われているという不安が、私に安易に電話を取ることを躊躇わせるのだ。


 このタイミングでの着電なんて――あいつは、全て見透かしているのだろうか。


 ううん、違う。そんなはずはない。あいつがあそこにいたのは私の部屋を見張っていたから。私の番号を入手することはできないだろうし、万が一それが可能だったとしても、電話越しに何ができるはずもない。

 当たり前のはずのことを自分に言い聞かせて、やっと私は通話ボタンをタップした。たっぷり考え込んでいる間にも、相手が諦めることなくコールを続けているのが不気味でもあり、気にもなっていたのだ。スマートフォンを耳にあてると、聞こえてきた声は――


『――夕実ゆみ先生……?』

「……春山さん!?」


 どこかで予想できていたような気もするけれど、やはり驚いてしまって思わず声を上げてしまう。

 スマートフォンから聞こえる春山美波の声からは、今まで顔を合わせた時の、気に障るほど明るくて馴れ馴れしい調子は陰を潜めている。弱々しくて、それこそ昨日の母親を思い出すような、縋るような声は母と娘の血の繋がりを感じさせる。私がどうして、と問う暇もなく、挨拶もなく、春山美波はまくし立ててくる。


『やっぱり、夕実先生なの? どうしてあいつの携帯に番号があったの? 昨日会ったってほんと? 何を話して、なんで……っ!?』

「落ち着いて。昨日お母様とお会いしたのは本当よ。貴女と話し合うように勧めたの。でも……何があったの?」


 この慌てようだ。連絡が回って来た、事件のあった家庭というのは、やはり春山家で間違いないようだ。私の差し金があったと知っての抗議なのか、泣き言なのか――どちらにしても負け犬の遠吠えだ。大人として宥める振りで、聞いてやっても良いだろう。


 幸い、出勤の準備にはまだ余裕があるし。か弱いネズミに成り下がったこの女を、少し甚振いたぶってやろう。

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