第24話 忍び寄る影
そんな母親の必死の思いを、あの女は裏切った。否、裏切り続けていた。そう、この人は知ってしまった。彼女はほかのふたりとは違う種類の存在だと。猫とネズミ、捕食者と獲物。――だから、今までと同じように娘を愛することなどできないのだろう。
「そこは本当に疑っていません。不快な方や不安な方がいるだろうとは分かっていましたし……美波さんの誤解です。お母様に分かっていただいたみたいで、今もほっとしているくらいなんですから」
残酷な現実をつきつけられた春山さんに対して、私はあくまでも優しく真摯に――そう見えるように――接してあげる。そうすれば、この人は私に縋るだろうから。私の思い通りに動いてくれるだろうから。今まで夫や娘に支配されていたこの人を、これからは私が操ってやる。
「でも、娘さんとは話し合われた方が良いかもしれません。生物部とは別のことになりますけど、これは……」
まるで本当に気の毒に思っているかのように言葉を濁すと、春山さんは私のスマートフォンをそっと持ち上げて押し戴くようにした。小さなその機器にまで、彼女は縋りついているようだった。
「この画像、いただけませんか……。私の番号、いらないでしょうけど……」
「とんでもない。すぐ、お送りしますね」
やった。これで窮鼠が猫を噛む。娘と夫への不信を抱いたこの女性が、帰宅してから何をやってくれるのか――楽しみに口元が緩みそうになるのを必死にこらえて、私は春山さんと番号を交換し、例の画像をメールに添付して送った。
「……お話していただいて、本当にありがとうございました。遅い時間だったのに……」
「いいえ。美波さんのこと、私も心配していましたから」
春山さんはよほど動揺していたのだろう。さりげなく彼女が持参した百貨店の包装を持たせても気付かないようだった。もらうにももらえないものだから、持って帰ってもらえればその方が良い。
「お気をつけて」
「はい。先生も、暗いですから……」
ファミリーレストランを出たところで、私は春山さんと別れた。街灯と行き交う車のランプでこの通りはそれなりに明るい。だから、しきりに頭を下げながら去っていく彼女の姿を、私はかなり距離が離れるまで見送ることができた。
ああ、面白い一幕だった。夜中に意外と時間を取られてしまったけど、春山家の実情を知ることができたのは収穫だった。春山さんの苦悩も歪んだ表情も良い見物だったし、あの画像もこれ以上なく上手く使えたはず。
後は春山さんからまた連絡がくるのが――あるいは、春山美波が何かしらボロを見せるのが楽しみだ。母親でさえ、私の方が巧みに操ることができるのだと、見せつけることができれば良い。
もう隠す必要がなくなった笑みを浮かべながら、私はマンションの方へと身体を向けた。比較的細い道に入っていくことになるから、暗闇が濃く見えて視界が黒に染まる。でも、慣れた自宅への道、迷うこともないはずだったのだけど。
でも、踏み出そうとした足が、宙に浮いて止まった。
大通りよりも遥かにまばらな街灯。それが作り出す、スポットライトのような一角だけの明るさ。その中に、俳優のように佇む影があったのだ。
男。逆光で顔はよく見えない。目深に被ったニット帽と口元を覆うマスク、襟を立てたジャケットも邪魔をしている。でも、確かに分かってしまう。
その男は私のことを凝視していた。
* * *
じり、と半歩後ずさる。と、私が距離を空けた分だけその男は私に近づいてきた。街灯のスポットライトから踏み出したことで、もともと見えづらかった顔は暗闇に沈んでしまう。
こいつは、この男は、
季節外れの寒気が背筋を這い上り肌を粟立てさせる。春山さんの苦悩を見て遊んでいたはずが、私の方が遊ばれていたのだろうか。獲物を狙う瞬間は、蛇も猫も無防備になるように、警戒を怠ってしまったのだろうか。訪ねて来たのがか弱い中年女性だったとしても、こいつもいるのだと忘れてしまっていたなんて。
「はあ……っ!」
口から、塊のような息を吐き出す。喉を塞ぎ思考を鈍らせ身体を縛る、恐怖の枷を逃れるかのように。落ち着け、と自分に言い聞かせながら。
あいつはこれ以上近づかないはず。こっちの通りにはまだ人目も多いから、そこまでなりふり構わず迫ってくることはないはずだ。私の住所を知っていてもなお、嫌がらせの手紙を郵便受けに投げ込む以上のことはしなかったことからも分かる。あいつは私を怯えさせようとしているだけ、そしてその姿を見て溜飲を下げようというだけだ。勝手な逆恨みで!
あいつが――平野が、私を驚かせて悦に入っているのかと思うと、恐怖に代わって怒りがふつふつと湧いてきた。春山美波の父親と同じ、私を獲物に見立てているのだ。前に退職に追いやってやったのに、いた――その、復讐とでも言うのだろうか。冗談じゃない。あれはあいつのやり方が下手だったから、私ならもっと上手にできると思っただけだ。あいつの迂闊さや愚かさが招いたことを、私のせいにされてたまるか。
落ち着け。子供の時でさえ勝てたんだから、今の私が怖がる必要なんてない。なるべく明るいところを歩いて、それでもつけてくるようなら警察を呼べば良い、それだけだ。
深く、何度か呼吸して早まっていた鼓動を宥めてから、私はとりあえず大通りに沿って歩き出した。手はバッグの中のスマートフォンに触れて、何かあればすぐに通報できるようにして。
カーブミラーや、商店やコンビニの窓ガラスに目を凝らして背後を窺いながら歩く。はっきりと振り返るのは癪だからしないけど、平野は私を追いかけてきてはいない――気が、する。でも、住所が割れているならマンションの建物の中に入るまで安心できない。尾行されている訳でもないなら警察に頼ることはできないし、物陰や曲がり角に、あいつが潜んでいるかもしれないのだ。
頭の中で、マンションに至るまでの道、できるだけ人通りが多く明るいところを通って帰れるルートを検索する。コンビニやスーパーなどからの近さの利便性は確保しつつ、夜は静かなのが良いと選んだ場所だから、どうしても最後の最後で人気のない住宅街を一ブロックほど走り抜けなければならない。そこまでは何とか行けるとして、最後をどう切り抜けるか。春山さんを迎える時に、何も考えずに一番手近なパンプスに足を突っ込んだのが恨めしかった。出るのはすぐそこ、足元を見られる訳でもないからスニーカーでも良かったのに。
* * *
行き交う車のランプを背に、私は暗い路地を覗き込んでいた。近所の地図を頭に思い描いて、日ごろ目の端に映っているはずの灯りの在処――商店のほか、自販機とか駐車場とか――を吟味して、ここを曲がるのが最短距離のはずだった。目を凝らせば、黒い夜空に紛れるように、私が入居しているマンションが薄っすらと見えるほどの距離。既に灯りが消えた窓も多くて、こんなに遅い時間まで帰れなかったことに焦りが募る。――でも、この短い距離を駆け抜ける、そのための一歩を踏み出すのには、途方もない気力が必要だった。
マンションの入り口までの間、どれくらい曲がり角があったっけ。そのどこかに、平野が潜んでいたりはしない? 走っている横側から飛び掛かられたりしたらどうするか――躱して、駆け込むことができるだろうか。
どれだけ目を凝らしても怪しい人影は見えなかった。思えば、ファミリーレストランを出たところで、平野はわざと私に姿を見せつけたのだろう。その結果、こんな夜中にうろうろさせられることになって。冷静に行動していたつもりで、私は焦り怯えてしまっていた。これもあいつの手の内だったのか、とさえ思ってしまう。ああ、イライラする。
……身震いしてしまうのは、怖いからなんかじゃない。少しの間と思って薄手の上着で出たけれど、今日は夜になると少し涼しいみたい。体調を崩さないためにも、あまりグズグズしている訳にはいかなさそうだった。――それなら。
私は意を決すると、地面を蹴って走り出した。細いとはいえ一応は車道の真ん中を、人気がないのを幸いに走る。平野が物陰に潜んでいるとして、少しでも早く気付けるように。飛び出して来た時、一秒でも一瞬でも良い、身体を躱す余裕が持てるように。
「きゃあっ」
そこまで覚悟をしていて――それでも、視界の端に黒い影が入って、私は転倒した。そいつが現れたのとは逆の方へ。身体をアスファルトに叩きつけられる痛み。黒い陰――男の下半身とスニーカーを履いた足が視界の端で回転する。赤いスニーカー。闇の中で浮き上がる赤は、血の色を思わせて。そのスニーカーが、じゃりっと地面を踏む音が近い。でも、走っていた勢いを借りて、転がるように立ち上がる。ヒールががりっと音を立てて欠けたような気もするけど、足首が変な角度に地面に刺さった気もするけど、構っていられるか。
マンションの入り口はもうすぐそこだ。常夜灯が何て頼もしい。影は――追いついていないみたい。あと大股で、三歩、二歩――
「――っ」
マンションの入り口、押して開けるタイプのガラス扉に手が届くと思った瞬間に、私はまた転がっていた。最後の一歩が、何かぐにゃりとしたものを踏んだのだ。バランスを崩して――身体が叩きつけられるのは、今度は厚いガラスに対して。頭もぶつけてしまったらしくじんじんと痛んだ。でも――地面を這いずりながらでも、とにかく辿り着くことができた。埃で曇ったガラス扉の下部に、体当たりするようにして押し開けて、私はようやく安堵の息を吐いた。玄関ホールには煌々と灯りがともっている。扉一枚を隔てただけだけど、涼気もだいぶ和らいで。
走ったことで――それに、恐怖と驚きで――上がってしまった息を整えて。乱れた髪や服を軽く直して。私は、やっと振り返ってみた。もしもドアのすぐ外に平野がいたら、という想像が本物かどうか確かめずにはいられなくて。無様に二度も転んだ私を見下ろす目に、どんな感情が宿っているのか。こんなみっともない姿であっても、対峙しなければ、と。でも――
「嘘……」
誰もいなかった。暗い路地は、遅い時間に相応しく
あの――まるで、ネズミを踏み潰したような感触を。
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