第11話 乾いた涙
パンプスから履き替えた室内履きは、昨年度から使いまわしているものだ。だから
ああ、こんなのろのろしている場合じゃないのに。体育館から走る道中で、葛原君が舌を
「ちょっと……麻野先生! 何なんですか!?」
運悪く鉢合わせた教頭に見咎められたのも煩わしかった。部活動を見て回るような人でもないのに間が悪い。教師にあるまじき振る舞いとでも説教したいのだろうが、本来なら立ち止まって話を聞くべきなのだろうが、場合が場合だ。
「すみません、急いでいますので」
「あんた、何を……教師が廊下を走るなんて、」
軽く頭を下げただけで、説教を置き去りにして通り過ぎようとしたところ、かえって怒らせてしまったらしい。何ごとか喚き散らす教頭まで後ろに従えることになってしまった。私たちに追い縋るスピードということは、彼自身も廊下を思い切り走っているのではないかと思うけど。やっぱりこの人は視野が狭い。
* * *
ようやく生物室に近づいて――その外に、人だかりができているのを見てまずい、と思う。ジャージを着た体育会系の部活の生徒。帰り際に騒動を聞きつけたのか、制服姿で鞄を持っている生徒。誰も、しきりに首を伸ばして生物室の中を窺おうとしている。でも、葛原君の話を聞く限り、部外者に見せて良い光景ではないはずだった。まして、教頭のように私を快く思っていない人間には。
「生物部以外の生徒は入らないで。私がまず確認します」
野次馬がどれだけ状況を把握しているのかは分からなかったけど、とにかく牽制が必要だった。教師ならではの命令に近い口調で、生徒たちを生物室の扉から退けさせる。ついでに教頭も、生徒の壁の向こう側に置き去りにすることができた。
後ろ手に生物室の扉を閉めれば、そこにいるのは馴染みの部員たちばかり。――否、
努めて平静を装って、弾む息を抑えて、私を注視してくる生物部員たちに、語りかける。
「――遅くなってごめんなさい。……何か、処置をしていたのかしら……?」
私だって色々と仕事があるのだ。放課直後に部に顔を出さないのはいつも通りのこと、特別悪いことだとは思っていない。大川先生から春山美波のことを聞き出そうとしていたのも、この子たちが知る由もないことだ。
ただ、生徒たちの心情として、早く大人に頼りたかっただろうとは思うのだ。私は、部員の支持を失ってはならない。
「あ……」
ひとりの女生徒の目に、じわりと涙が浮かんだ。この子も今時の子らしく、年配の教師に見咎められない程度にメイクをしている。だから滲んだマスカラだかアイラインだかが黒く流れて彼女の目元を汚していた。
「あの……とりあえず、水槽から出して……それで……生きてる子は別のに移して、ました……」
「そう。辛かったでしょうね」
水槽というのは、いつもルビーちゃんを収めていたもののことではない。そうであれば、こんな騒動にはなっていない。葛原君から聞いたことを胸でもう一度噛み締めながら、私は
『ルビーちゃんが、金魚の水槽に……っ! お腹、切られてて……!』
生徒たちが慌てたのがよく分かる、濡れた床。水槽の水は恐らくは血によって濁っている。傍らに置かれたバケツには、水槽から移した水草が揺れて、生き残った金魚が何匹か鰭を揺らして泳いでいる。授業にも使う、黒く広い机の上には、ビニールシートが敷かれて。部で野外の活動をする時、休憩や食事や荷物置きに使うのを引っ張り出してきたのだろう。花びらのように点々と置かれた金魚の死骸は、水に異物が投げ込まれたショックとストレスに耐え切れなかった個体だろう。そして、金魚なんかよりずっと大きな影が水中で揺れている。
ルビーちゃんの喉元から、胴体の半ばまでを真っ直ぐに切り裂く、線。水に浸けられていたというからか意外と血は見えない。傷口はむしろ洗い流されたようで、皮膚の組織がよく見える。標本だとしたら良い観察ができるかしら、そんな考えが頭を過ぎってしまうくらいに。内臓も水に晒されたことで白っぽくなって生々しさは感じない。でも、
「ああ……」
胸が締め付けられて、吐息が口から漏れた。
マウスなんかいくら死んでも死なせても、別にどうということもない。でも、蛇は可哀想だと思った。大きさや値段の違いではない。彼らは私と似た者同士だと思うから。食べられるものではなく食べるもの、翻弄される側ではなく弄び翻弄する側のもの。――なのに、どうしてこんなことに。まるで私自身が切り裂かれたような痛みを感じて、束の間何をすべきか分からなくなってしまう。
「
――春山美波に話しかけられる、までは。反射的にびくりと振り向いて目を細めてしまう程度には、私はもうこの生徒のことを嫌っているのだ。見れば彼女も目に涙を浮かべてまつげを震わせている。あまりの事態に動揺しているのは私と一緒だろうに、なぜ、と思ってしまうほど。……大げさに、思えるほど。
「そうね……この子たちを埋めてあげて……水槽の水を入れ替えないと……。それから――」
それから、どうするのだろう。誰が
「私、手伝いますね。部員じゃないけど……ルビーちゃん、可愛かったもん。蛇だけど全然怖くなかった……」
ぼんやりと考えていた私の目は、ふいに焦点を結んだ。春山美波の顔、涙ぐんだ目元に。感じ良く好かれやすいタイプの生徒だけに、この子もメイクをしていた、はず。きちんと整えられた眉もそう語る。でも、彼女の泣き顔は綺麗だった。他の女子は、涙でメイクが滲んでパンダのような滑稽な顔になっているのに。
春山美波は、どうして今日に限ってメイクを――少なくとも目の辺りは――していないのだろう。まるで泣くことになると分かっていたかのように。
他に考えるべきこと、やるべきことは幾らでもあるはずなのに。ただ、そのことだけが私の脳に強く焼き付けられた。
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