第12話 応接室にて
「どう責任を取るつもりなんですか!?」
例の応接室にて、
ルビーちゃんの一件は、校舎内に不審者が侵入した可能性を考慮して保護者にも連絡が行くことになった。私が子供の頃の
「生徒さんたちの安全と心の安定には最大限配慮して対処する予定です。校門には監視カメラもありますし警備員もいますから。その……犯人については調査中ですが、生徒に危険が及ぶことがないように教師一同努めて参りますので」
内心の想いは顔には出さず、実のない言葉を並べながら、思う。だから部外者の犯行ということは考えづらいのだ。学校という場所に、教師と生徒以外の存在はとにかく目立つもの。警察沙汰になれば――まだそこは保留にされているけど――監視カメラの映像が確認されるのは明らか、捕まるのも時間の問題になってしまう。
対して、校内の人間がやったことだとしたら。生物室の鍵が誰にでも取ることができるのは、消えたマウスの赤ちゃんの時に考えた通り。授業の合間、掃除の時間、放課後、部活が始まる前――隙をついて忍び込むことは幾らでも可能だ。そして凶器についても。カッターでも美術で使う彫刻刀でも、刃物は意外と学校にあっておかしくないものなのだ。
我ながら、生徒を疑う方に思考が向いていることを自覚してはいるけれど――一方で、水槽の中で揺れていたルビーちゃんの姿に、古い記憶を刺激されずにはいられない。水を張った水槽、その中で死んだ――殺された動物。あの日平野が私にやらせたこと、ネズミを水に浸けて殺させたこと。死んだ動物は違っても、十年の時を越えてあのことを再現したように思えなくもない。そしてそれを知っているのは、私と同級生たちの他には、あの男しかいないのだ。
ならば、どういうことなのだろう。誰が犯人で何が真実なのだろう。
私の対応が上の空なことに気付いたのかどうか、春山美波の母親の機嫌は収まることなく、むしろヒステリックさを増していく一方だった。私の言い分を聞かないどころか、小鼻を膨らませて唇を嘲笑に捲り上げて、わざとらしく反問してくる。
「努力、ねえ。具体的には何をしていただけるんですか?」
「その時の状況について、生徒から話を聞いているところです。もちろん、刺激しないように様子を見ながら、ですけど」
「犯人は生物部員なんじゃないですか? 先生は、分かってて庇っているんじゃないですか?」
「そんなことはありません。私だって犯人は許せないし、捕まえてやりたいですよ」
馬鹿じゃないか、と口が滑らないようにするにはかなりの忍耐が必要だった。
ああ、この前の理論の裏付けが取れたと思っているのかな。小動物を弄ぶうちに、対象は次第に大きくなっていくのではないか、なんて。言っていたのは夫の方だったかもしれないけど。でも、この女も同じ思いだから今こうしてここにいるのだろう。どんな命も同じ重さ、同じ意味を持っているなんてあり得ないのになんて愚かな。私にとって言えば、マウスは弄ぶ対象だけど蛇のルビーちゃんは仲間だと思っていた。喪われた時のショックも痛みも比べものにならないのだ。
「蛇だから、爬虫類だからといって命を軽く見ていらっしゃるのではありませんか? 見た目で命を区別するとしたら、その方が問題のある考え方だと思いますが。部員は、飼育している生物全てを可愛がっていますよ」
生物部員じゃないお前の娘はどうだか知らないけど。相手には気付かれないように、私は言葉に棘を潜ませた。
春山美波に対する私の心証は、非常に悪い。それは、平野の復讐では、なんて考えが頭を過ぎったのは否定できないし、学校のホームページに私の名前が載っているのに気付いた時はひやりとさせられたけど。でも、、香奈子の言っていた不審者が平野なら、そんないかにも怪しげな風体なら、この校舎に入ることなどできないはずなのだ。
対して、春山美波が犯人だとしたらどうだろう。制服を着た生徒は学校という場所では空気のように背景に溶け込むことができる。同じ条件に当てはまるのは、何百人といる生徒の全員ではあるけれど、あの少女は特に怪しい。生物部員でもないのに生物室に入り浸っていた。まるで泣き真似をしなければならないと分かっていたかのように――あれが心からの涙ではないということも、私は確信していた――、アイメイクをしていなかった。状況証拠でしかないとしても、怪しむ理由には十分だ。
「でも、蛇とネズミは違うでしょう。一緒に扱うなんておかしいでしょう! そもそも蛇なんか飼ってるから――」
「仰ることが矛盾しています。マウスを生餌にするのは、春山さんから見れば残酷なのでしょうが、蛇を大事に飼育しているからこそ、です。ルビーちゃんを世話していた生物部員ならあんなことは絶対しません。生物部員は十七名いますが、全員を異常者扱いするおつもりですか?」
「蛇をルビーちゃんだなんて!」
目を吊り上げて叫ぶ中年女の顔、
ルビーちゃんを殺した犯人を捕まえてやりたい――そしてできるなら復讐してやりたいというのは本心だ。そしてその有力な容疑者は、目の前の女の娘なのだ。
これは春山美波がやったことだ。そう考えれば、辻褄が合う――気がするのに。ただ、動機だけが分からない。春山美波はハムスターを飼っているというけれど、だからマウスを生餌にするのが許せなかったのだろうか。消えたマウスの赤ちゃんも、助けたつもりだったとか。でも、この母親だってさすがにハムスターとマウスの区別はつくだろう。急にペットが増えたりしたら、不審に思わないはずがない。
一体、なぜ。そしてどういうことなのか――
頭の隅で考えながら、同時に春山母を言いくるめる言葉を探す。心中の侮蔑を隠しながら、穏便に追い返せる魔法のような言葉。そんなものを見つけることなんてできないでいるうちに、不意に室外から慌ただしい慌ただしい足音が聞こえてきた。そして不審に思って顔を上げるのと同時に、扉を勢いよく開ける音が。
「また! 何やってんのよ!」
怒鳴るようなその声には聞き覚えがあって、私は目を見開いた。聞き覚えてしまったことだけでも苛立たしい、若い女の子の高い声。
「いつもいつも……恥ずかしいことは止めてよね! 友だちとか先生とかさあ、目立ちたくないんだけど! 私の身にもなってくれない!?」
今日はしっかりとメイクをしているらしい。それも若々しい肌にうっすらと、自身の魅力を引き立てる程度に。だから頬を紅潮させて叫んでいても、母親と違って見苦しいとは思わない。でも、それこそが外からどう見られているかを計算しているのでは、と思わせて忌々しい。
応接室の入り口には、踏み入ろうかどうか迷っている表情の教師が何人か。彼らを振り切ってきたらしい、女子生徒。見たことのない剣幕で母親に詰め寄るその少女は、私が心の中で何度も姿を思い描き、その思惑を推し量ろうと思考をこねくり回していた相手。――春山美波、その人だった。
「美波!? 何しに来たの!?」
「こっちの台詞だって! 毎回何かある度に学校に乗り込むの、止めてって言ってるでしょ! 私が恥ずかしいんだから!」
「お母さんはあなたのためを思って――」
「それが余計だって言ってるの!」
ただでさえうるさかった春山母の金切り声に娘の甲高い声も加わって、私は思わず眉を顰めた。こんな親子喧嘩じみたこと、学校の中で繰り広げるものではないだろうに。
応接室を覗いている教師たちも、さらにその外側に集まった野次馬の生徒たちも、あまりにあけすけなやり取りに口を挟むことができない様子で固まってしまっている。……これは、私が間に割って入らなければならないのだろうか。
面倒なことになった、と思いながら半端に腰を浮かせていると――春山美波が母親を押しのけるようにして私の前に歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。以前――この母親が最初に生物部の活動に難癖をつけにきた後と同じ、殊勝な態度だった。
「
「いえ……お母様が心配されるのも当然だから」
子供に頭を下げられて、更に咎めることができる大人なんていない。まして私は教師だ。この少女に対して大いに含むことがあったとしても、曖昧に濁すことしかできないのだ。もちろん、普通ならばその辺りの機微が分からないのだろうと思うところだけど。こと春山美波に関しては、全て分かった上でこちらの足元を見ているんじゃないか、なんて思ってしまう。
「あの、ルビーちゃんのこと……
娘がちらりと向けた視線を受けて、母親はまたきいきいと喚き始めた。
「美波! あなたが怖がっていたから……早く犯人が見つかると良い、って……!」
「だからってこれは先生に迷惑でしょ!」
私や生物部員に見せる愛想の良さとは別人のような――親への態度なのだからこれが素と考えるべきなのだろうけど――剣幕の一喝で母親を黙らせると、春山美波はまた私に向きなおった。
「ほんと、何度もすみません、
「いいえ。良いのよ」
この女子生徒の先生、という発音は妙に伸ばしていて甘えているようで耳障りだった。敬意など全く感じることができなくて。それに、言葉では謝っておきながら口元はもう微笑んでいるのも。私には気にしないで、と答えることしかできないのを分かっていてやっているようで――チョコレートを持ってきたときと同じだ――馬鹿にされているようで、とても不愉快だ。
あなたがやったんじゃないの? どうしてあんなことをしたの?
そう、問い詰めたい。けれどできない。教師と生徒という立場の違い、大人と子供という年齢の違いがそうさせない。教師というものは生徒を疑わないもの、守らなければならないものだ。現場を見たとか刃物を持っているところを見たとかならともかく、直感や好悪の感情を理由に糾弾することなんてできるはずがない。
春山美波はそれを分かっているのだろうか。分かった上で母親を差し向けて私に嫌がらせしている? それなら、もしそれが事実だとしたら――なんて、厭な子供だろう。
「ママもちゃんと謝ってよ。ほら!」
「…………」
娘に上から命じられて、春山母は目を剥くと唇をわななかせた。上から、と言っても――座ったままだったので――つまり物理的な上下ということに過ぎないのだけど。春山美波が母親をどう考え、扱っているかは傍目にも明らかだった。
「いいえ。親御さんが心配されるのは当然ですから。本当に、気にしていません」
子供に言われてさっきまで怒鳴りつけていた小娘に頭を下げるなんてどれほどの屈辱だろう。それに、この母親が不愉快な人間なのは紛うことなき事実だけど、それでも娘ほどではない。だから、春山母のプライドのためというよりは春山美波の言う通りにさせないために、私は慌てて手を振って腰を上げかけた母親を制した。
「えー、夕実せんせ、優しいんですね!」
なぜお前に下の名前で呼ばれなければならないのか。私が咎める隙がなかったのを良いことに、いつの間にか定着させて。
大げさに驚いた顔を作って、手を口にあてて見せる春山美波を睨まないように、自制心を最大限に働かせながら。私の寛容を褒め称えるかのような、大きな声と身振り。でも、やはり私がこうするのは分かっていたのではないか、と思ってしまう。私が作り上げた「優しい
「すみません……あの、もう失礼します……」
「こちらこそご心配をおかけするようなことがあって申し訳ありません。引き続き、生徒さんたちのために細心の注意を払いますので」
ぼそぼそと、聞こえるかどうかの小さな声で謝罪した春山母を、私は応接室の扉まで見送った。娘が従って帰るつもりではないようなのは、まさかこれから生物部に顔を出すつもりでもあるのだろうか。ルビーちゃんの件で、部活動はいったん休止ということになっているけど、他の動物たちの世話は変わらずしなければならないから。昏い顔で水槽の水を替え、マウスの寝床を整える部員の前に姿を見せて、この少女はどう声を掛けるつもりなのだろう。
「じゃあ、私、生物室に行ってますんで。ほんと、すみませんでしたぁ!」
母親の悄然とした後ろ姿からあっさりと視線を外した春山美波は、悪びれずにそう言うと軽く手を振って私に背を向けた。制服のスカートの裾が翻り、さらさらとした髪が揺れて良い香りを残していく。その一瞬の去り際、春山美波は確かに嗤っていた。――私にとって、あまりにも覚えのある種類の悦びを刻んだ微笑みだった。
それは、他者を見下し、他者を操ることの愉悦。母親をけしかけて若い教師を困らせて、さらに良い子
すとん、と何かが腑に落ちた気がした。
ああ、あの生徒――否、あの女。憎たらしいあの女は、私と同じだ。あの歳で、なんて言えない。私は春山美波よりもずっと幼くしてあの悦びに目覚めたのだから。それなら犯人はやっぱり平野ではない。分からなかった動機も、もう明らかだ。
楽しいから、それ以外にあり得ない。
可哀想なルビーちゃんのお腹を斬り裂くことそのものかもしれないし、部員たちの悲しみや私の憤りを見るのが楽しかったのかもしれない。学校をこの件の対応で慌ただしくさせ、母親をモンスターペアレントに仕立て上げる。そちらの方なのかもしれない。それともその全てだろうか。
私にとって、初めて身近に認識した私と同じ種類の人間だ。でも、喜ぶことなんてできなかった。むしろ感じるのは一層激しくなった不快感。縄張りに入ってきたのが同族だったとしても、喜ぶ動物はいないだろう。きっとそれと同じことだ。
生物部に――この学校にいるのは、私だけで良い。あの無礼な邪魔者を、どうにかして排除しなくては。私はそう、固く決意した。
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