第13話 ざまあみろ
小さな毛皮を掌の中に握り込む。突然の圧迫に荒くなる息遣いと鼓動を堪能しながら、じわじわと力を込めて。こんなに小さなマウスでも苦しいという感覚はあるのか、手足を懸命にばたつかせる――それを抑えつけるのがまた、楽しくて。
生物部ではなく、私が自宅で飼っている蛇の餌として繁殖させているマウスの一匹だ。不慣れな生徒たちのために、部活ではコーンスネークを選んだけど、個人的に飼うのだから思い切り趣味に走って、と。より大型で胴も太い、いわゆる「蛇」というような蛇、ボールパイソンを選んだ。顔だちもあのルビーちゃんよりもごつごつとして可愛らしさよりも格好良さが際立つ。実は繊細なところもあって気を掛けなければならなくて――そういうギャップのようなところも気に入っているけれど。そんな
と、蛇に意識を向けた隙に、マウスがもがいて逃げようとしたので私はしっかりとそのやんちゃな個体を握り直した。さっきよりも力を込めると、内臓が潰れたのか尖った口元から黒っぽい血が滴った。カーペットなんかに垂れたら面倒だから、いつも流しでやることにしているのだ。
じっくりと、容赦なく。マウスの身体を握りしめて拳を固めていくのは、その命を絞り出すような感覚だった。必死の足掻きも痙攣も、すべて私の手の中に納まっている。私が全てを握っている。こんなに小さな命でも、掌の中に全て握り込んでいるという万能感は言葉にできないほど気持ち良い。どうせ遅かれ早かれ蛇に呑み込まれるために生きている命だ、潰える理由が私の楽しみのためだったとしても大した違いはないだろう。マウスは幾らでも生まれるし、何なら新しく買えば良い。
本当に
マウスが完全に動くのを止めたところで、私はやっと掌を開いた。固く握りしめた手を開くと、同時にすっと心が軽くなったような気もする。ああ、やっぱりストレスが溜まっていたらしい。
流しに零れた血や臓物は、引き出しておいたキッチンペーパーでさっと拭き取って生ゴミの三角コーナーへ捨てる。ぼろ雑巾のようになったマウスの死骸もペーパーに包んで、紙袋に入れて、更にそれをスーパーのビニール袋に入れる。ゴミ袋から透けて見えたとしても、せいぜい汚物にしか見えないように。死骸を蓋つきのゴミ箱に封印すると、流しの掃除だ。私の食事も料理する場所なのだから、清潔に保っておかなくては。
血の曇りが一点たりともなくなるまで流しを磨き上げてから、私は改めて手を洗ってひと息を吐いた。柑橘系の香りの消臭スプレーを仕上げに振りまけば、臭いが気になることもない。血と内臓の量からすれば、魚を捌いた時とあまり変わらないのだから。
すっきりしたところでお風呂に入るか、と思ったところで、社会人の常としてか、私は明日のスケジュールを頭の中に思い浮かべた。何か覚えておくべきこと、朝一番にやるべきことはあったかどうか、逆算して今日は早く休んだ方が良いかどうか。教師であるからには、私の脳裏に浮かんだのは文字通りの時間割表、何限目にどの教室に行くべきかというもので――それで、表の上部に示された曜日から、明日はゴミ出しの日でもあることを思い出す。
「じゃあ、今日のうちに出しちゃおっか」
お風呂に入る前に気付いて良かった、と思いながらひとりごちる。朝の慌ただしい時間にゴミを纏めるよりも今の方が良いだろうし、何より、マウスの死骸を自宅に置いておかなくても良い。該当日以外のゴミ出しは遠慮するように、との掲示があった気もするけれど、夜の遅い時間、ほとんど日付が変わる頃なのだから大目に見てもらえるだろう。
* * *
私と同じように出勤や登校前の慌ただしさを避けた住人は多かったようで、マンションの共用ゴミ捨て場には既に大小のゴミ袋が山積みになっていた。生ゴミの臭いに眉を顰め、できるだけ息をしないようにしながら持ってきたゴミ袋を山の
さあ、これで後はお風呂に入って寝るだけだ。今はすっきりしたけれど、きっと明日も煩わしいことばかり。春山美波のことも考えなければならないけれど、今日はもう休んでしまおう。そう思いながら、私は部屋着のポケットから自室の鍵を取り出した――取り出そうと、した。
郵便受けに、一枚の紙が差し込まれているのに気付いたのだ。
マンションの建物の入り口に、全戸分の箱状のポストが小さな集合住宅のように備え付けられているが、それとは別に各部屋の玄関にも郵便受けが設けられている。といっても、ダイレクトメールやチラシの類、今時珍しい時候の挨拶の類のハガキや封書なら入り口のポストに入れられるのが常だ。朝、わざわざ自室を出るのが面倒なのでそのように依頼しているのだろうか、隣近所の部屋の郵便受けから新聞が突き出しているのを毎朝のように見るけれど、私は新聞を購読している訳でもない。だからこちらの郵便受けはほとんど飾りのようなものだった。わざわざ上階まで入り込む配達員もいるのか、たまにこちらにチラシが差し込まれていることがある、くらいのものだったのに。
最初に帰宅した時、この手紙――と言えるのかどうか――があったかどうか。断言することはできなかった。多分疲れてうんざりしていたし、春山美波のことで苛立ってもいた。食材などを買ったスーパーの袋をぶら下げていたこともあって、さっさと家に入って荷物を置きたいと思っていたと思う。――だから、気付かなかったのかもしれない。でも、帰宅時はなかったような気もする。でも、もしそうなら、つい先ほど
何か嫌な予感に囚われながら、私はその紙に手を伸ばし、引き抜いた。ありきたりの、どこにでもあるようなA4のコピー用紙だ。二つ折りにされている。切手が貼ってあるような、つまりは郵便配達員によって届けられたものでも、つるつるとした用紙に印刷された飲食店や美容院のチラシでもない。それが余計に、この紙を届けた
どきどきと、心臓が高鳴るのを抑えて、私はそっとその紙を開いた。――そして、上げかけた声を必死に飲み込む。そこには、ゴシック体の太字で短い文章が印刷されていたのだ。
溺れたネズミの祟りだ。ざまあみろ。
咄嗟に紙をくしゃっと握りつぶし、左右を窺う。けれど、どこか薄暗い常夜灯に照らされた廊下に人影は見えなかった。
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