第30話 虎穴に入る
個室にふたりきりになってしまうなんて。いや、扉の外にはウェイターが控えているはずだし密室という訳じゃない。変に意識をする必要は――あるのだろうけど、でも、肉体的にどうこうということはないはずだ。何を着て行けば良いのだろう。この店の雰囲気ならそれなりにちゃんとした格好をしなければならない。髪型のセットはまあ良いとして、ワンピースにヒールとか。つまり動きづらくて逃げづらいということ。そこまで彼は考えているのだろうか。いや、まさか……。
でも、私は腹を括った。この不安な気持ちのままずっと過ごすなんてできないし、あっちでも私のことを放っておかないだろう。
だから、早くに決着をつけてしまうのだ。虎穴に入らずんば、なんて言うじゃないか。今回の相手は猛獣じゃなくて同じ人間だし、私には考える頭も時間もある。思い通りに動かせる駒だって。だから、黙って食われるの待つなんてご免だ。大川先生が私をおびき寄せたつもりなら、その隙に食らいついてやる。
私は、捕食者なのだ。絶対に獲物になんてなってやらない。
* * *
メッセージの送信に成功した旨の表示を見届けると、私は軽く息を吐いてスマートフォンをバッグにしまった。約束の日の約束の時間、約束の店の前でのことだ。保険は幾つかかけたつもりだけど――機能してくれるかどうか。そもそも、機能するような場面になるかどうか。ならなければ良い、と思いながら、辺りの様子を見渡してみる。
事前に調べていた通り、地下一階のワンフロアを丸ごと使った店だった。ホームページで見た店内の写真は広々としているようだったけど、地階に下りるエレベーターはそれなりに狭くて、演出の意味もあるのだろうけど照明は暗い。本当に虎の巣穴みたい、と苦笑しながら「下」のボタンを押すと、横から声が掛けられる。
「お疲れ様です。すぐ分かりました?」
「――ええ、地図を見ましたので」
もちろん待ち合わせていた大川先生の声だ。休日であっても職場のような挨拶をしてしまうのは癖のようなものなのだろうか。こんな不器用さというか融通の利かなさは、この人の性格だと思っていたけど、果たして実際はどうなのだろう。それにしても、先に店に入っておきたかったのに、一緒にエレベーターに乗らなければならなくなるのか。このタイミングはまるで狙っていたかのようで気味が悪い。
エレベーターの扉が閉まり、外の景色が見えなくなって。薄暗い中に大川先生とふたりきりになると、私の心臓の鼓動は少し早くなってしまう。
緊張を自覚して、私は大川先生に気付かれないように深く息を吸って、吐いた。大丈夫、今日はそんなに固くなっていない。自然に微笑むことができているはず。だって今日は不意打ちじゃない。私だって十分準備も心構えもしてきているはずなんだ。
「じゃ、行きましょうか。――いやあ、楽しみだなあ。
「そんなに喜んでいただけると光栄です。私も、楽しみでしたよ。とても素敵なお店みたいで」
学校にしていくのよりも少し濃い目にメイクした私を見て目を細めているのは、演技なのか本気なのかも分からないけど。分からないことを思い悩んで委縮するのはきっと得策じゃない。だから、表面上はデートを楽しんでいる振りをしてあげようじゃないか。その方が、油断を誘うことができるかもしれないし。
大川先生は、確かに私を動揺させ怯えさせることには成功した。でも、それはほんの一時だけだ。このデートとやらの誘い、これも確かに怪しいし警戒せずにはいられないけど、必ずしも彼にとって良策だったとは限らない。だって、私に準備をする時間、考える時間を与えてしまったんだから。
せいぜい今のうちに良い気になっていれば良い。私はやられっぱなしなんかでいやしない。そう思うと闘志が湧いて――微笑みも、より自然なものになったと思う。
* * *
「こちらのワインでよろしいでしょうか」
「ええ、お願いします」
ボトルを掲げて見せたウェイターには、私たちはどう見えているのだろう。大川先生の、いかにも不慣れな席で肩肘を張ったような様子から、付き合いたてのカップルかこれからプロポーズするところとでも思っただろうか。まったくもって忌々しい。案内された個室は、事前に受けた印象通り、落とした照明にクラシックのピアノが微かに聞こえる、いわゆるロマンチックな雰囲気に満ちていた。大川先生は、何を考えてこんな店を選んだのだろう。
アミューズ。前菜。スープ。コースが順番に従って届けられる。それぞれに趣向を凝らした料理は目も舌も楽しませてくれて、話も――少なくとも表面上は――弾む。味や盛り付けについて、お互いの好みについて。それに他愛のないことも。授業をやる上でのコツとか悩みとか、他の先生の噂話とか。ワインは、酔って思考が鈍ることを恐れてあまり飲まなかったけど。
そんな、どこか緊張感のある和やかなひと時も、ついに終わる。何だかんだでワインのボトルも半分ほど空いて、デザートの
「――大事な話があるって、言いましたよね」
それはきっと戦闘開始の合図。茶番劇は終わりだ、本題に入ろう、という。――私だって望むところだ。
「ええ」
コーヒーにひと口だけ口をつけて、にこりと微笑む。隙のない不敵な印象を与えることができていれば良いと願いながら。
「でも、その前にお聞きしたいことがあるんですけど、良いですか?」
「ええ……あ、はい。……何でしょう?」
葛原君が春山美波について言っていたように、私の目は笑っていないのだろうか。鋭いのかもしれない視線を受け止める大川先生は、私の目には穏やかに構えているように見えるだけなんだけど。
でも、これも獣の喧嘩と同じことなんだろう。目を逸らした方が負け、弱気を見せた方が負け。だからあくまでも笑みは絶やさずに、余裕があるように見せかけて。そして、問う。
「大川先生、
端的に、核心を突く。それは、私が考え抜いて放った渾身の一撃だった。そして確かに効果を上げた、と思う。大川先生の人の良さげな笑顔が一瞬凍り付き――歪んだのだ。驚きに目を見開いて、次いで全く表情の違う嗤いへと。多分私がマウスを絞め殺したりするような時にしているような、嗜虐的な愉悦の笑みだ。
「……へえ。驚いた。気付いていらっしゃったんですね」
「それは、関係がある、面識があると認められたということで良いですか?」
良く知っているはずの人が、見たことのない表情を浮かべている様はお腹が捻じれるような強烈な違和感を覚えさせた。それを悟られまい、動揺を見せまいと間髪入れずに問いかけると、でも、大川先生は微笑んで答えを逸らした。
「麻野先生に覚えていてもらえたなんて、たっくんも嬉しいでしょうね」
「たっくん……?」
何だその可愛らしい呼び方は。文脈からして、平野のことだというのは多分間違いないのだろうけど、あの暴君めいた短慮な男に全く似合わない。似合わな過ぎて目眩がしてくるほどだ。まさか、ワインの酔いがこのタイミングで回ってきたということもないだろうが。まるで、私が放ったはずの攻撃がいなされて、カウンターを返されたのかのよう。
「小学校の先生だと、さすがに下の名前は覚えてないですかね。あいつ、フルネームだと平野
私が眉を顰めたのを面白がるように、大川先生は笑った。今度は彼のいつもの笑みに見える。でも、目に宿る鋭さは捕食者のそれ。獲物と見做した私の反応を窺い弄ぶもの。次の言葉も、きっと私に与えるインパクトを十分に計算してのことなのだろう。小学校の先生、だって! この人は、私と平野との間にあったことを知っているのだ!
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