第31話 繋がる糸

「たっくん──夕実ゆみ先生にとっては平野ひらの先生、ですか。彼のことは小さい頃からよく知ってましたよ。父親が従兄弟同士なもので」

「……道理で……そうじゃないかと、思ったんです」


 私がそう呟くことができるまでに、何秒かかってしまっただろう。あからさまに驚きを露にしたり喘いでしまったりしたら相手の思うつぼだ、と。自分に必死に言い聞かせて、少しつっかえながらでも頷いて見せようと努めたのだ。平静を取り繕うため、声が震えないようにするための数秒だった。

 落ち着け、私の考えたことが当たっていたってことじゃないか。大川おおかわ先生と平野が繋がっている、って。だから、平野から私のことを聞いていたっておかしくない。昔のことを知っていたとしても、別に驚くことではないのだ。


「あれ、予想ついてました? 驚くと思ったのにな……さすが夕実先生、ってとこですか」


 私は何とか体裁を保つことに成功することができたらしい。もしかしたら、微笑んでいるように見えたのかも。その反応が不満なのか、大川先生は少し唇を尖らせた。前から子供っぽいところがある人だとは思っていたけど、平野との血縁を知った上でふたりきりだと思うと、そんな仕草は気味が悪いとしか思えなかった。さりげなく私を下の名前で呼んでいるのも。馴れ馴れしくて、気持ち悪い。

 それでも、相手の鼻先を挫くことができたのは良い結果のはず。それに、私もまるっきり虚勢を張っているという訳じゃない。今まで気付かなかったこと、見過ごしてきたこと、聞き流していたこと。それらを改めて吟味して結び付け、並び変えた上でこの場に臨んでいるのだ。


「ご親戚に教師が多いって仰ってたでしょう。あと、生徒から聞きました。ご実家の方ではネズミを水に浸けて駆除するって」


 もちろん、こんな情報は状況証拠にすらならないだろう。私だって聞いたその場では何ら疑問に思うことはなかった。でも、この人と平野の間に繋がりがあるのでは、と思えばおのずと色々な可能性が浮かび上がってくる。

 ずっと疑問だったのだ。平野がどうやって私の住所を知ったのか。学校のホームページを探し当てて、さらに私に全く気付かれずに尾行する、そんなことがあいつにできるのかどうか。西小周辺では、子供のいない香奈子かなこの耳にまで届くほどの不審者振りだったというのに! そして、大川先生はどうして私にちょっかいをかけて来たのか。でも、ふたりが共謀していると考えればどうだろう。平野には動機があり、大川先生には手段があった。それが、組み合わさったのだとしたら。


 ネズミの話に言及すると、大川先生はああ、と納得したように呟いて肩を竦めた。


「子供の手伝いのひとつなんですよね。まあ残酷と言えばそうなんですが、男の子だとね。強がりもあって平気な振りをしたもんでした。でも、たっくん――平野……か――、彼は本当に楽しそうだったなあ」

「昔からそうだったんですね、あの人は……」


 水槽に、無残な姿で浮いていたルビーちゃんを思い出すと、食べたばかりのコースが胃の中でぐるぐると暴れて気分が悪くなる。昔の――平野にさせられたことを思い出すようなあのやり方は、春山美波が大川先生の話から着想を得たと思っていたけど、根はもっと深かったのだ。

 罠にかけられて殺されるネズミから着想を得たのは、そもそもは平野だった。子供の頃の遊びを覚えていたあいつは、成長してから今度はそれを生徒にもやらせたのだ。もちろん楽しみを教えてやろうだなんてことではなくて、恐らくは私たちを弄ぶネズミに見立ててのこと。私は、図らずも奴から嗜虐の悦びを教わってしまったのだけど。

 大川先生も、そうなのだろうか。あいつを間近に見て育ったことで、同じ性癖を得るに至ったのだろうか。平野を先生と呼んだ時の口調には、何か深い感情が潜んでいた気もしたけれど。春山はるやま美波みなみが私に向けていたらしいような、憧れ、なのだろうか。


「夕実先生はよくご存じでしょうが、ほんと嫌なヤツでしたよ。親とか教師には外面良くて、同年代や歳下相手には威張り散らして」


 でも、吐き捨てるような彼の口調に、私の予想は裏切られた。大川先生の、タルトをフォークで砕く手つきは荒々しくて、ここにはいない平野への憎しみをぶつけているかのよう。ぐさりと苺とタルト生地をまとめて突き刺して口に運びながら、彼は続ける。


「平野の小父おじさんも教師やってたんですよ。田舎のことだからステータスというか、一目置かれる存在でね。で、たっくんも成績は良くて声が大きかったから優等生扱いでした。それでそのまま教師に、ですからね。エリート扱いです」

「……あまり、仲が良くなかった……?」


 大川先生の前に置かれた皿から、デザートの盛り合わせがどんどん消えていく。一方の私は手をつけることができないまま、彼の話に聞き入ることしかできない。平野との繋がりを言い当てることで先制攻撃に成功したはずが、どうも話の流れが思ったようにいかないのだ。

 ルビーちゃんを殺したのは、私への意趣返しだと思っていたのに。過去のことを思い出させて怯えさせようという。それか、大川先生も平野や――私のように、他者を虐げて悦ぶ嗜好があるのかと思っていたのに。でも、彼の声に滲む、平野への憎悪は本物のように聞こえた。あんな奴だからそれ自体は全く不思議ではないのかもしれないけど。

 でも、そうだとしたら大川先生はあいつに協力して私の情報を流したりするだろうか。脅されていた? いいや、大川先生だって立派な大人、それも男性だ。言いなりになったりしないだろう。


 そうだ――平野は、かつて勤めていた私の母校の周りをうろちょろして不審者扱いされていたのだった。さっき考えたばかりじゃないか。それは、私の居場所を知らないからだ。幼馴染の香奈子とやり取りしたメッセージが瞼の裏に明滅して、アルコールと相まって酔ってしまいそう。そうだ……この人が平野に協力しているとして、それはごく最近からのことになるはず。

 まだ全貌が見えてこない。怖い――違う、怖くない。落ち着け。落ち着いて相手の狙いを見極めなくちゃ。


「僕みたいな歳下の親戚なんてもう奴隷扱いでしたからね。そりゃ、こっちもそれなりの歳になってからは距離を置くこともできましたが。まあ好きになる理由はないですねえ」


 黙りこくる私を他所に、大川先生は盛り合わせを半分ほど平らげてフォークを置いた。そして浮かべた微笑みは慈愛に満ちて爽やかで嬉しそうで――とにかく、この場に似つかわしくないものだった。それはもう吐き気がするほどに。


「――だから、『麻野あさの夕実』さんには感謝してました。見事にあいつのプライドをへし折ってくれたわけですからねえ」

「そのことも、ご存知でしたか……」


 フルネームで呼ばれたのも気持ち悪い。それに、私の過去までも知られていたなんて。大川先生の声の調子は、単に私の名前を呼んだのとは違っていた。顔も知らない相手の名前だけを知っている時の調子――つまり、平野が私の名前を語っていたのを聞いた、ということだろうか。それは、やはりあいつは私がやったことに気付いていたということになる?


「実家の辺りでは評判でしたよ。あのたっくんが生徒の、それも女の子にひどいことをさせてクビになったらしい、って。小母おばさん――あいつのお母さんなんか泣いちゃって。小さな子にそんなことしただけでも恥ずかしいのに、辞めることになったのをその子のせいにするなんて、って」

「…………」


 大川先生の──平野の周辺の話を聞いて、私は相槌を打つことさえ忘れてしまっていた。だって、みんな、気付いていたのだ。私が上手くやったつもりのことを。田舎の年寄りでさえも! あいつの自業自得ではなく、私のせいで平野がクビになったのだと、こんなにも当たり前に語られていたなんて。では、平野は私のことをなんて言っていたのだろう。そしてそれを聞いた大川先生は、なんて思ったのだろう。

 その答えは、すぐに明らかになる。


「たっくん、ことあるごとに言ってましたよ。麻野のせいだ、あいつが全部悪いんだ、麻野夕実を許さない、って。

 まあ、逆恨みだろうとは思ってたんですけど。子供のすることですからね。計算してやった訳でもないだろう、って。でも、とにかく『麻野夕実』さんはよくやってくれた訳です。あの後たっくんは定職にも就かないでふらふらするばっかりで――小さな女の子がそこまで人の人生を狂わせられるって思うと、すごいな、というか」


 大川先生はそこで言葉を切ると、はにかんだように微笑んだ。


「僕はずっと貴女に憧れていたのかもしれません」


 告白のような言葉に、でも、ぞわりと鳥肌が立つのが分かる。私は思わず椅子を引いて大川先生から距離を取っていた。怯んだところは絶対に見せない、なんて決意は生理的な嫌悪感の前には無意味だった。出会う前から勝手な思いを抱かれていたと聞かされて、構えないことなんて不可能だ。何年もの間、私はこの人のことを気さくな同僚だと思って過ごしてきたのだ。つい最近になってその印象は崩れ去った訳だけど、でも、一体いつから私は――どんなものか、はっきりと掴めた訳じゃないし分かりたくもないけど――目で見られていたのだろう。


「私と最初に会った時――」

「あ、もちろんそこで舞い上がるほど馬鹿じゃないですよ。同姓同名だなって思って、意識はしましたけどね。――食べないんですか? 美味しいですよ」


 大川先生の目と手ぶりで促されて、私は深く考えることもできずにスプーンを取ると、溶けかかったシャーベットを一口掬った。冷たい果汁で唇が濡れる。ナプキンで拭う。そんな仕草のひとつひとつも凝視されているのが分かって気持ち悪い。


「……でも、話しているうちにだんだん、ああ、あの『麻野夕実』さんだ、って分かったんです!」


 嬉しそうに声が大きくなっていく大川先生を前に気持ち悪さは強まっていって思わず口を押える。この数年に渡って、彼と交わした雑談の内容なんていちいち覚えてはいない。でも、多分どの辺の出身だとか、子供の頃の思い出だとかに触れたこともあるのだろう。そんな何気ないはずのやり取りから、彼は私と、嫌いな親戚を追い詰めた小学生を重ね合わせていったのだ。

 それに――そう、思い出した。確か春山夫妻が学校を訪ねて来た日の後、ティーセットを洗いながらの会話だった。私ははっきりとヒントめいたものを漏らしてしまっていた。


『昔……小学校の時だったかな。クラスでネズミを飼っていて。でも、ちゃんと最後まで面倒を見てあげられなかったことがあったんです』


 生物部でマウスを生餌にすることへの理由として、もっともらしく聞こえよくなるように言ったはずだった。でも、平野やあいつの性格、それにあの事件まで知っている人間からすれば、真相はどうだったか明らかだったろう。いや、あの話をした時には大川先生はもう私があの「麻野夕実」だと確信していたのか。だとしたら、素知らぬ顔でうそぶいた私のことを、いったいどう思ったのだろう。


「で、そうなると見ちゃいますよね。憧れの人が目の前にいるんですから。そうしているうちにまた気付きました。夕実先生、ネズミが食い殺されるのを見てとても楽しそうだったでしょう。こういうのセクハラになっちゃうかもですけど――エッチで感じてる時みたいで、こっちもドキドキしちゃいましたよ」

「止めてください……!」


 大川先生の愉しげな口調と表情が耐えきれず、私は声を上げた。毅然とした声ではなく、明らかに悲鳴なのが情けない。でも、彼は手を緩めてはくれなかった。にこにこと、この上なく楽しそうに──続ける。私の本性を、暴き立てる。


「そしてもう一つの新発見です。この人はたっくんと同じだ! 虐めることが大好きで大好きで仕方ない人だ! ああ、でもあいつと違って夕実先生は可愛いんですよねえ。女の子だからかなあ。回りを見下してる強気なところも良いんですけど、割と見えちゃってるし。そういう迂闊さというか、抜けてるところが良いのかなあ。不思議だなあ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る