第29話 誘い
それでも日中は
そもそも
大川先生は、一体どこまで見えていて何を企んでいたのだろう。
春山
春山美波だけなら、まだ突然現れて縄張りを荒らす存在として簡単に敵視することができた。でも、大川先生は違う。もう何年もの間、同僚として毎日のように顔を合わせてきた。他愛ない話もしたし、愚痴をこぼしたこともある。それほど深い関係ではないつもりだったけど、でも、私の日常に溶け込んだ存在だった。それが今、急に怪物に姿を変えた。春山美波のひと言で、私の日常がひっくり返された。これがあの女の作戦だとでも信じることができれば良いのだけど――厭なことに、私には心当たりがあるのだ。
脅迫状。昨夜、これ見よがしに現れた黒い影。いずれも春山美波の差し金ではあり得ない。彼女の母は、娘や夫には内緒で私の住所を入手したはずだから。大川先生なら私の住所を知っているし、男性である以上はあの影の正体である可能性もゼロではない。
でも、それでも分からないことがまたひとつ。脅迫状の文面――あれは、平野でなければ書けないのだ。私がネズミを溺れさせたと知っているということは、それが意味することは一体何だというのだろう。
「
私を呼ぶ声に我に返ると、
「え、ええ。大丈夫。ごめんなさい、ぼんやりしてたみたい……」
「先生も大変そうだよね。特に夕実先生は……あいつ、疫病神みたいだな」
露骨に顔を顰めた彼が言うあいつ、とは春山美波の母親のことだろうか。そういえば最初にあの女性が押しかけて来た時、取り次いでくれたのは葛原君だったか。それで良い感情がないのかもしれない。
「……あの人も大変だったみたいね。ストレスとかあったのかもって思うと、あんまり悪くは、ね……」
春山家の事件の、大まかな概要はどこからか学校全体に広まっている。だからこれくらいの言及が無難なところだろう、と。私は外面を繕って言葉を濁してみせた。高校生にもなれば、仮にも教師が保護者――しかもこれから傷害事件の被害者にもなるかもしれない――を、悪く言うことはできないだろうと察してくれるだろうと思って。
でも、葛原君の語気は収まらず、乱暴な手つきで水槽を洗っている。
「俺、春山もあんまり好きじゃなかったんだよね」
「え、なんで?」
「なんか嘘くさくて。愛想は良いけど目は笑ってないし。何か、良い子に見られようとしてすげえ演技してる感じ」
「そう、かなあ……」
「そうだよ。だからぶっちゃけすっきりした。親子そろってヤな感じでさ」
「……そうだったの」
この子も意外とよく見ている。昨晩からの緊張や不安や混乱を一時忘れて、私は感嘆せずにはいられなかった。教師としては
お前だって本性を見破られていたぞ、と。春山美波を嘲笑う気にはなれないけれど。だって今の私はすっかり自信を失くしてしまっている。私の演技は完璧だと思っていたのに、少なくともふたり――いや、三人には見透かされていたのだ。春山美波とその父親と、それに多分、大川先生。それなら、四人目がいたっておかしくないんじゃない? 私を慕ってくれていると思っていた葛原君、その彼も――彼だからこそ? ――私の本性に気付く、なんてこともあるのだろうか。もしそうなら、私は一体どんな顔をすれば良いというのか。
「でも、あんまりひどいことは――」
迷いながら、未練がましく。常識ぶったことを言おうとした時。私の声は、扉を引き開ける音に遮られた。
「あ、いたいた。やっと見つけた」
そして同時に聞こえた能天気な声に。能天気なのに、私を震え上がらせるのは、もちろん――
「大川先生……!」
同僚のはずの人に対しての、引き攣った悲鳴じみた呼びかけに、葛原君が不審げな顔をするのが見えた。でも、身体が身構えるのを止められない。大川先生は、私をわざわざ探していると言ったんだから!
「……何すか。今、忙しいんですけど」
私の動揺を察してくれたのだろうか。大川先生と私の間に進み出てくれる葛原君が頼もしい。でも、見た目上はにこやかにしているだけの大川先生に、掴みかかることなんてできるはずがないのだ。
「ごめんごめん。麻野先生がなかなか見つからないから、ここかなって思っただけで。すぐ済むから」
「何か、ご用でした……?」
何気なく――多分そう見えているはず――首を傾げながらも、心臓がどきどきと言っているのが分かる。生徒の、葛原君の前ではおかしなことをしないだろうとは思いたいけど。
私の緊張は悟られているのかいないのか。大川先生はにこにことしながら心配そうな声を出すという器用な真似をやってのけた。
「春山さんのこと……大変でしたね」
「……ええ。まさか、あのお母様が。驚きました」
これは焦らされているのか、はたまた鎌をかけられているのか。警戒を解かないまま、私は慎重に答えた。春山家の事件は、校内では話題になっているとしても、私には直接関係のないことのはずだ。夫妻でのクレームめいた訪問に、生物部に入り浸っていた娘の美波と、全く縁がなかったとは言わないけど。でも、大変でしたね、という言及は明らかにおかしい、気がする。今回の事件と私とは、全く関係がないはずなんだから。少なくとも、周囲からはそう見えているはず。私が春山さんと話したこと、夫や娘との対決を唆したことは、私と本人しか知らないことだ。
あるいは、あの男ならまた別……だろうか。私が春山さんを見送るところも見つめていたであろう、あの黒い影だったら……? もしもこの人が、息を潜めて私の部屋を窺っていたら……?
「麻野先生は色々ありましたからね。本当に、あんなことになるとは思わなかったでしょう」
でも、仮にあの影がこの人だったと仮定しても。今朝の春山美波とのやり取りは、この人が知っているはずがない。なのに、私が疑いを持ったのを知ったかのようなタイミングでこの物言いだ。色々、だの本当に、だのといった単語に、妙に含みがあるような気がするのは穿ちすぎだろうか。春山家の事件も、今現在味わわさせられているこの不安も、確かに私は全く予想だにしていなかった。それを、嘲られているような気さえしてしまう。
「ええ、本当に」
私も、相手に倣ってわざとらしいほどゆっくりと答えてみる。こんな気分にさせられるなんて思ってもみなかった――なんて、匂わせたところで嫌味にすらならないだろうけど。
一瞬の間だけ、沈黙が降りた。私と大川先生の間で探り合うような。あるいは、何の意味もないかもしれない気まずさを破ったのは、葛原君のぶっきらぼうな声だった。
「用って春山のことなんすか? あいつ、部員じゃなかったし……夕実先生に言われても困ると思うんですけど」
目下、私を怯えさせている人、それも仮にも教師に対して、葛原君は驚くほど刺々しい物言いをしていた。全くいつもの彼らしくない。私を守ってくれるつもりというなら、喜んで良いのだろうか。とんだ
「ああ、ごめんごめん。皆騒いでるからつい、ね。春山さんは夕実先生が好きみたいだったし」
生徒の生意気な態度を咎めることなく、大川先生は苦笑すると頭を掻いた。厭になるほ彼らしい――つまりは、私がそう信じてきた――仕草だった。でも、改めて私に向けられた微笑みを、そのままに受け取ることはもうできない。
「いや、大したことじゃないんですけどね……麻野先生を、今週末にでもお食事に誘いたいなあ、なんて……」
「はあ?」
大の男が頬を赤らめて身体をくねらせるようにもじもじとして打ち明ける――その姿に、私ではなく葛原君が胡乱な声を上げる。私も、彼と同様呆れ顔で窘めることができたらどれだけ良いか。
「ちょっと、大事な話をしたくてですね」
でも、私には笑うことなんかできやしない。大川先生の目は、それこそ笑っていなかったから。細められているようで、鋭く私の顔色を窺っている。観察している。やっぱり私が避けていたことにも気付いているのだろう。
「大事な話、ですか……」
「ええ。ふたりきりで」
大川先生がちらりと葛原君の方を見た。邪魔者がいないところで、と言ったも同然のその言葉に、葛原君の若々しい頬が強張った。
「ダメ、ですかねえ?」
首を傾げて見せてはいても、大川先生は私が断ることなど想定していないように見えた。その自信たっぷりさは、でも、腹立たしいことに当たっているのだ。
この人のしようとしている大事な話。昨日の今日だ、ただの告白なんかではないのだろう。何を言われるのかという怖さは、ある。――でも、私は同時に抗いがたい魅力を感じてもいた。即座に首を振らないのは、葛原君の手前、過剰な反応を見せることができないというのもあるけど、それ以上に真相が知りたいという思いがある。
不安や恐怖を拭って安心したい。そう、正体が分からないから怖いのだ。分かってしまえば対処もできる。私は、もう一度勝たなければならないのだ。
「ええ、お誘いありがとうございます。……喜んで、伺いますね」
少し震える声で、それでも微笑みを作って頷いて見せると、目の端で葛原君が驚いた顔をしたのが見えた。
「ありがとうございます。詳細は、後でメールしますね」
大川先生は、そんな葛原君にまた目をやりながら言った。お前には教えないぞ、という意味か、それとも私に向けて逃げられないぞ、と言いたいのか。
「ええ。お願いします」
「こちらこそ」
大川先生が嬉しそうに笑って生物室を後にした瞬間。扉が閉まるか否かというタイミングで、私は口元を抑えてよろめいた。
「夕実先生……!?」
あるいは、よろめいた振りをした。思わず、という風に手を伸ばした葛原君に頼らなくても、自分で立っていることくらいはできる。それくらいのバランスだった。そう、本気で怯えたり気分が悪くなったりした訳じゃない。あくまでも演技のことだ。私は、決して大川先生に気圧されてしまった訳じゃない!
「ごめんね、ちょっと――」
口もまともに利けない、そんな風を装いつつ、私はあえて葛原君の手に身体を預けた。歳上の女、それも教師に自分から触れるのは躊躇っていたであろう彼に一線を越えさせて、私の体温と匂いを教えてあげる。小さく息を呑む音が、耳のすぐ近くに聞こえた。
「夕実先生、どうしたの? 春山と、大川先生と何かあったの?」
いつになく上擦っている葛原君の声に、彼の動揺と余裕のなさがはっきりと表れていた。でも、余裕がないのは私も同じ。もはやなりふり構ってなんかいられない――生徒だろうと、利用できるものは利用しなければ、と。一瞬で計算を巡らせた結果のこの体勢だった。
「何でもないの。本当に」
悔しいけど、意識して演技するまでもなく私の声は震えていた。大川先生の大事な話とやらが何のか、ふたりきりになったら何をされるのか、考えると完全に平静を保つのは難しかった。
だから、何でもないはずはないと、葛原君にもはっきり分かったはず。少し空気が読めない節はあるけど、この子は私に特別な感情を持っているのは間違いない。そうなるように、今まで声をかけてあげてたんだから。
「そんな訳ないじゃん! 夕実先生、顔、真っ青だよ!?」
案の定、というか。葛原君は憤ったように声を荒げた。私を突き放すことはしないのは、心配でそれどころじゃないのか、役得だとでも思ってるのか。どちらでも、多分私には都合が良い。私はちゃんとこの子をコントロールできてるということだから。彼は、しっかりと釣り針にかかってくれたのだ。
「俺に何かできることない? 俺で良ければ、何だってするよ……?」
いかにもはっきりと言うことができなくて顔を背けている、といった風を装いながら、私は密かに嗤った。揺らぎかけていた自信を、取り戻すことができたがための笑みだ。春山父娘に、大川先生。私の全てを見透かされていたような不安が、多少なりとも和らいでいく。他人を思いのままに操る喜び、そう、これだ。これがあるから、私は私なのだ。この快感のためなら何だってするし――邪魔する者がいるなら、絶対に戦って、排除してやらなくては。
「じゃあ──葛原君。お願い、できるかしら……?」
牙を剥くような闘争心は、弱気の仮面の下に隠して。私は葛原君に甘く囁いてあげた。
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