第19話 捨てられていたもの

 ゴミ捨て場は校舎の裏手にある。各教室から出るゴミ、食堂から出る生ゴミ。職員室からは印刷ミスしたプリント類が大量に出るし、庭木を剪定した時の枝葉なんかもある。当番の生徒がゴミ袋を運ぶ時もあれば、専門の業者に依頼することもあるけれど、私は今回は自分で捨てに行くことにした。マウスの糞尿の混ざった寝藁も含まれているから、生物室に置いておく時間は短い方が良い気がしたし、ひとりになりたい気分でもあった。葛原くずはら君だけならまだしも、まだ気心の知れない一年生の部員に対して話題を選ぶのも面倒だった。マウスの歯の跡がどうこうと言い出した子だし、消えた赤ちゃんマウスのことについてはあまり触れられたくはない。

 それに、何より。ひとりでゴミ袋を提げて捨てに行く、というシチュエーションは、あの夜のことを思い出させる。あの夜、マウスの死体を始末しようとした帰り、自室に脅迫めいた手紙が届けられているのを見つけた時のことを。私の家にまで平野ひらのの手が伸びていることを知らされて、凍り付いた――あの瞬間を反芻すると、また動悸がしてくる気がする。


 でも、こんなことではいけない。そんな、平野なんかに感じる恐怖は、乗り越えなければならない。マンションの薄暗い共用廊下と、まだ日も高い学校で新緑に囲まれた今の景色と。状況は全く違うけれど、似た行動を重ねることで大丈夫だ、と自分に言い聞かせるのだ。

 この辺りは人気もなくて鳥の鳴く声さえ聞こえる。爽やかな初夏の風は心地良くて最近の厭な出来事も忘れさせてくれる。――ほら、全然怖くなんかない。何も怯えることなんかない。平野は今の私もどこかで覗いているのかな。学校のホームページで私の存在を知ったなら、ここにも来ていると思った方が良いだろう。この学校でも不審者注意の連絡が回ったりして。


 そうなったら、ストーカーとして訴えてやるのも良いかな。単純すぎてつまらない気もするけど。もっと、あいつのなけなしのプライドをへし折ってやるようなやり方がないかな。でも、いざとなれば女の私の立場が強いということで、そこは強みと思っていて良いはず――

 と、そんな妄想めいた物思いは、衣擦れの音によって醒めさせられた。一日の間に数え切れないほど聞く、制服のスカートが奏でる音だ。ただ、ここは一般生徒は用なんてないはずの放課後の校舎裏、しかも現れたのは、私が一番会いたくないだった。


「あ、夕実ゆみ先生せんせ!」

春山はるやまさん……」


 私が顔を顰めてしまったのにも気付ていないのかそれとも無視しているのか、春山美波はにこりと笑うとこちらへ駆け寄って来た。まだ新しい学校指定の鞄を下げた姿は、校門の辺りで見たとしたら全く違和感がなかったのだろうけど。


「部活でしたあ? もう終わり?」

「……今は活動自粛中よ。動物たちの世話だけしてきたの」


 餌やりや水替えも含めて彼女は部活と表現したのかもしれない。でも、私の認識ではルビーちゃんの事件のせいで生物部の活動は休止させられている状況だ。葛原君は稀な例外でしかなくて、仮にルビーちゃんを殺した犯人が見つかったとして、元通りの部活動ができるかどうかは果てしなく怪しい。そう思うと、春山美波に対する視線も厳しいものになる――でも、それにも、彼女は無頓着にへらへらとした態度を崩さない。


「お疲れ様ですぅ~。私も今度行って良いですか?」

「部員で当番にしてるから。部員じゃないのに来てもらわなくても大丈夫よ」

「あ、じゃあ正式に入部しようかな。私、まだどこも入ってないんで! 夕実先生好きだし~」


 だから私を気安く名前で呼ぶな。それに白々しいことなんて聞きたくない。同性の相手に対して好意を口にして、それで機嫌を取れるとでも思っているのだろうか。

 この学校では部活動への参加はかなり生徒の自由に任されている。それぞれの活動に支障がないなら複数の部に所属するのも許される一方で、勉強に専念するために帰宅部で通す生徒もいる。慎重な生徒なら、五月のこの時期まで部活動を決めていないことも十分あり得ることだった。入部候補者となればどの部活でも手厚く扱われるものだし、友人がいるところで面白そうなら、と様子を見ることもあるだろうから。

 だから、入部云々も、状況次第では恩を売ることになるのかもしれないけど。この女なりに、媚びようとしているのかもしれないけど。でも、こと春山美波に関してはお前が言うか、という気分が強い。生物部の活動が危機に瀕しているのは、あの事件のせいだというのに。


「お母様は反対されるでしょう。勝手なことをしないほうが良いわ」


 拒絶の意思を込めて強い口調で言うと、春山美波はやっと私の不快に気付いたようでちょっと顔を顰めた。でも、それは私に対するものというよりはあの母親に対する感情のように見える。


「……あんなやつ、関係ないですよ。いつも勝手に騒ぐんで。私や父が叱ってるんです」


 吐き捨てるような物言いは、実の親に対するものとは思えなくて眉を顰めさせられる。それに、ひっかかるのはいつも、という言葉。ルビーちゃんの事件の後、応接室で親子喧嘩を見せられた時も思ったけれど、春山美波の母親はやはりモンスターペアレントというやつなのだろうか。ならば娘が疎ましがるのも当然、なのか。でも、父親は最初妻に同行して学校に乗り込んで来たのに……?


先生せんせ、ゴミ捨てですか? 私、行ってきましょうかぁ?」

「いいえ、大丈夫」


 思考を彷徨わせた隙を突くように、春山美波がぐいと近づいて顔を覗き込んでくる。その距離感の近さが煩わしくて、顔を背ける。このゴミ袋にはマウスの死体なんか入ってないのは分かり切っているけど、この生徒の手を借りるのはどんな些細なことであってもご免だ、と思えた。ほとんどひったくるような勢いで、伸ばされた手を辛うじて避ける――と、疑問が頭を過ぎった。


「……そういえば、何をしていたの。もう帰るところなんでしょ?」


 そもそもこんな校舎裏で顔を合わせたのが不思議なのだ。何がある訳でもない、友人と一緒という訳でもない。まさか、私を待ち構えていたなんてことはないだろうけど。


「えへへ、散歩、みたいな? 図書館で勉強してから帰ろうかな、とか」


 不審の目を向けられたのは分かっているだろうに、春山美波はあくまでも無邪気に笑って見せた。若い――それも、可愛らしい部類の少女が笑顔で首を傾げれば、大抵はそれで済むことを知っているかのような表情だ。若さゆえの魅力を見せびらかすような態度も腹立たしいけれど、私もこれ以上問い詰めることも今はできない。


「そう。あんなことがあった後だから遅くならないようにしなさい。帰りも気をつけて」

「大丈夫ですよー。生物部、また行きますねえ」


 気安く手を振って、春山美波は私に背を向けて去って行った。ルビーちゃんの事件の後なのに怖がる様子がないのは、危ないことなどないと知っているからだろうか、という疑いを、私の胸に残して。


* * *


 春山美波は何かを捨てに来ていたのではないだろうか。


 そう思いついたのは、ゴミ捨て場についたその瞬間だった。散歩、だなんて言ってたけど、校舎裏に見るべきものがあるとは思えない。入学直後ならまだしも、五月の連休も過ぎたこの時期に、今さら校内探索もないだろう。図書館で勉強するなら、真っ先にそちらへ向かえば良い。当然のことながら、ゴミ捨て場は景観の点からも敷地のごく片隅に設置されている。つまりは、図書館とはまるで違う方向なのだ。

 そして私がここに来ることも予想できたはずがない。ルビーちゃんの一件以来のわだかまりで一瞬疑ってしまったけれど、私がゴミ捨てを申し出ることは生物室でのやり取りを盗み聞きでもしていなければ分からない。万一そんなことをしていたとしても、ゴミ捨て場に向かう私と鉢合わせになる形にするのは難しいだろう。


 だから、春山美波と鉢合わせたのは偶然だ。彼女もここに用があったのだ。それに、強引にゴミ捨てを代わろうとしたのもそういえば不審だったかもしれない。それは――何か、私には見られたくないものがあったからではないだろうか。

 その閃きを天啓のように感じて、私はパンプスの踵を高く鳴らしてゴミ捨て場へと駆け込んだ。

 ゴミ捨て場、と言ってもその辺の住宅街で見られるようにその辺にゴミ袋を積み上げる場所のことではない。特に「女子高校生由来の」ゴミの類は何かと扱いに気を遣うらしく、それなりにしっかりとした構造のガレージが建てられている。夜間にはシャッターを下ろして施錠されるが、まだ明るいこの時間だと入り口は大きく開いて生徒や教師の出入りも自由になっている。だから、春山美波が人目を憚って何かを捨てに来たとしても、全く無理も不思議もないのだ。


 生物室から持ってきたゴミ袋は取りあえずコンクリート詰めの床に投げ出して。不審なものがないか目を凝らす。ろくな照明も備えられていない場所だから、ジャケットのポケットから取り出したスマートフォンのライト機能を懐中電灯代わりにする。春山美波とはすれ違ったばかりだから、上の方に積み上げられたものを確認すれば良いのだろうか。それとも、わざわざ下の方に隠すなんてこともしたのだろうか。

 教室から出たのであろう、紙ゴミが主なもの。生徒の作品か美術部の書き損じか、スケッチのようなものが大量に丸められているのもある。悲惨な点数の答案、菓子類やパンの空き袋、回し読みでもしたのかれてボロボロになったマンガ雑誌。どれも怪しいものはない。ひとつひとつ袋を開けて中まで確かめるなんてできないし。


 思い過ごしだったか、あるいは、諦めるしかないのか。


 屈んでいた腰を伸ばし、往生際悪くスマートフォンのライトでガレージ全体を照らす――と、壁際に並べられたコンテナに目が留まった。缶や瓶や、資源ゴミの類を分別するためのもの。業者の方から、分別を徹底するように苦情めいた要請が来たことがあるのを覚えている。つまり、本来の表示を無視してゴミを放り込む者がそこそこいるということだろう。金属製のコンテナは、傍目には何が入っているかは分からない。単にゴミ袋をガレージに投げ入れるだけなら、生徒にしろ教師にしろ、奥まで入ってコンテナの蓋を開け、更に中を覗き込むことは少ないだろう。


 だから、もしかしたら――


 缶は赤。瓶は青。ペットボトルは緑。不燃ゴミに資源ゴミ――それぞれに色分けされたコンテナをひとつひとつ開けていく。缶、瓶、ペットボトルのコンテナは、正しく分類されたゴミしか入っていなかった。不燃ゴミも同様。そして最後に黄色く塗られた資源ゴミのコンテナを開けた時。……私は、もうあまり期待していなかったのだけど。でも、その諦めに反して、コンテナの片隅に不自然に突っ込まれたコンビニのビニール袋を見つけて、心臓が跳ねる。これ、なのだろうか。

 手を空けるためにスマートフォンをポケットにしまうと、灯りに慣れた目にはガレージの中が入った当初以上に薄暗く感じられた。外はまだまだ明るい時間だというのに。

 少し緊張しながらそのビニール袋に手を掛ける。軽くはない。菓子パンだとかの空き袋だけではない重みが伝わってくる。ただ、すごく重いということもない。何か濡れたというか湿ったものが入っているような感触もあって、中身の想像がつくようなつかないような、もどかしさがある。


 がさがさと、ビニールの音が思いのほか響くのが気になって鼓動が早まる。もしも他の生徒が来たら、なんて言い訳すれば良いのだろう。麻野先生がゴミを漁っていた、なんて。いいや、気にし過ぎか。私もゴミを捨てに来たところだと、正直に言えば良いだけだから。それで、分別をちゃんとしてないのがあるみたいだったから気になって、とでも言えば角は立たない。後ろめたく思うのは、後ろめたいようなことをしているから。それこそ春山美波のように、堂々と微笑んでいれば良いのだ。


 とにかく、軽く縛ってあったビニール袋の口を解いて、中を確かめ――私は、溜息を吐いた。袋の重みと感触から思い浮かべた幾つかの候補のうちのひとつが、まさに袋の中に入っていたのだ。春山美波が人目を憚ったのも、私を遠ざけようとしたのも理解できる、もの。でも、これをどう使えば彼女を追い詰めることができるかは分からない。

 数秒の間、考えた末に――私はスマートフォンをまた取り出すと春山美波が捨てたと思しきを撮影して画像を保存した。機械的なシャッター音もまた、過敏になった私の神経を刺激して心臓が痛むほどの緊張を感じさせた。


『夕実先生好きだし~』


 ゴミ捨て場を後にして校舎へと戻る道中、春山美波の声が耳に蘇っていた。それにへらへらとした馴れ馴れしいあの笑顔も。趣味の悪い冗談か皮肉めいた嫌がらせとしか思っていなかったあの言葉、あの態度。でも――目眩がしてくるような気さえするけど――あれは、本心からの言葉だったのかもしれない。何てことだ。

 春山美波が私の同類だという直感は多分間違っていない。でも、彼女の嗜好は私とは別な方へ向けられているのかもしれない。さっきのを見てそう思った。ならば、彼女にとってのネズミは、彼女の獲物は――

 ポケットに収めたスマートフォンが熱く感じられる。ライトを使ったことによる発熱のためだけではないだろう。保存した画像をどう利用すべきか、誰になら見せても良いか、よくよく吟味しなくては。せっかく手に入れた手札だ、使いどころを見誤ってはならない。


 そのためにも、もっと、春山美波のことを調べなければならないだろう。

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