第18話 見えないネズミ
1年E組の自習監督を請け負って、更に6限目を終えた放課後、私は生物室に足を運んでいた。といっても生物部の活動で、ということではない。ルビーちゃんの事件の後、犯人もまだ捕まっていないということで、生物部の活動は自粛することになっている。とはいえ動物たちを放っておく訳にはいかないから、
「
「お疲れ様。さあ、特に何もないんだけど」
軽い調子で声を掛けてくる
「夕実先生、元気出てきたなら良かったけど」
「私のことより──」
うっすらと、弱々しく見えるであろうように微笑みながら、だから私は露骨に話題を逸らした。十代も半ばの生徒からの同情や哀れみなんて、嬉しくもないし。
「葛原君、昨日も来てたでしょう。当番、押し付けられてない? 大丈夫?」
動物の世話だけに、部員全員を狩りだす必要もない。、教頭など「上」からの指示のもと、ふたり一組での当番制を採ることになっていたのだ。ひとりでもこと足りるくらいの仕事にそうするのは、頭数を増やして――何者にかは分からないけど――狙われにくくしようということなのか、それとも監視させ合うということなのかは判断が微妙なところだったけど。
さほど人数も多くない生物部ではあるけど、連日当番に当たるほど人がいない訳ではない。何より、負担が平等になるように調整したのを、私自身が確かめている。顧問として教師として、一応は心配した素振りを見せなければならないと思ったのだけど――
「いえ、俺から引き受けたんで。あんなことがあって心配だし。やる気がない奴らに来てもらってもな、って」
葛原君は、むしろ得意げに胸を張った。
「そうだったの」
ルビーちゃんの事件は、確かに部員たちにも動揺を与えている。怖くなったのか、この機に面倒になったのか。あるいは親に言われたのか本人の意思なのかは分からないけど、当番を降りたい――活動が再開したとしても退部したい、と申し出ている生徒もいるのだ。更に悪ければ連絡もなく当番の日に現れない子さえいる。やる気がない奴ら、とはそういう生徒のことだろう。部の存続にもかかわるかもしれない事態を、葛原君なりに案じてくれてでもいるのだろうか。
ううん、多分それだけじゃない。
「ありがとう。頼りにしてるわね」
「ん」
笑みを深めて、軽く肩を叩いてあげると、葛原君は少し頬を染めてそっぽを向いた。春山美波なんかと違ったこの素直さと分かり易さは微笑ましくて好ましい。動物たちへの責任感以上に、私にアピールする好機を逃したくないという気持ちが、手に取るように分かるようだった。
無邪気に私を慕う葛原君を見ていると、自信と安堵が深まっていくのを実感できた。大丈夫、私は優しい先生を演じることができている。平野や春山美波が何をしようと、そんな私の評判は、武器にも防御の手段にもなるはず。そう、信じることができるから。
水槽の水やマウスの寝藁を取り替え、ひと通り餌も与え終わることになって。一年生の女子がふと口を開いた。彼女も今日の当番、葛原君の相方にあたる生徒だった。
「
「……どうしてそう思うの?」
いかにも生物部らしい、というかおっとりとして寡黙な少女であることは既に知っている。だからいつもなら話しかける時は柔らかく優しい言葉を使うように気を付けていた。でも、今回ばかりは聞き返した私の声にも不審の色が滲んでいたかもしれない。だって、彼女の発言があり得ないことなのは私が一番よく分かっているのだから。
いなくなった仔マウスのうちの一匹は、猫の親子の血肉になった。そしてもう一匹の方は――こちらは、はっきりとは分からないけど。でも、春山美波が関わっているとしたら、どの道生きているとは思えなかった。
「あの、まだ生きてたら良いな、って」
「可哀想だけど、多分もう――」
この子は、そんなことは知らない。でも、どうしてそんなあり得なさそうな希望に縋ろうとするのか不思議だった。だから宥めようとしたのだけど、彼女は珍しく積極的に、マウスの飼料が入った袋を目の高さに掲げて見せた。
「でも、ほら。
確かにそのビニール製の袋の片隅には、ぎざぎざとした穴が空いていた。ネズミの歯形にそっくり――というかそのものに見えるのは、分かる。でも、私の眉が解けることはない。はっきりとした
「そうかなあ。俺、あの日ちゃんと蓋閉めたぞ? 日誌にも書いたし……ねえ、夕実先生?」
私の心中を代弁してくれるかのように、葛原君は疑わしげな声を上げてくれた。
入部したばかりで付き合いの浅い女生徒と違って、私を下の名前で呼ぶのは親しさの表れ。女生徒の発言に私が疑義を抱いているのを感じて、援護してくれているかのようだった。馴れ馴れしく図々しい春山美波とは違って、砕けた口調にも苛立ちを感じることがないのは、彼の好意を知っているからだろうか。この一年あまりで、お互い気心が知れているからでもあるだろうけど。
だから、彼の助け舟を幸いとして、私は何気なく首を傾げる振りをすることができた。
「そうね。葛原君がうっかりするなんてないだろうし……私も帰る前に確認したから。――それは、虫食いかなあ。殺虫剤置かなきゃかもね、授業中に出たりしたら嫌だもん」
「え、こんな歯形つきますか? そんなおっきな虫イヤです~」
「ゴキブリ、とかね。結構ちゃんと歯があるよ?
例の黒い虫は、女の子にはやはり効果絶大らしい。1年E組でのことを思い出して付け加えてみると、女子生徒は大げさに悲鳴を上げるとまるで汚いものに触れたかのように飼料の袋を放り出した。ショック――なのか何なのか――で、赤ちゃんマウスの行方もすっかり忘れてくれたらしい。
これ以上追及されることのないように。私は、床に屈むと撒き散らかされたペレット状の飼料を手でかき集めた。
「やだ、こぼれたらそれこそ虫の餌になっちゃう。ちゃんと掃除しなきゃ」
「あ、ごめんなさい、つい……!」
「先生、俺、
女子生徒がおろおろと立ち竦み、葛原君が掃除用具を収めたロッカーある部屋の隅へ走るのを他所に、私は飼料の袋の、食い破られたところをそっと指でなぞった。生徒に対してはあんなことを言ったけど、マウスが逃げて、しかも生き延びているなんてあり得ないと知っているけど、確かにその痕はネズミの歯が齧ったものとしか見えなかった。家で繁殖させているマウスに、うっかりメモとかをケージに引きずり込まれてしまった時の、あの齧られ方とよく似ている。――でも、ここで、学校で、その辺をうろついているマウスなんているはずがない。
春山美波は一匹逃がして放っただけ? 持ち帰るつもりがうっかり逃げられて捕まえることができなかった? ううん、仮にそうだとしても、まだ成体じゃないマウスが一匹だけで生き延びることはできないだろう。五月とはいえ、雨でも降れば朝晩はまだまだ冷えるんだから。
私はあの夜に脚に触れた、毛皮の感触を思い出していた。ふわふわとして温かい――普通なら可愛いと思っても良いはずの感触。でも、その時その場であり得ないというだけで、どれほどおぞましく恐ろしく思えたことか。あの時も、結局マウスが逃げた訳ではなかった……。
肌に蘇ってしまった感覚を拭おうと、ストッキングに包まれた脚をこっそりと擦り合わせる。私は、ネズミの幻影に怯えさせられてしまったのだ。家で――そして、ここでも。まるで、ネズミの幽霊が私の周囲をうろついているかのような。
これもあの平野の脅迫文のせいだ。溺れたネズミの祟りだなんて。自分でやらせておいて馬鹿馬鹿しい……!
そうだ、祟りなんてあり得ない。祟るというなら、蛇の生餌にストレス発散に、私は数えることもできない数のマウスの命を奪ってきた。それも主に娯楽のために。彼ら――人格を持つような代名詞で呼ぶこともおかしいけど――だって今まで化けて出たりしてないじゃないか。たまたま、人間のしたことで神経が過敏になっているから動物に魂があるんじゃないか、なんて思ってしまうだけ。だからやっぱり平野と春山美波のせいだ。
だから、私は毅然としていなきゃ。奴らにつけいる隙を見せちゃいけない。脅迫文で怯えてしまったからマウスの毛皮の幻を感じただけ。飼料を盗み食いしたのも、やっぱり何かの虫なんだろう。もしかしたら野生のドブネズミが忍び込んだってこともあるかもしれない。
「夕実先生、床も拭いたよ」
「ありがとう。ゴミ捨ては私がやっておくわね」
葛原君と一年生の女子が散らばったペレットを片付けている間に、私は気持ちを立て直すことができていた。平野のこと、春山美波のこと、考えなければいけないことは多いけど、だからといって普通の生徒からどう見られるか、外面のことも忘れてはいけない。大多数の生徒にとっては、優しい麻野先生でいなくては。
だから私は微笑むと、葛原君からゴミ袋を受け取って生徒たちを帰らせた。生物室の静寂はいつも通り心地良いもの。私の牙城。そう、怖いだなんて思うものか。
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