第23話 追い詰められたネズミ

「小動物から段々が大きくなっていく……」


 春山はるやまさんの色を失った唇が紡ぐのは、彼女の夫が言っていたことだ。今、事情を聞いてから思い返せば、彼は妻の醜態を十分に眺めたから場を収めることにした、ということだったのだろうか。よく言われるようなことを口にして、私に反論させることで妻に矛を収めさせた。さんざん焚き付けて学校に怒鳴り込ませてから梯子を外す――彼の振る舞いは妻の背中を撃つようだと、私もあの時良い気味だと思ってしまったのだ。

 では、私も彼の手の中で踊らされていた……? 得意げに長広舌を振るう小娘を、彼はどんな目で見ていたのだろう。この縮こまった女性と同じように、私も弄んでいたつもりだったのだとしたら。娘をよろしく、なんて言ったりして。あれは、父娘共演の手腕を誇ってたつもりだったのか。妻を母を嬲っただけでなく、部や私も掻き回してやった、ということか。それなら――


 許せない。


 熱く、灼けるような衝動が腹に宿る。あいつ、この私を獲物として見ていたのか。確かに話しやすい人だと、好意めいたものを感じてしまったのは事実だけど。でも、春山美波に対するのと同じこと、縄張りを侵したものは同類であっても追い出してやらなければ。


「そんなことはないんじゃなかしら、とは思っていたんです。それこそ先生の仰っていた通り……可哀想だけど、そうやって飼わなきゃけない動物なんでしょうから。だから、あの、蛇のことを聞いて怖いとは思ったんですが、生物部の生徒さんがやったなんて、とても……」

「――ご理解いただいて嬉しいです。部員もショックを受けていたところですので、私も感情的になってしまっていたかもしれませんが……」


 と、春山さんがぼそぼそと語り続けていたのに気付いて、私は慌てて相槌を打った。ルビーちゃんを軽んじるようなことをこの人が言ったのを、許す気も忘れる気もないけれど。でも、この場は理解を示して優しくしてやるのが良いだろうと計算が働いた。その方がこの人は饒舌になってくれるだろう、と。

 実際、春山さんはショック、と呟くと私に縋るように身を乗り出してきた。


美波みなみはショックを受けていないように見えたんです。怖いとかどうしようとか、言葉では言うんですけど、目は笑ってて。でも――学校の中で、刃物を使った事件があったのに!」

「お母様、ちょっと静かに……!」


 刃物だの事件だのという物騒な単語に他の客が振り向いたのが目の端に見えて、私は身振りで周囲を示した。他人の目も耳もあるところですよ、と。すると春山さんははっとしたようにきょろきょろとしてからすみません、と呟いた。この人が謝るのを、今夜はもう何度聞いただろう。

 少しでも気を落ち着かせようとするかのように、春山さんはコーヒーのカップを手に取って――でも、口に運ぶことはなくソーサーに戻す。かちゃかちゃという音が、彼女の不安を示しているかのように忙しなく響いた。


「美波は、言葉ではきついことを言うこともあるけど、ひどいことはしない子でした。ハムスターも可愛がっているし。お友達に怪我をさせたなんてこともないし。でも、主人の言葉を思い出すと……!」

「対象が大きくなっていく……?」

「はい。私は主人と娘の顔色を窺って、言葉の意味を汲み取ろうとしてしまいます。でも、それは美波も一緒で――いえ、逆に、というか。主人の言葉の端々から、どうすれば気に入られるかを考えて動いているような感じがすることもあるような気がして……」


 多分、彼女には不安を打ち明ける相手などいなかったのだろう。私が少し合いの手を入れるだけで、何倍もの言葉が返ってくる。春山美波やその父親の気質もやり方も、それだけ明らかになっていくよう。

 春山美波も、父親に操られていたのだろうか、とも思う。


 親子三人、テレビのニュースでも見ながら団欒をしている振りで、二匹の猫が一匹のネズミを弄ぶ遊びをしていたのだったとしたら。父親が娘に言う。傷害を起こすような人間は、その前には野良猫を殺していたりするそうだ。娘は顔を顰めてやめてよ、気持ちわるーい! とでも叫ぶ。

 その場はそれで終わり。でも、娘の心にははっきりと刻まれる。騒ぎを大きくするには被害者を大きくしていくのだな、と。応接室でのやり取りは、春山美波にも伝えられたのだろうし。母親を黙らせた父親の言葉を、啓示のように受け取ったということもあるのかもしれない。

 それはきっと、どうしてルビーちゃんが殺されなければならなかったかのか、という疑問への答えにもなる。応接室での春山美波の表情からして、あの女にとっては娯楽なのだろうとは思っていたけれど。それにしても、あんな大きな生き物を殺すのは手間もかかるしリスクも高い。なのにどうしてわざわざ、と不思議だったのだ。


 でも、意外と簡単なことだったのかもしれない。母親へのプレッシャー、また学校に押しかけさせるための口実に過ぎなかったのだとしたら。そして、春山美波が「おかしな母親を諫める良い子」を演じるための舞台を作ろうというだけだったとしたら。そういうことなら、納得できる。春山美波にとっては、ごく合理的な判断ということだったのだろう。


「先生……」


 ふと、生温かい息遣いを間近に感じて我に返ると、春山さんがほとんど腰を浮かせるようにして私に迫っていた。見開かれた目の血管が見えるほど、首を伸ばして。


「――麻野先生も美波を疑っていらっしゃるんじゃ……!? 私が、親があんなことを言ってしまったし……部員じゃないのに生物室に出入りしていたし。あの子の態度がおかしいの、気付いていらっしゃったんでしょう……!?」

「まさか、部員じゃなくても生徒ですから。美波さんもルビーちゃん――蛇を可愛ってくれていましたし。私は生徒を信じています」


 春山さんの狂気じみた視線を正面から受け止めて、私は心にもないことを言ってのけた。真面目な顔で嘘を吐くのは、平野ひらのの時にもやったことだから慣れたものだ。もちろん、内心では春山美波が犯人だという確信はかつてなく強まっているけれど。

 でも、追い詰めるなら自分でやるより人にやらせた方が良い。これも平野の時に学んだことだ。春山さんだって言っていたじゃないか。ひどいことはしない子、と。言葉で母親を虐げるだけで満足していたのももう過去のことだと、もう彼女自身が信じてしまっているのだ。


「でも……こうしてお会いできてちょうど良かったかも。美波さんのことで、ご相談したいことがあったんです」


 声に愉悦が滲まないように細心の注意を払いながら、私は心配そうな表情を繕おうと努めた。今こそを出す時だと思ったのだ。本当に……ちゃんと、画像に残しておいて良かった。

 春山さんの目が突き刺さるのを痛いほど感じるけど、焦らないように。わざとゆっくりとスマートフォンを取り出す。画像フォルダを呼び出して、例の画像を全画面に映し出す。春山さんに差し出す。


 元から青褪めていた顔が、更に色を失う様を見るのは楽しくてならなかった。私がゴミ捨て場のコンテナの中で見つけたもの、それを見て、この人が冷静でいられるはずがない。だって、私が撮った場面は、あまりにひどいものだから。


 栄養と彩りをよく考えて作ったのだろうと、一目で分かった。人参とアスパラの肉巻き。多分照り焼きにされて、つやつやとして。かやくご飯は煮含めて開いたらしい油揚げに詰められている。ほうれん草のお浸し。いちごは、もしかしたら別の器に入っていたのかもしれない。華やかさを添える、錦糸卵にミニトマト、サニーレタス。元は、可愛らしいお弁当箱に収まっていたのだろうに、無造作にぐちゃぐちゃにされて袋に詰められて、捨てられて。


 見つけただけの私でも眉を顰めてしまうのだ。作ったともなれば、一体どんな気持ちになるのだろう。歪んだ笑みを浮かべそうになる唇が攣るのを必死に抑えて、私は春山さんの表情を眺めた。


「美波さん、お昼はいつも食堂だって聞いていたので半信半疑だったんですけど。ちょうどゴミ捨て場で行き会うことがあって……美波さんの、でしたか?」

「私が作ったものです」


 春山さんのかさかさした唇が動くのを、私は悦びに目を細めて眺めた。猫撫で声で、いかにも心配して心を痛めているように装いながら。でも、私の感情は春山美波に近いのだろう。人が傷つき絶望するのを間近に観察することができるなんて、確かにこのゲームは面白い。


「いつも……じゃあ……」


 たまたま、一度だけのことでなく、春山美波は毎日母親の手作りのお弁当を捨てて昼食は買ったもので済ませているのだろう、と。春山さんは正しく察してくれたようだった。私のスマートフォンを持った手が震えるのを見て、ついもっと揺さぶってみたくなる。


「毎日食堂で、となるとお金がかかってしまいそうですけど。ちゃんと食べてるのかな。ダイエット中とか……?」


 日替わりで数種類のメニューを提供している食堂は、わが校の売りのひとつでもある。もちろん菓子パンやサンドイッチ、菓子などを置いている売店も自販機も備えている。生徒によって家庭によって、お弁当にするか買って済ませるか、それぞれの頻度は様々だ。春山家の収入なら、毎日食堂で賄ったとしても大した経費コストではないかもしれないけれど、母親がお弁当を持たせたつもりだったとしたら、食費がどうなっているのか気になるところだ。

 大川先生の口ぶりだと、春山美波は友人たちとランチを楽しんでいるようだった。多分ジュースや菓子も買ったりしているのだろう。一回一回は少額とはいえ、積み重なれば高校生には結構な負担になりそうだけど――


「主人がその分を渡しているんでしょう。欲しいものがある時は、その都度渡すこともよくありますし」


 私の予想と同じ見解を述べて、春山さんは長々と息を吐いた。春山家の父と娘は、妻を母を言葉でいたぶるだけでは済まなくなっていたのだ。決して食べられることのないお弁当をせっせと――多分、早起きしたりして――作る母親のことを、影ではどう言っていたのだか。まったく良い趣味をした父娘だと思う。

「私、美波がやったんじゃないかと思って……先生もそう思われてると思って……。美波も、そう言っていたんです」


 ことん、と。小さな音を立てて春山さんは私のスマートフォンをテーブルに置いた。色のない唇が紡ぐのは、私に対して語るというよりも言葉がただ漏れ出してでもいるかのよう。


 ――夕実ゆみ先生に嫌われちゃったかも。ママのせいだよ? あんなことするから、睨まれちゃって。部を滅茶苦茶にしようとしてるって、思われちゃったじゃん!


 ああ、やっぱりあの少女の方でも気付いていたのか。そして、その上で母親を追い詰める手段として利用していたのか。

 またひとつ、春山美波の言動が腑に落ちた。同時に、私はあることにも気付いていた。春山さんの口調が、どこか他人事のように淡々としていることに。私の部屋のチャイムを鳴らした時の必死さはもう見えなくて、ただ諦めたように静かに微笑んでいることに。


「でも、そこまでするはずはない、とも思いたくて。だから、お願いしようと思ってたんです。あの子を責めるのは待ってください、って。これでも親ですから……ちゃんと話して、あの子の言い分ももっと聞いて……もし、そうだった時は、自分から言わせるようにしますから、って」


 でも、もうそうするつもりはない、と。春山さんの虚しい微笑みは語っていた。

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