第10話 情報収集
職員室の自席で、私はまた業務とは関係のない画面を見ている。検索エンジンに私の名前を入れた、その検索結果だ。
ここまでは、確認のようなもの。私の名前と顔写真が公開されていると気付いた段階で覚悟していたことだ。問題は、平野がこのページを見つけ出す可能性がどれくらいあるかどうか。突然顔写真を取り下げて欲しいと言い出せば、校長や、あの教頭に変に思われるだろう。私の資質に疑問を持たれないような、適当な嘘をでっちあげなければいけない、そのリスクを冒してでも申し出る必要があるかどうか。
仕事をしている振りで、無意味にマウスのポインタを動かしてあちこちのサイトを覗きながら、今の私が抱く不安と懸念を整理してみる。といっても、具体的なものはたったのふたつ。つまり、突然過去から現れた
あの後、
インターネットブラウザを閉じ、私は今度こそやるべき業務に取り掛かる。気にし過ぎだ、と自分に言い聞かせながら。香奈子の言っていた不審者が本当に平野かどうかも分からない。万が一そうだとしても、子供の私にさえ陥れられたような奴だ、恐れるに足りない。マウスを持ち出したのは不審者かもしれないが、生物室にこそこそと忍び込んで小動物をどうにかするような奴が人間相手に何ができるとも思えない。いずれも、注意していれば大丈夫なはずだ。暗いところでひとりにならないとか、施錠を怠らないとか。だから私が感じるもやもやとしたざわめきのようなものは、不安や懸念なんかではあり得ない。
この思いは――むしろ、苛立ちや不快感に近いだろうか。遥かに弱く劣った存在に煩わされることへの。喉に小骨が引っかかったような、と言うことがある。けれど私にとっては消化不良のような、とでも言った方がピンとくるかもしれない。マウスを呑み込んでお腹を膨らませた蛇は、ひどく苦しそうで動きづらそうに見えることもあるから。そうだ、平野もマウスを盗んだ犯人も、蛇にとっての獲物のように取るに足らない存在のはず。容易く呑み込んで――対処できることのはず。
* * *
「春山美波ですか。優秀な子ですよ。確か入試でも上位の成績だったはずです」
「そうなんですか」
受け持っている訳でもない、部活動で関わる訳でもない生徒について尋ねた私に、大川先生は少し不思議そうに首を傾げながらも答えてくれた。彼は一年生の授業も担当していたはずだからもしかしたら、と思ったのが当たったらしい。大したことではないとは思いつつ、消化不良は煩わしいもの。だから、解消できるものならしたいと思って、私は少し苦手な相手にも話しかけてみることにしたのだ。食堂ではなく体育館の陰に呼び出したのは、せめて生徒や教員の目を惹かないように、と配慮してのことだ。部活が終わった後なら運動部の生徒たちでごった返すであろう自販機の辺りも、放課後すぐとあってかまだ閑散としている。
「小論を書かせてみたんですが、語彙がなかなかやるなあと思ったんです。結構本も読むんじゃないかなあ、あれは」
案の定というか。大川先生は促すまでもなく喜々として舌を回転させてくれた。邪険に接している、とまではいかないまでも、普段は私から彼に話しかけることがないから嬉しいのだろう。
だから春山美波について、私は余計なことまで知ることができた。私立だから電車通学が珍しくないこの学校とはいえ、聞くと少し驚くような距離の市に住んでいるとか。昼休みはお弁当ではなく食堂で購入することが多いようだ、とか。この先生も、生徒との距離は近い方なのだ。
「教室でイヤホンしてたから、何聞いてるの、って聞いたこともありますよ。そしたら――」
それにしても、大川先生の話は途切れることなく続く。途中からは口を挟む隙もなくて、私は缶コーヒーを啜ったり、意味もなく大川先生の服装を眺めたりしていた。例によってアイロンが甘いシャツに、足元はスニーカー。かしこまった服装をすることは少ない職場ではあるけど、赤いスニーカーというのはさすがに子供っぽくはないだろうか。笑顔でしゃべり続ける表情も、年齢よりも幼い印象も受けてしまう。
私が話しかけたから浮かれているのか――それとも、顧問の部活動を持っていない大川先生は、暇を持て余していたのかもしれない。もちろん、授業の準備だとか課題の採点だとか、やることは多いはずなのだけど。息抜きの方が楽しいのは、教師も生徒も変わらないもの、かもしれない。
この調子だと、生物部に顔を出すために抜け出すタイミングを窺うのに苦労してしまうかもしれない。
「クラスにも馴染んでいますしね。――そう、ちょっと麻野先生に似てるかもしれない」
「私に……? どういうことでしょうか」
話を打ち切るタイミングを窺っていた時――聞き捨てならない言葉を拾って、私は思わず声のトーンを一段下げた。大川先生の口調には、どこか揶揄する響きがあった。私のことを怖いだのと言う時と同じ口調だ。そもそも、十以上も歳下の少女に――それも、あの不躾な春山美波に――似ているなどと言われて、素直に喜べるはずもない。
私が目を細めたのに気付かないように、大川先生はあくまでも軽く明るく続ける。
「彼女、率先して発言するタイプじゃないんですよね。でも、ここぞと言うタイミングで挟んだひと言がクラスの雰囲気を掴んだりね。影の支配者っていうか。そういうところが――はは、冗談ですけど」
ここまで長々と語ってからでないと、私の不機嫌を察することができないなんて。これで国語教師を務めているのだから呆れてしまう。
失言を取り繕おうとでも言うのか、大川先生はまたわざとらしく笑うと、話題を切り替えてきた。少し上目遣いに、探るような目で。彼の方が背が高いというのに。
「……彼女が、何か?」
「いえ、あんな――親御さんがああだったのに、最近生物部に来てくれてるので。どういう子なのかな、と……」
これは口実などではなく、歴とした事実だった。チョコレートを持ってきたあの日以来、春山美波は――正式に入部した訳ではないけれど――頻繁に生物室を訪れて同級生や、時に上級生とも親しく話している。チョコレートで同級生や上級生に好感を持たせたこともあるのだろうが、距離感を詰めることの早さ巧みさは、確かに大川先生の評とも合致する。
彼女は、要は調子が良いのだ。実験や飼育動物の世話を手伝う訳でもなく、精々が目新しい自習場所を見つけた、という程度のスタンスに見える。でも雰囲気が明るくてその場が華やぐ。部外者が興味深げに――本気かどうかはともかく――目を輝かせて質問すれば、特に男子の上級生はくすぐられるものがあるらしい。そういう子は女子からは嫌われがちなものだけど、女子は女子でマウスの可愛さだとか、彼女が飼っているというハムスターとの違いだとかの話に花を咲かせている。
私としては、決して面白い状況ではないけれど。あの子がいると、私のペースが乱れてしまう。ケージの中のマウス同様に、全てを思いのままに操れるのが生物部だと思っているのに。影の支配者……? 子供っぽくバカバカしい響きだけど、そんな言い方を採用するなら、支配者はふたりもいらないのだ。
「お父様もお菓子をくださって。あの……この前の件のお詫びということで。逆に恐縮してしまったくらいなんですけど。ご家庭も含めて気になってしまったというか」
春山氏へのお礼の電話は、拍子抜けするほどあっさりと済んでいた。娘の春山美波が言った通りの時間に架けると、あの馴れ馴れしくも朗らかな声が出て。すぐに、落ち着いた紳士的な声に代わった。交わした言葉もごくごく常識的な通り一遍のもので、なぜこの夫にあの妻なのか、という疑問が深まったほどだ。お若いのに立派だ、色々あるだろうけど頑張って、なんて。チョコレートを贈ったことで済んだと思っているのか、妻のやったことを忘れたような、他人事のような言い分は娘とも似ていたとは思う。
とはいえ、春山氏には改めて娘をよろしく、と言われてしまっている。そして礼儀上快諾した手前、彼女を締め出す訳にもいかないのがもどかしい。私が築いたイメージを守るなら、興味を持った生徒には優しく接してあげるのが妥当な線なのだろう。
どうにかして春山美波も掌握したい。そして、また全てが思いのままになるという安らぎを快感を得たい。そのためにも、
「彼女なりに悪いと思ってのことだったり? ほら、お母さんが部に反対していたから、私は違いますよ、って言おうとしてるとか。麻野先生に気を遣ってるのかもしれませんよ」
「あのお母さんに知られたら、と思うと逆に気が重いですけどね。私の方が怒られそうで」
何しろ私は、春山夫人に内緒で夫と言葉を交わしさえしている。あの手の女性は、自分の夫を責めたり娘を叱ったりするよりも、責任を他者に求める方がありそうだった。どうして娘に蛇なんかの世話をさせたのだ、とか。下手をすれば泥棒猫呼ばわりもあり得るのだろうか。あの金切り声にまた付き合わされるのかと思うと、考えるだけでうんざりする。
「いやいや、麻野先生はよくやっていますし――」
大川先生が何か、また実のないであろうことを言おうとした時だった。私の耳に、ばたばたと走る音が聞こえてきた。次いで、私の名前を呼ぶ声が。
「麻野先生……! やっと見つけた……!」
「
ぜいぜいと息を切らしながら私たちのところへ駆け寄ってきたのは、他でもない葛原君だった。もちろん、生徒である以上は体育の授業もあるのだろうけど、私が目にする普段の大人しげな様子からは、彼がこんなに汗を掻いているのを見たことはなかった。
「来てください。生物室が、ルビーちゃんが……大変で……!」
彼が詰め寄る勢いに、大川先生が手を滑らせてコーヒーの缶を取り落とした。半ば以上空になっていただろうけど、それでも地面に黒い水たまりが広がる。それに浸されるのを避けようと、大川先生の赤いスニーカーと私の黒いパンプスが慌てて後ずさった。――そんなどうでも良いことが見えてしまうのは、事態に頭がついて行っていないからだろうか。
葛原君が喉に詰まらせながら辛うじて発した言葉は、あまり意味をなしていない。でも、彼の真っ赤な顔と慌てようが、言葉以上にはっきりと何か――本当に、大変なことが起きたのだと伝えてきていたのだ。
「……分かったわ。すぐに行きましょう」
訳が分からなくて大川先生と顔を見合わせたのも一瞬、私はすぐに我に返ると、葛原君に頷いて見せた。
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