第33話 決着?
言葉を失う私を前に、
「ずっと実家でぶつぶつ言ってますよ。
どん、と。顔の脇に大川先生が手をついた。私の名前を囁いたのは、ほとんど耳元で吐息のように。彼の息を頬や耳に感じて、彼の声に脳を揺さぶられて。どういうことなのか、理解が追いついてくれない。スマートフォンも私と彼の身体の間に挟まれてしまって、どこへ通報することもできそうになかった。
「地元に不審者がいるって、教えてくださってありがとうございました。夕実先生の地元と言えば、ですからね。
固まって、縮こまることしかできない私に、大川先生が噛んで含めるように囁いてくる。できるだけ顔を背けて、少しでもアルコール臭い吐息を感じることがないように息を詰めながら、私はまだ見落としがあったことを気付かさせられる。
職員室でSNSを見ていた時のことだ。あの時も、私は
考える余裕ができて、疑問を抱いたのが表情にも出ていたのだろうか。大川先生はああ、と呟いて首を傾げた。平野家の事情なんて、私が知る由もないと気付いたようだった。
「すみません、ちょっと分かりづらかったかな? 親戚の法事があるって言ったでしょう。あれ、亡くなったの、たっくんのお父さんです。退職金と年金があったから引きこもっていられたんですけどね、齧る脛がなくなったって訳です。夕実先生に教えてもらったから、探して取り押さえることもできたんですよね」
「そんな、教えたつもりじゃ……」
平野の父親が亡くなっていた。大川先生の言葉を頭の中で反芻する。それを知ると、また事実が繋がっていく。
幼い私の造反の後、職を失ったあいつは実家に頼っていたのだろう。親も教師だとか──その世代の公務員なら、息子を養うこともできるだろうか。平野は、実家の辺りでは優等生、エリート扱いだったと聞いた。そんな息子が一転して児童虐待から引きこもりか。親は嘆いただろうけど、でも、平野が改心することはなかった。ずっと私への恨みを抱き続けて――だから、親が死んだ後も心を入れ替えて職を探すのではなく、私を探すことを試みた。もしかしたら、父親の制止がなくなったからなのかもしれない。
だから平野は西小の周りをうろついて――不審者扱いされて――それで、同級生たちから私に忠告が回ってきたのだ。
事態を理解するにつれて、私の手脚は先からじわじわと冷えていった。それは──つまり、平野は私の情報をまだ知らないということ。大川先生こそ
「ね、たっくんが来ちゃったら怖いですよね。僕もずっと傍にいられる訳じゃないし。だからそんなことさせないでくださいよお」
くすくすと笑う声が、言外に告げていた。平野の人生は終わっている。もう後がないんだ。そんな人間が、憎み続けている人間の居場所を知ったらどうするか――自ら言葉を費やすよりも、私に、想像させようとしているのだ。その方が恐ろしいイメージを呼び起こすのを、こいつは知っている!
脅されている。その恐怖がかつてなく強く間近に私を縛っていた。怒りを感じるどころではないのが悔しかった。悔しいけど、逆らえなかった。
耳元で囁く吐息が生温くて気持ち悪い。でも、逃れようにも壁際に追い詰められてしまって行き場がない。この男の言い分を信じるなら、脅迫状なんかも私を怖がらせるためだけ、傷つける意図はなかったということなのだろうか。平野だったら……きっともっと容赦しない。十年以上に渡って溜め込まれて淀んだ憎しみをぶつけられたらどうなるか――それは、確かに怖いけど。でも、それでも。
嫌だ、絶対に。こいつに屈するのは。
質の悪さで言うならこいつは
「ぁ……」
嫌だ、ふざけるな、と。毅然として言ってやろうと思ったのに。なぜか舌が動かない。それどころか目眩もして真っ直ぐに立っていられない。何これ。急に酔いが回った? そんなに飲んでないはずなのに。
崩れ落ちそうになった時――腰に手が回されて、支えられた。
「薬、やっと効いてきたみたいですね」
「く、すり……?」
大川に──こいつなんて呼び捨てで十分だ──抱きよさられるような格好。囁くついでに頬にキスされて。突き飛ばしたいけど腕も動かない。声も遠くなってきたような。――これは、酔いなんかじゃない。
「この店、ボトル持ち込みOKなんですよ。思い出の一本だからって渡しておいて――ちょっと、細工を、ね」
ちょっとした悪戯を明かすかのような口調にぞっとする。
こいつは飲む振りだけで私にだけ薬を飲ませ続けてたのか。それに気付かなかったのは緊張していたから? こいつの言葉に集中して、挙動を見張るのは疎かになってしまっていた? それでもあまり飲まなかったから、今になって効いて来た? なんて間抜けだ! 一体何を盛られたんだろう。アルコールと一緒の摂取だ、市販の風邪薬だって重篤な副作用をもたらすかもしれないのに、なんて暴挙だ! でも、抗議も非難もやはり声に出すことができないのだ。
「さ、そろそろ行きましょうか」
大川に介抱されるような格好で――でも、実際には拘束されて――個室を出る。土曜日の夜だから店内には他の客も沢山いるはずなのに、ざわめきが遠い。足元も雲を踏むようにふわふわしていて。声も、相変わらず出すことができない。
レジに着いて、大川がカードを取り出す。他人が近い今が、助けを求める絶好の、そして最後のチャンスかもしれないのに、どうして私の身体は言うことを聞いてくれないの? ひと言叫ぶだけで良いはずなのに。私は、十分用心して備えて来たはずじゃなかったの? 店に入る前に送ったメール──返信まで確認しておけばよ良かった。バッグの中のスマートフォンに手を伸ばしたい。助けを、送らなきゃ。でも、それもできない。
「ちょっと酔ってしまったみたいで。タクシー、呼んでいただけますか?」
「かしこまりました」
店の人と大川とのやり取りに、感覚が鈍った肌も粟立った。タクシーに乗せられて、どこに連れていかれるのか。今の状態で車に乗ったら、逃げることなんてできなくなってしまう。
「ありがとうございました。お気をつけて」
「ごちそうさまでした」
大川はあくまでも好青年の体を保って店員と言葉を交わしている。その外面の良さは吐き気がするほど。それに、私もずっと騙されていたのだ。私や春山美波なんてアマチュアに過ぎなかった。素知らぬ顔で周囲の全てを欺いて、ここぞという時に牙を剥く。この男こそが捕食者なのか。私は、この私が、食われてしまうのか。
――そして、どうやらエレベーターホールまで引きずられたらしく、籠の到着を告げる電子音が耳に届いた。扉が開く気配。運ばれてきた夜の涼気が目覚ましになってくれれば、と切に思うけど、幾らかの風を感じたくらいでは私の意識も身体も覚醒してくれなかった。
「夕実先生、袋のネズミってやつですね」
くすくすと、大川が笑いながら囁く吐息が私の耳をくすぐった。気持ち悪い。何より、私をネズミ扱いするなんて! 許せない――そう思っても、身体は全く言うことを聞いてくれない。大川を突き飛ばすどころか、抗議の声を上げることさえできなかった。
エレベーターが動き出す。内臓を下に引っ張られるような感覚が、薬物による気分の悪さと相まって吐き気を催させる。不本意極まりないことに大川に
「どちらまで?」
「とりあえず――の方へ、お願いします」
ああ、タクシーが来てしまった。大川が告げた地名は彼の棲み処なのだろうか。年賀状を送ったこともあるはずだけど忘れてしまった。その程度の存在、その程度にしか気に留めていなかった男に、こんなこと……!
「さあ、夕実先生、しっかりして」
鼻をつくタクシー独特の車内の臭い。支えの腕を外されて、倒れ込んだ手で感じたのはビニールのシートの感触。強引に座らさせられて、隣に大川が来る。扉を塞がれて、更に閉められてしまう。そう、絶望した時だった。
「――
突風が吹いた、と思った。それに吹き飛ばされて、大川の身体が隣から消える。
「――ぅ、ん……?」
「夕実先生! 大丈夫!?」
急な事態に、朧な頭がついていけなくて。それでも顔を上げ目を開けて状況を見極めようともがく。そこを、腕を掴まれて車外に出される。まだちゃんと立てなくて頽(くずお)れそうになるところを支えてくれるのは、大川の腕では、ない。
でも、救い主の顔をきちんと見ることができる前に、
「何だ、突然……っ!」
「夕実先生に何してんだよ!」
「介抱していたんだ! 君は……生物部の子か。夕実先生のストーカーか!?」
「こっちの台詞だ、変態野郎っ!」
アスファルトの地面に倒れ込むと、掌に小石が食い込みストッキングが破れる感触がした。頭上で交わされる怒声も、鈍い音――殴り合っている? ――も怖くて、少しでも距離を取ろうと転がる。四つ足で、惨めに這うように。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
ぽん、と肩に手が置かれた。騒ぎが人目を惹いたらしい。知らない人の――通りすがりの――声だった。ごく当たり前に倒れた女を心配する口調に、希望の光が胸に射す。今こそ、力を振り絞らなくては。言うことを聞かない喉を舌を動かさなくては。
「あ……ぁ、すけて……たすけて、ください……!」
自分のものではないような掠れた情けない声。でも、確かに空気を震わせることができた。助けを求め
ることができた。
そう思った瞬間、私の頬を涙が伝っていた。
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