第15話 敵情視察

 あの脅迫めいた手紙のこと――警察に届けた方が、ともちらりと思ったけど、結局そうはしなかった。きっと文面の意味や心当たりについて尋ねられるであろうことが、面倒でならなかったからだ。祟りだのざまあみろだの、あんな短い文章なのに意味ありげな単語が多すぎる。

 そしてルビーちゃんのことや平野ひらのとの経緯についてのあれこれを答えでもしたらどんな反応があるか――想像するだけでうんざりできる。


 教師という肩書を見た時にまず人は身構え、次にその相手がただの小娘だと気付くと身構えさせられた分舐めて掛かろうとする。弱みを、落ち度を探す。若い女の一人暮らしに不穏な影を見つけたら、思わせぶりな態度を取ったんじゃないかとか隙があったんじゃないかとか言われるのは目に見えている。蛇を飼うこと、マウスを生餌にすること。いずれも眉を顰める人がまだまだ多いのは、教頭や春山母の言動からも明らかだ。警察に届ければ見回りくらいは約束してもらえるかもしれないけれど、どれだけあてになるかは分からないし。なのに忠告だの説教だのを食らって煩わさせられたら割に合わないことこの上ない。

 理由はほかにも幾つかある。例えば警察に対応していたら学校に遅れることになってしまうし、突然の欠勤の言い訳を上手くでっちあげる――本当のことなんて言えるはずがない――のがこれまた面倒だから、とか。あるいはゴミ箱にあるマウスの死体のこと、とか。二匹目のをしている間に収集車は行ってしまったようだから、警察を呼ぶとしたら私が殺した生き物の死体がある空間に招き入れることになってしまう。もちろん私の立場は被害者で、家探しされることなんてまずないのは分かっているけれど。そこは、何となく嫌だから、というやつだ。

 それに何より――


 警察の存在を見たら平野が委縮してしまうかもしれないじゃないか。それで復讐――だか何だか知らないけど――を諦めて、私の周りから消えてしまったら困る。だって私はもうやり返す気満々になっているんだから。幻のネズミが走るのを肌に感じるほどに怯えさせられてしまったなんて屈辱だもの。それも、平野相手に!

 どうやって仕返ししてやるかはまだ分からないけど、警察を間に挟むような穏当なものじゃない方がきっと楽しい。前の時のように、周りの人間を利用するのが良いだろう、と。それだけは決めているけれど。不審者と言われてしまうくらいだから、今のあいつはろくな人脈もないのだろうし。一方の私は教師として世間の信用を得ているはずだし。


 ――だから、この楽しみは当分私だけのものにしておかなければならない。


** *


麻野あさの先生、大丈夫ですか……!? 顔、青いですよ……」

「ええ、さすがにちょっと疲れたみたいで。でも、大丈夫ですから」


 職員室の自席についてパソコンの電源を入れるかどうかのわずかな間に、大川おおかわ先生が心配顔で駆け寄ってきた。目の下の隈やくすんだ肌をメイクで完全に隠すことはできなかったから、私はいっそ隠さないことにしたのだ。ルビーちゃんのことがあった後、そもそも蛇なんか飼うからだ、と的外れの八つ当たりをしてくる教師もいないではなかったから。先手を打って弱々しい姿を見せた方が攻撃されにくいと思ったのだ。だからこれは歴とした戦術のひとつ、見た目とは裏腹に、今の私の頭はむしろ冴えている。平野の手紙なんかで怯えさせられた鬱憤は、マウスできっちり晴らしてやった。闘志を新たにした高揚で、眠気を覚える隙などない。


 でも、傍目には窶れたメイクの効果は抜群のようだった。大川先生は眉を寄せて、言葉に嘘がないか確かめようとするかのように私の顔を覗き込んでくる。例によって煩わしい距離感ではあるけど、ちゃんと意図通りの姿に見えていると確かめられるのは悪くなかった。


「無理はしないでくださいよ。……ルビーちゃん、可愛がってましたからね……」

「そうですね……まだ、立ち直れていないのかもです」


 弱気や不安を装うなら、苛立ちを見せてもいけない。だからもどかしくはあったけど。ルビーちゃんのこと軽々しく口にする大川先生の気安さは、普段以上に気に障った。あの子が私にとってどんな存在だったかも、私の気持ちも知らないくせに。

 ルビーちゃんの最後の姿が脳裏をよぎって、体温がすっと下がる。でも、無神経な発言への反発ですぐに頬が熱くなった。チークをかずに血色の悪さをアピールしたのが無駄にならないか心配で俯くと、頭上から大川先生の声が降って来た。遠慮がちなのにそれでもどこか馴れ馴れしくて図々しい、彼のいつもの調子だった。


「あの、大変な時に申し訳ないんですが……ちょっとお願いしたいことがありまして」

「……何でしょうか」


 くだらないことだったら体調を理由に断ってやろう。そう決意しながら顔を上げる。すると大川先生ははにかんだような表情で頬を掻いていた。年齢に似合わない子供っぽさだ。女子生徒には好意的に見る子もいるのかもしれないけど、私にはやはり鬱陶しいとしか思えなかった。


「実は今日、午後休みを取ってるんです。親戚の法事みたいなことで。なので、ひとコマ、自習の監督をお願いしたいんですが」

「法事……こんな平日に、ですか……」


 受けるかどうかの判断の前に、休みの理由が唐突でまず首を傾げてしまった。私にもそれほど経験がある訳ではないけれど、法事というのは親戚が一堂に会するものだろうと思う。それならせめて休日にやるだろうし、五月なら連休にやってしまえば良かったのに、と。少し不思議だったのだ。

 私の不審を見て取ったのだろう、大川先生は軽く肩を竦めてみせた。苦笑する表情が、面倒なものですよね、とでも語っているかのようだった。


「ちょっと前に亡くなった親族がいまして……ええと、四十九日的なのはとっくに終わってるんですが。遺品の整理とかですね、男手が必要だって駆り出されてまして」

「ご親族には教師が多いって仰ってましたね……」

「ええ、だから元教え子さんとか、後から知って来てくれる人も多いんですよね。その家の息子さんがあんまり人付き合いできない人で――って、法事とはいわないですかね、これは」

「そうですね……でも、そういうことにした方が良いんでしょうね」

「ですよね、その方が仕方なくっぽく見えますよね」


 はは、と笑いながら頭を掻いた大川先生は、私の返事がおざなりなのには例によって気付いていないようだった。でも、私にとってもちょうど良いかもしれない。自習の課題さえ用意してくれるなら私は座っているだけ、職員室で余計な詮索をされたりするよりはよほど居心地が良いだろう。


「――分かりました。午後……五限ですか、六限ですか?」

「五限です。クラスは1Eいちイーで――授業で扱った作品の、感想文を書かせることになってますんで」

「え――……」


 大川先生は何か課題の作品だか彼の解釈だかについて語っていたようだったけど、私はもう聞いていなかった。大事なのは、私が赴くことになった教室のことだけ。

 1年E組――それは、春山はるやま美波みなみのクラスだったはずだ。もちろん、大川先生は彼女の本性なんか知らないだろうし、ただの偶然なんだろうけど。私は、安請け合いをしてわざわざ|――の、候補のひとり――に近づいてしまったのか。それとも、虎穴に入らずんば、という奴だろうか。あの女を近くで観察する、またとない機会になるのかもしれない。そう思うと、心臓が期待と緊張に高鳴り始めるのが分かった。

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