第14話 恐怖の夜
震える手で玄関に鍵を掛けた後、私はドアの前にバリケードのようなものを築いた。しまい込んでいたヒーターとか、衣装ケースとか。どれも軽くて頼れるとは思わなかったけれど、ないよりはマシだ。もちろん、チェーンはいつもどおりに掛けて、引っ張っても取れたりしないのを何度も何度も確認して。
お風呂には入りたくなかったけど入らない訳にはいかなかった。明日、髪も洗わないで人前に出るなんて、教壇に立つなんて考えただけでも耐えられない。でも、服を脱いで裸になるのは何となく抵抗があったし、髪を洗うために目を閉じなければならないのも嫌だった。目蓋の裏の暗闇に、ドアの外で私の挙動を窺う得体の知れない影を想像してしまいそうで。といっても、目にシャンプーの泡が入れば本末転倒。痛みに目をこすりながら洗い流すだけの時間、その間の暗闇もご免だった。不安と――認めたくないけど――恐怖。自分でもよく分からない入り混じった混乱した感情と、髪や身体を清潔にしなければならない必要性。それを天秤にかけて、私は慌ただしく入浴を終えた。さっさとパジャマを纏うことで、布きれ一枚分でも身を守っていると思いたかった。
かといって、入浴が済んでしまえばあとは眠らなくてはならないのだけど。部屋の電気を消す、暗闇の中で目を閉じる。どちらも、今の私の精神状態では簡単にできることではなかった。
今の季節では暑苦しくなってしまうけど、毛布を身体に巻き付けるようにしてベッドに横たわる。天井と自分との間の空間を、少しでも意識しないで済むように。動物のように穴倉に潜り込むことができたら、なんて考えさえ
どきどきと脈打つ心臓、荒い息を抑え込むようにしてぎゅっと目を閉じていると、あの文字が闇から浮かび上がってくるようだった。
溺れたネズミの祟りだ。ざまあみろ。
あの紙、私の部屋に何者かに届けられていた脅迫めいた紙。どこへやったっけ。丸めてゴミ箱に入れたか、その辺に放り出してしまったか。朝起きて不意に
顎が痛くなるほど歯を噛み締める。いつの間にか私の家にまで忍び寄って来た何者かの存在が怖い。でも、恐怖と同じくらいになぜ、という疑問が渦巻いて気持ちが昂る。
ネズミの祟りだ、ならまだ分かる。生物部の活動でマウスを生餌にしていたことは学校の人間なら誰でも知っているし、眉を顰めていた人も――もしかしたら私が思う以上に――いるはずだ。そして年賀状のやり取りや連絡網の関係で、あちこちに住所を知られてもいる。だから、私の住所を調べることは、学校の関係者がその気になればそう難しくないはずだ。実際にこのマンションを探し当てて、他の住民の目を掻い潜って私の扉の前までやって来るのは、かなりハードルが上がってしまうけど、でも、決して不可能ではない。だから――今の職場の関係者の嫌がらせだ、ということなら一応の説明はつく。
でも、
ルビーちゃんの姿を見た時の嫌な感じ、まるで
でも、それなら、どうして!?
溺れたネズミたち、私が初めてこの手で殺したネズミたち。
暗闇の中で体を丸めながら、私は必死に考える。恐怖を紛らわせるために。とてもとても悔しいけれど、怖くて仕方なかった。ううん、違う。怖いだけなんかじゃない。冷静に考えて、立ち向かわなければいけないからだ。でも、震える身体を抱きしめても疑問と――恐怖が、増えるだけだった。
尾行されていた?
その可能性を認識した瞬間、全身に鳥肌が立った。
笑い飛ばしたはずの香奈子の忠告は、実は的を射ていたのだろうか。私が春山美波とかいう生徒に苛立っていた間に、平野はこんなに近くまで忍び寄っていたのだろうか。まさか、猫の親子にマウスを与えていたところも見られていたとか? 香奈子の忠告は、初めから遅かったかもしれないのだ。だってホームページの私の写真はずっと前から掲載されていたし、私は尾行されている可能性なんて夢にも思っていなかったのだから!
今こうしている間にも、あいつは私の挙動を見張っているのかもしれない。窓は真っ暗で、外からは何をしているか分からないだろうけど。手紙の文面にさぞ驚き怯えているだろうと、ほくそ笑んででもいるのだろうか。
乱暴な馬鹿としか思ってなかった奴に、こんな怖い思いをさせられるなんて。今や震えているのは激しすぎる悔しさのためでもあった。でも、それも恐怖を上回るほどの強い思いじゃない。悔しくて、不本意極まりないけど――私は、身近に迫った脅威を初めて感じて、心底怯えてしまっていたのだ。
* * *
――それでも、目を閉じて横になっているうちに、私は眠ってしまったらしい。それでも安眠や熟睡とは程遠い、眠っている自分を頭の片隅で認識している、そんな浅い眠り。いつまで手紙の恐怖に心が波立ったままで、夜明けまでの時間を数えているような落ち着かない休息。
それが、突然に妨げられた。
「――っ!?」
足に、何かが触れた。その感触に私は跳ね起きて声にならない悲鳴を上げる。神経過敏になっていたからの錯覚や夢に寝ぼけたなんてことじゃない、確かに
いつの間にかはね除けていた毛布をひっくり返して、私を驚かせた犯人を捜す。生餌用のマウスが逃げたのなら良い、と思いながら。でも見つけることができなくて。ベッドから起きて、ひやりとした床の感覚にこれが夢ではないと思い知らされる。そして夜が明けたばかりのほの暗さの中、マウスのケージを見れば――案の定、一匹も逃げてはいない。それならあの感触は何だったのか。夢にしては、あまりにもはっきりと肌に触れたのを覚えている。その記憶自体は温かいのに、私は血が凍りついていくような寒気を感じていた。
実態のないネズミ。ネズミの幽霊? ネズミの祟り? そんな、まさか。馬鹿馬鹿しい……!
人が近づいた気配に気付いたのか、マウスの一匹が立ち上がってチイ、と鳴いた。私のことを餌をくれる存在だと認識しているからねだっているのだろうか。生徒たち、特に女の子なら可愛い可愛いと叫んでいるに違いない。でも――
「うるさいっ!」
今の私には、苛立たしいだけ。手を伸ばしてケージを揺さぶると、慌てたマウスたちが忙しなく動き回ってがさがさと音を立てた。悲鳴じみた鳴き声と
平野の癖に。子供の癖に。
すると、恐怖に代わって怒りがむくむくと頭をもたげてきた。そうだ、どうして私が怖がらなきゃいけないんだ。あんな奴らのせいで。平野だって結局私に直接危害を加えてきた訳じゃない。脅迫状を送って満足しているとしたら、やっぱりただの小物じゃないか。春山美波も、ルビーちゃんをやったのはあの女の方かもしれないけど、それなら直接手を下しただけ私より劣ったやり方だということだ。私は、今までずっともっと上手くやってきたはずだ。どうしていつまでも震えていなきゃいけない? 平野の時と同じことをまたやれば良いだけだ。
「思い知らせてやる……!」
低く、決意を言葉に乗せながら。私はまたマウスのケージの蓋に手をかけた。
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