第28話 不安の正体
『
「もう出る時間なの。切るね」
『先生、待って――』
スマートフォンの向こうで、春山美波は手を伸ばしたのだろうか。届くはずがない私を引き留めようと。聞こえて続けてくる声には構わず、私は無情に通話を打ち切った。それから――思い出して、電話帳からある番号を呼び出す。年配の、学年主任も務めている教師のもの。若輩の私は連絡網の末尾に位置しているから、ちゃんと連絡が回ったことを伝えないと。
「あの……連絡網、回ってきましたので。何だか、大変なことになったみたいで……」
表面を取り繕うことが倣いになっているからだろうか、私は驚くほど平静な声を出すことができた。平静、というのもおかしいかもしれないけど。多分、程よく緊張して心配そうな、生徒の家庭で事件が起きた時に相応しい声。――と、思うのだけど。スマートフォンを持つ私の手は、無様に震えてしまっていたけれど。
春山美波やその父親に私の嗜好を読み取ることができたというなら、他の人間にもできるのだろうか。私の、人には見せられない見せたくない本音。嘲笑や見下し、嗜虐――それが、見られていたとしたら。
『はい、本当に……。先生方には、落ち着いて対応してくださいますよう、お願いしますね。
相手の声は私を真摯に気遣い信頼しているようで、やっぱりバレていないのではないかと思えたけど。でも、
『――何か、電話かかって来てます? 出ていただいて構いませんよ?』
キャッチホンを報せる電子音があちらにも聞こえているのだろう。相手が気遣うように聞いてきた。でも、これは多分春山美波が掛け直してきているから。また出ることなんて考えられない。
「いえ、いたずらだと思います。最近多くて……番号、変えようかと思っているところなんです」
また、私はするりと嘘を吐いた。すると相手はあっさりとそうですか、と言って、番号を変えたら連絡してくださいね、と言って通話を終えた。
そう、多分疑われていないはず。私は優しくて真面目な教師を演じることができているはず。なのにどうしてあいつらには分かってしまうのか――その理由が、さっぱり理解できなかった。
春山美波は――というかその母親の番号は――その後もしつこく掛けてきたから、着信拒否にした上でスマートフォンの電源を切った。公衆電話や、親戚とやらから借りた携帯とかで掛けてこられたら面倒だし。何なら本当に番号を変えてしまっても良い。そして家も引っ越して。もしも春山美波が学校を変えるのが現実になれば、このまま二度とあの一家に関わらずに済むかもしれない。教師と生徒という立場が変われば、あちらが私の連絡先を掴む術などないのだから。
だから、春山美波のことはもう考えたくない。考える余裕がない。モンスターペアレントめいた母親に、妻と娘を操って争わせる父親、母親をあからさまに見下して追い詰める娘。その印象は全てではないのかもしれないけど。でも、それは私には関わりのないこと。彼らはそれぞれに報いを受けてそれなりに苦しむはず。だからもう良い。私は春山家に勝ったのだ、と。そう思って忘れよう。
忘れてはならないのは――私にはまだ敵がいるということ。
* * *
「麻野先生、ズボンなの珍しいですね」
「パンツって言ってくださいね……生徒に笑われますよ」
職員室に入るなり、既に出勤していた
「ええ、嫌だなあ……。何か心境の変化でも?」
「そういう訳じゃ。ちょっと転んで擦りむいちゃって……みっともないので」
「お転婆ですね」
ああ、いつもの大川先生だ。気さくさと馴れ馴れしさの絶妙なバランスで、かなり失礼なことを言ってるような気もするのに憎めない。だから生徒たちにも軽んじられつつ慕われて――だから、春山美波もこの人の言葉を信じてしまったんだ。
『お母さんのこと、あまり気にしなくて良いよ。生物部がどうにかなるってことにはならないと思うから。実は、誰がやったのかはもう大体分かってるんだ。自分から打ち明けてくれるように、それとなく話しているところでね。うん、部員じゃないから麻野先生の責任にはならない。生徒には言っちゃいけないことだから、内緒にしてもらわないといけないけど』
なんてもっともらしくて優しい言葉だろう。もちろん、あの春山美波が素直に感動して感謝したはずもないけど。ただ、安心して母親を虐めることができると思っただけだろうけど。教師が自分のことを見ていてくれている。事情を慮って、内緒話をしてくれる。――そんな優越感は、春山美波のような厄介な子供の心までもくすぐることができたのだ。
「やだ。そんな歳じゃないですよ」
あの少女は
『大川先生……大川先生が、教えてくれた……』
春山美波の震える声を幻聴のように聞きながら、私はいつもこの人にどんな態度で接していたか、必死に思い出そうとしていた。さりげない軽口や、呆れを示す苦笑。軽い侮りと親しみ。そんなものをかき集めて寄せ集めて、何とか取り繕えるように。
「生徒には内緒ですよ。恥ずかしいので」
「僕と麻野先生の秘密、ですか。いやあ、照れ臭いなあ」
「もう、そんな言い方は語弊がありません?」
引き攣っているかもしれない笑顔は、気付かれてしまっているだろうか。ちらりと足元に向けた視線は、どうだろうか。昨日現れた男は、赤いスニーカーを履いていた。大川先生が履いていたもの、密かに子供っぽいと思っていたものと同じだったかどうか――今になって確かめようとしたところで、見えるのはスリッパだけ、記憶を辿るにも曖昧にぼやけてしまっているのだけど。それくらい、私はこの人に全くと言って良いほど注意を払ってこなかった。
思えば、あの翌日もこの人は真っ先に私のところにやってきた。脅迫状めいた手紙を見つけた夜。ネズミが肌を這うのを感じて叫んだ朝。そのすぐ後で、私が憔悴しきっているのをあらかじめ知っていて――確かめに、来たかのように。
同じ職場の人。住所も電話番号も知られている人。避けたりしたら、間違いなく生徒や保護者や同僚の不審を買ってしまう人。
そんな人を相手にこんな不安な思いを抱いたまま、これからどうやって毎日を過ごせば良いのだろう。
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