第17話 種明かし

 ――弟を殺してしまった喜助の行動を、悪いと言い切ることはできない。大切な肉親だからこそ、苦しむ姿をこれ以上見たくないと思うのも分かるから。弟も、兄に迷惑を掛けたくないと思ったから自殺を考えたのかもしれない。たまたま貧しく生まれてしまった兄弟がそうすることしかできなかったのを、裁くことはできないと思う。


      * * *


 結局、春山はるやま美波みなみが提出した「高瀬舟」の感想は至極真っ当かつ穏当なもので、私は拍子抜けしてしまった。でも、ちょっと考えてみれば当然のこと、私だって馬鹿正直に思ったことを綴ったりはしなかった。だから学校や教師に提出するものから彼女の本性を推しはかることなど初めから無理なことだったのだろう。ならばこの時間の監督を請け負ったのは無駄だったのかもしれない。良い子ぶった仮面なら、これまでにも嫌というほど見せつけられている。あの歪んだ笑みのように、それが綻ぶ瞬間は、そうそう捉えることができないということなのか。私と春山美波と、表面を取り繕うのが上手いのはどちらなのだろう。


 ラスト十五分ほどは数学の予習に切り替えていた春山美波が友人たちと談笑する姿を見ると、何か馬鹿にされているのではないかとさえ思えてしまう。


「――これだけなの? 大川おおかわ先生に怒られるよ?」

「えー、大丈夫ですよー。テストではもっとちゃんと書くし」


 もっとも、馬鹿にしているのは春山美波に限ったことではなかったけれど。明らかに文章で答えることを想定したスペースに、ひと言ふた言だけ書いて済ませて、ほとんどの時間を他教科の教科書を開いて過ごしていた生徒もいたのだ。舐められているのは教科なのか教師なのか。大川先生の日頃の態度が甘すぎるのかもしれない。だって――


「大川先生だって、サボりなんでしょ?」

「朝はちゃんといたのに。見たんですよお?」


 髪の色を少し明るくした――つまりクラスの中でも派手なグループに位置する――女子生徒が何人か、いかにも訳知り顔で笑っている。生徒に親しまれているのは良いとして、あの先生は気軽に授業に穴を開けそうだ、だなんて思われているのはどうなのだろう。これはむしろ信頼されていないとさえ言えそうだ。


「そんなことないのよ。ご親戚の集まりだって。大人は断れないものなの」


 あのほわほわとした先輩教師を庇うつもりも、そうないけれど。若い――幼いとさえ言える生徒たちの放言は少々目に余るように思えた。でも、私の諫言に少女たちは更に軽侮を含んだ笑い声をあげた。


「あ、じゃあド田舎に帰ったのかな」

「すごい遠そうだもんね!」

「……大川先生のご実家がどこかは知らないけど」


 女子高生にとって、若い異性の教師など体の良い玩具でしかないのは私の経験としても知っている。でも、それにしても彼女たちの言い草は遠慮というものがなさすぎるように思えた。


「どこって言ってたっけ?」

「さあ? 忘れたんですけど、ネズミとか出るらしいんですよー!」

「ネズミ……?」


 とうにプリントは集め終わっているから、教室を出ても良かったのだけど、女子たちは私を離してくれそうになかった。女子会の相手として認められたらしいのは、光栄に思って良いのかどうか。次の授業の先生が来る前には切り上げなければならないだろう。でも、時計を気にしつつも、生徒たちの噂話に惹かれる自分に気がついてもいた。ネズミという単語に、思わず反応してしまったこともある。あまりにもタイミングが良かったから。私が興味を惹かれたと見たのか、女子たちは身を乗り出すようにして食いついてきた。それぞれマスカラとアイラインで強調された目が私に刺さって、少し圧を感じるくらい。


「そうそう! 連休前だったかな、国語の授業中にGが出てぇ~」

「男子とかも騒いじゃって授業にならなかったんだけど」

「そしたら大川先生がスリッパ脱いですぱーん、って。一撃で!」


 彼女たちの騒々しい身振り手振りに、騒然となる教室が目に浮かぶようだった。実のところ、私はくだんの害虫がそれほど苦手という訳ではないけど。虫を餌にする種類の蛇やカエルもいるし、爬虫類を扱う店では馴染みのものだから。でも、世間的には悪魔のごとく忌み嫌われているのは知っている。大川先生にそんな機敏さというか思い切りの良さがあったのだけが不思議だった。


「で、実家の方だとゴキブリどころかネズミも捕まえてたから全然平気なんだ、って」

「ホイホイにGじゃなくてネズミが掛かってるんだって! あり得ないですよね~!」


 大きく口を開けて笑いながら、彼女たちは事細かに説明してくれた。それにしても、何がそんなに面白いのかはよく分からなかったけど。これが、箸が転がっても可笑しい年ごろというやつなのか。甲高い声が耳障りで、目の前の生徒たちから視線を外して春山美波の方を見る。すると、彼女は自席に着いたまま教科書の出し入れをしていた。次の時間の準備をしているのだろう。全くもって、表面上は優等生になり切っている。


「しかも」


 上の空で、曖昧な反応しか見せない私が相手ではつまらないだろうに、何かとてつもない秘密を打ち明けるかのような表情で、生徒のひとりが声を低めた。妙に楽しそうな表情は、どこかで見たような気もする。


「掛かったネズミはまだ生きてるから、殺さなきゃいけないんだって!」

「バケツに水入れて、溺れさすんだって~」


 気持ちわるーい、と。声を揃えてまた笑う彼女たちは、嫌悪や恐怖でさえ娯楽にできる年頃らしい。はしゃいだ表情に見覚えがあるのも当然のこと、ルビーちゃんがマウスを呑み込むのを見て黄色い悲鳴を上げる生物部員の女の子たちにそっくりだったのだ。


「そんなこと、仰ってたの……」


 「ダサい」ものを侮って話の種にする最近の子たちに、大川先生の話がどのような印象を与えたのかは何となく分かる。いくらでも弄って良いもの、馬鹿にして良いもの。自分たちとは遥かな別世界のこととして認識されたのだろう。大川先生の方でも、それを分かった上で好んで彼ら彼女らが喜ぶ話を提供したのかもしれない。


 でも、そんなことはどうでも良い。


 私はまた春山美波をこっそりと見た――そして、目が合った。休み時間も教室に居座っている教師が目立つのは当たり前なのかもしれないけど、彼女はこちらの会話に聞き耳を立てていたのでは、なんて思ってしまう。軽く目礼して友人との会話に戻る春山美波を遠目に見ながら、私は昨夜以来のぴりぴりとした緊張と――恐怖が、すっと和らぐのを感じていた。それに、パズルのピースがぴたりと嵌ったような、すっきりとした快感も。。

 なんだ、分かって見れば簡単なことだった。回収したプリントを揃える振りで、私は紙の束に口元を隠してほくそ笑んだ。

 このクラスでの授業中の話なら、当然春山美波もネズミ駆除の話を聞いていたのだろう。そして大川先生の話から、水に浸けて殺す、という発想を得たに違いない。

 ならば――平野のこと、例の脅迫状のことはともかく――学校での事件は昔のこととは関係ない。平野が私にやらせたことをなぞった訳ではなかったのだ。ルビーちゃんを殺したのは春山美波だ。平野は、校内に入り込むことまではできていない。学校では、やはりこの女だけを相手にすれば良い訳だ。


 とりあえず警戒すべき相手が定まっただけでも上々だ。大川先生には感謝しなければならないかもしれない。そう、心中でほくそ笑みながら私は1年E組の教室を後にした。

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