第35話 窮鼠の牙
「そこまでしてくれたの……」
「
ベッドに座る彼と、横たわったままの私。電気を消したままの闇の中では葛原君の顔ははっきりと見えなかったけど、彼が得意そうにはにかんだように笑うのが見えた気がした。生物部で、いつも見ていた表情だから目に浮かぶよう。もしかしたら、今は
でも、素直で扱いやすい生徒だったはずの彼の誇らしげな声も笑顔も、この病室には不似合いなものではないだろうか。私が心配で居ても立っても居られなくて押しかけてしまった――そんな状況にしては、あまりにも曇りがなさすぎるのではないだろうか。
「夕実先生、俺、嬉しかったんだ。先生の気持ちがやっと分かった気がして」
「そう、なの……?」
葛原君がどこか弾んだ声で言ったことも、脈絡が今ひとつ掴めない。嬉しいのは、分かる。私が無事だったこと、活躍できたこと。いずれも喜ぶのは当たり前だと思う。でも、私の気持ちとはどういうことだ? 彼は何を言っているのだろう。
居心地の悪さに身じろぎした時――ベッドがぎしりと軋んだ。葛原君が身体を乗り出して、私の顔の横に手を置いたのだ。まるで圧し掛かるような、更に大川にされたことを思い出させるような体勢に悲鳴を上げようとして、でも、口を葛原君の手で塞がれる。
「先生、俺、見ちゃったんだ。先生がマウスの赤ちゃんにしてたこと」
「――っ!」
何を、と叫ぼうとしたところで、やはりできなかった。息苦しさを感じるほど強く、葛原君は私の顔の半分を抑えつけている。暗闇の中、ぎらぎらとした目だけが光って見える。それも、ごく近く、私の目の前で。ばらりと崩れた前髪が額に触れるのではないかと思うほど、彼は私に顔を近づけているのだ。
「すげえ、びっくりした……先生があんなことして。それに、楽しそうだったから。なんであんなひどいことしてるのに、にこにこしてられるのか、あの頃は分からなかったんだ」
見られていた。
「ルビーちゃんの生餌のこともそうだったんだけどさ。夕実先生の言うことなんだからあんま可哀想がっちゃいけないとは思ってたんだけど、俺、無理で……。先生とは合わないのかなって思うとすごい嫌な気持ちだったんだ」
そう、彼はルビーちゃんがマウスを呑み込む姿さえ正視できないようだったじゃないか。それなら私のやったことなんて言語道断、見過ごせないと思うだろうに。なぜ、今まで私を責めなかったのだろう。誰にも言わず黙っていたのだろう。そして、黙っていた癖にどうして今、この状況で打ち明けてきたのだろう。
「夕実先生……もう一匹の赤ちゃんを持ってたの、俺なんだ」
驚きに――そして口を塞がれていることによって、物理的にも――声を出せない私を他所に、彼はさらりと続けた。今の今まで、私もすっかり忘れ切っていたことを。大川に確かめる暇さえなかったことを。そう、確かにあいつはルビーちゃんのことについては認めたけれど、マウスについては何も言っていなかった!
「先生の真似すれば分かるのかな、ってさ。家で色々やってみたんだ。でもやっぱり可哀想なだけで……翌日なんか熱出しちゃってさ。本当にひどいことしちゃっただけで、何やってんだろうって思った」
そしてもうひとつ思い出した。生物部に行って、マウスの赤ちゃんの数が足りないと言われた時、私が持ち帰った子の他に、もう一匹いないことに気付いた時、私は葛原君に話を聞こうとしたのだ。部員では彼が一番最後に帰ったはずだったから。でも彼は休みだった。それは――マウスを嬲り殺しにした罪悪感で寝込んでいたということだったのか。小学生の私でも潰されたりはしなかったのに。なんて可愛らしい繊細さだ!
いっそ呆れて心の中で叫んでから、――やっと抵抗することを思い出したので――私は身体をよじって逃れようとした。あるいはせめて口を塞ぐ手を払いのけようと。でも、できない。高校生の男子というのはこんなに力があるものだったのか。私はこの子を侮ってきたのだろうけど。こんな状況になってしまったらこんなにも手も足も出ないものだなんて。
私の渾身の足掻きをあっさりと封じながら、葛原君はでも、と囁いた。
「でも、あの日先生を受けとめた時、ちょっと分かった気がするんだ。先生、こんなに細くてか弱いんだなって――それに、怯えてた、でしょ? あの表情に、なんかすごいドキドキしちゃって」
大川の「誘い」を受けた時のことだろう。熱に浮かされたような彼の声は、さっきの大川と嫌になるほどそっくりだった。確かに私は自分からこの子に身体を預けた。思春期の男子のことだ、それは、ドキドキされるのも仕方ないとは思っていた。むしろそれを狙ってさえいた。でも、それは性的な興奮なら、という話だ。大川とのデートにあたって、葛原君という見張り役を確保しておきたかったからだ。断じて、嗜虐的な嗜好を目覚めさせるためではない!
私のくぐもった唸り声は、葛原君の掌に吸い込まれて大した音量にならない。ベッドの軋みも密やかなもの。今の私が全力でもがいたところで、容易く抑え込まれてしまうから。だから、私は葛原君の歪んだ告白を聞かされ続けることしかできない。一日にふたりの男から、でも、薬を盛られるのも抑えつけられるのも、全く嬉しいものではない。
「それに、さっきも。
何だ。何を言っているんだ。こいつも――そうなのか。
でも、こんな乱暴なやり方を教えた覚えなんてない! 私はもっとこっそりやっていた!
心の底から叫びたかったけれど。抗議も叱責も、声にすることはできなかった。男子高校生の力で、口も身体も抑えつけられていたから。しかも――
「だから今ならちゃんと、先生みたいにできる気がする。ねえ、夕実先生、試させて……?」
そう――いっそ甘く囁きながら。葛原君が私の首に両手を掛けたのだ。
「ああ……やっぱりだ。夕実先生だと、すごく良い……マウスなんかと違って……」
「あ……ぁ……っ」
葛原君の手は、もう私の口を塞いではいない。でも、私には助けを求めることはできない。彼の手は、今は私の喉を絞め上げているから。容赦のないその力に気道を圧し潰されて声を出すことはおろか呼吸さえままならないのだ。
殺される。彼は本気だ。この手の力で分かる。私は殺されてしまう。せっかく春山美波にも大川にも勝ったのに! こんなところで! こんな奴に!
「あの時……大川に何かされちゃうって思ったら頭が沸騰したみたいに熱くなってさ。焼き餅なんだろうけど。先生を助けたいってよりは、他の奴に渡したくないって思ったんだ。だから、俺のものにしたいんだ。――先生は、俺のことなんか相手にしてくれてないみたいだったし」
違う。そんなことはない。
そう、口に出せたら何か変わっただろうか。でも、できない以上は無駄な仮定だ。それにやっぱり彼は鋭かった。私が彼に向けていた侮りや見下しも、敏感に悟っていた。それなら、これも私の迂闊さが招いたことなのだろうか。初めから、もっと周りの目を気にしておけば良かった? もっと本心を隠して、苛立ちなんかを見せないようにしていたら良かった? 周囲の誰もを騙しきって、善良な優しい先生を演じ切ることができていたなら……!? そうすればこんなことにはならなかったの!?
嫌だ。死にたくない。次はもっと上手くやると思ったばかりなのに。せっかく自分の悪いところが分かったんだ、そこを直して、次に活かそうと思っていたのに。次。私に、次の機会はないの?
「先生もこんな気持ちだったの? だからあんな顔してたの? ね、夕実先生?」
答えられないことを知っている癖に尋ねてくるのが腹立たしくてならない。こいつも私の自慰行為を覗き見ていたのだ。そして油断していた私自身にも怒りを覚える。学校で趣味のストレス発散をしようと思ってはいけなかった。それも、教訓になるはずだったのに。
苦しい。もう限界だ。窒息するのと首が折れるの、どちらが早いのだろう。死にたくない、とまた思う。身体をよじる。腕から点滴の針が抜ける感覚。微かな痛み。少しだけ動くようになった腕で圧し掛かる身体を押しのけようとする。でも動かない。
このままじゃダメだ。何か――そうだ、ナースコール。人を呼ばなきゃ。助けてもらわなきゃ。確か、枕元に置いて行った。あれを押さなきゃ。身体を動かせ、手を伸ばせ。
葛原君は私の首を絞めるのに夢中になっているらしい。その隙をつくように、腕を伸ばす。彼の動きを妨げてはいないからか、暗いからか、止められずに済んだ。やった。後は手探りで――
「……!?」
指先にナースコールのボタンが触れるのを感じた瞬間、甲に鋭い痛みを感じて私は手を跳ねさせた。その動きでボタンはどこかへ飛ばされてしまった。からん、という音が響く。でも、人を呼べそうな大きな音ではない。
何。今のは。今の痛み――葛原君ではない。彼の両手はずっと塞がっている。私の首を絞め続けている。それにあの痛みは叩かれたりしたようなものじゃない。もっと鋭い、狭い範囲の――ネズミか何かに、思い切り噛みつかれたような。
そして――
「――――ぁ」
耳元を走り去る毛皮の感触に驚いて私の肺は貴重な酸素を吐き出してしまった。視界が狭まり、胸に痛みが走る。小さくて温かくてふわふわした
いるはずのないネズミの影。前にもあったような。よく思い出せないけど。私の周りに、前から見え隠れしていた。幽霊なんているはずがない。ネズミの祟りなんてあり得ない。そう思ってた。でも、本当に? あんな小さい獣が人間に何ができるっていうの? 今のが、そう? 春山美波の母親……あんなしょぼくれた
ああ、息が苦しい。胸が痛い。締め付けられている首も。目の前がちかちかして首の骨が軋む音が頭に響く。ネズミなんかちっぽけな動物じゃない、人の大きさの動物の骨が折れようとしている感触。気持ち良い? 私もやってみたい。でも、これは私の首だ! ううん、折られる方でも。良い……かもしれない。こんな、ぞくぞくとした気持ち。爪先が痙攣し始めて。イった時みたい。
「夕実先生……好き……」
葛原君の手に私の手を重ねてみると、彼が感じるものが伝わる気がした。人を殺す感覚。人の首を折る感覚。たとえ殺されるのが私自身であっても、例えようもない悦び。愉しみ。ああ、もっとやってみたいけど。ここで、終わり? もう? 葛原君の満ち足りた笑顔が、最期に目の前にはっきりと映る。そして。
ごき。
窮鼠の牙 悠井すみれ @Veilchen
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