第22話 春山家の真実

 テーブルに届いたコーヒーの、黒い水面を見つめながら春山はるやまさんは語る。


「私は……最初から過保護で、駄目な母親だったんだろうと思います。娘が泣かされたとか、何か壊されたとか聞くと、相手の方のお家にひと言言わずにはいられなくて。それで……主人や娘には恥ずかしい思いもさせてしまったと思います」

「それは……でも、親心ってそういうものだと思いますが」


 なんでこの人相手にフォローめいたことを言っているのかな、と。皮肉な思いも過ぎらないではなかったけれど、私は気休めのように慰めてみた。でも、春山さんは力なく首を振るとまた笑いに似た表情に顔をひきつらせた。


「さあ、どうでしょう……私もそのつもりだったんですが。どこから行き過ぎていたのか……それとも初めからだったのか。……段々、美波みなみは私を……母親を、人付き合いの潤滑剤にするようになっていきました。うちの親がごめんね、って。それとも主人がそうするのを見て育ったからでしょうか……。あんな奥さんによく付き合ってられるね、って同僚の方とかが入っているのが、私にも聞こえました。というか、聞かせていたのでしょうが」


 ルビーちゃんの事件の後、春山美波は確かに母親が語る通りのことを実演してみせた。ヒステリックな母を持ちながら常識的な娘。親の分まで冷静で、代わりに頭を下げることさえする。母を妻に、娘を夫に置き換えても通じることなのだろう。春山さんの言動があったから父娘がそうなったのか、それとも、この女性よりあのふたりの方が狡猾だったのか。――答えは、見えているようにも思えるけれど。


「失礼なことを申し上げるのかもしれませんが。ご自覚があったなら、お母様も……自重というか、改めようと思われたのではないんですか……?」


 だって、普通はそうするはずだもの。それは、本当に周囲の迷惑も省みない怪物モンスターめいた人間もいるのかもしれないけど。でも、春山さんは、今は冷静に会話ができているのに。それに、さっきも不穏なことを言っていた。モンスターペアレントを演じさせられているかのような。


「それは、もちろん」


 今度の春山さんの微笑みは、悲しそうなものだった。


「でも、そうすると美波は言ってくるんです。こんなひどいことをされた、言われた。ママ、どうしよう、って。ええ、私だって相談に乗ってあげたいです。親身になって、一生懸命考えてアドバイスして……でもあの子はそれだけじゃ満足しないんです。段々不機嫌になって、言葉遣いも乱暴になって。口だけなの、私のために何もしてくれないのって。主人も私の愛情が足りないみたいに責めるんです……!」

「それで……また、何というか、行き過ぎたことをするまでそれを止めない……?」

「ええ! でもそうすると今度はふたりが怒るんです。またやったな、また恥をかかせたな、って……!」


 顔を覆った春山さんを前に、私は気まずい思いで自分の分のコーヒーを啜った。遥かに年上の相手が泣き崩れるところに居合わせて、一体どんな顔をすれば良いというのだろう。

 ただ――彼女が語ったことはまた春山美波の言動を説明していた。応接室に乱入してきた時の、あの少女の勝ち誇った表情。あれは、また成功した、とでも思ったのではないだろうか。また母親を焚き付けて暴走させて、悪者に仕立て上げて。そしてそれを断罪することで優位に立つ、という

 最初は子供なりの処世術だったのかもしれない。でも、今や彼女は完全に愉しんでそれをやっている。そして多分父親の方も。というか、父親こそが娘にその遊びを教えたのかもしれない。


 やはり春山美波にとってのネズミは母親だった。獲物をいたぶって楽しむやり方から言えば、あの少女は蛇というよりは猫だろうか。春山さんは、夫と娘を家族だと思っているのだろう。でも、他のふたりにしてみれば巣穴に迷い込んできたネズミに過ぎない。あくまでも別の種類の生き物と認識しているのだろう。だからこの人の愛情さえも利用して、その苦悩を娯楽として楽しむことができるのだ。

 そう思うと――最初の悪印象からは一転して――この人が可哀想にさえ思えてくるのだ。


「美波さん、ずいぶん遠くから通ってるな、とは思ってたんです。――やっぱり、そういうことの積み重ねで……?」


 春山さんが落ち着いたころを見計らって確かめると、彼女は目元を抑えながら子供のようにこくりと頷いた。


「結局、あの子は『面倒な親のいる子』になってしまいますし……ママのせいで友達がいなくなった、って怒られました。……いえ、私のせいなんですけど」


 春山さんは諦めたように呟くけれど、確かにそれも一面の事実なのだろうけど、でも、多分全てじゃないだろう。陰では母親を焚き付けて暴走させて、そして表立って諫めることで点を稼ぐ――春山美波が本当に長年そうやって振る舞ってきたなら、回りも段々おかしいと思うはずだ。ふたりが一緒にいるのを一度しか見たことがない私だって、応接室でのあの一幕を不審に思ったのだから。まるで見せつけるように人前で母親を叱りつけて。申し訳なさよりも得意げな顔が先に見えて。


 だから、春山美波の周囲の人間関係が拗れたのだとしたら、彼女自身の演技力に問題があるのだろう。


 やや皮肉っぽくそう分析する間にも、春山さんは私が知りたかったことを教えてくれる。特に高校に入学してから、彼女がどんな風に生物部に目をつけたのかというところを。


「高校に入ってからしばらくの間は安心していたんです。新しくお友達もできて、楽しそうで……。でも……生物部の活動のことを、妙に詳しく話してきて。最初は、興味があるのかなって、それだけだったんですが……」


 裕福な家庭の、整頓されたリビング。快活な娘が母親に学校での出来事を報告する――普通なら、幸せそうな光景に見えるのだろうか。でも、春山美波の手口を聞いた後だと、少女が浮かべる微笑みを、どこか邪悪なものとして思い描いてしまう。


「ハムスター、飼っているって言いましたでしょう。本当は、私が言いだして飼い始めたんです。主人はくだらないと思っていそうでしたけど。可愛がっていると、思っていたんですが……あの子にとっては、道具に過ぎなかったのかもしれません」


 ――ネズミの赤ちゃん、可愛かったあ。でも、そのうち蛇に食べられちゃうんだって。可哀想。

 ――この子にも似てると思ったのになあ。授業で生物室行くたびに数を確認しちゃうの。いなくなってたらきっとショック受けちゃう。

 ――生物の先生、若い女の先生。結構反対されたらしいのに押し切って蛇飼ってるんだって。格好良いけどね。


 言葉だけ取れば、他愛のないことかもしれない。でも、執拗に、絶妙なトーンで。時に溜息を交えたりしながら言い続けたら? ハムスターを掌に載せながら、この子とは違ってあの子マウスたちは可哀想に、なんて。春山さんも最初は相槌を打つのに止めていたのだろう。娘からのプレッシャーに気付かない振りで、今度こそ平穏な学校生活を送らせることができるように。娘は生餌にされるマウスを哀れむことができるような優しい子だと、信じたかったのかもしれない。


 でも美波は――この女性の娘の皮を被った捕食者は、獲物が息を潜めてやり過ごそうとするのを見逃してはくれないのだ。


 ――うんうん言ってるけど口だけじゃない? ちゃんと聞いてるの?

 ――ママって冷たいよね!


 正直に言って、私にはそれが簡単なことだと分かってしまうのだ。だって、私自身が平野の時にやったのと同じだから。私はあの時の一度だけ、動かしたのは親ではなくて友人や教師だったけど。でも、人を思い通りに動かすのは――特に相手の性格をよく知っていれば――そう難しくないという、何よりの証拠になっている。

 春山美波も、そしてその父親も、ずっとそうやって母を妻を操ってきたのだろう。最初は世間体のためだったかもしれないけれど、この調子だとは父と娘の間のゲームになっていたのかもしれない。


「だから、娘さんの望む通りにモンスターペアレントを演じてあげた、ということですか?」

「……先生にはとてもご迷惑だったと思います……」


 すみません、と。何度目かに謝罪の言葉を口にした後、春山さんはでも、と続けた。


「私はほっとしていたんです。本当に、申し訳ないし、親として妻として情けないと思うんですけど。また余計なことをして、って私を叱って――美波も主人も、気が済んだと思っていました」


 ――高校では普通にできると思ってたのに。台無しじゃん!

 ――私がいたから良いようなものの。止めていなかったら一体どうなっていたことか。


 捕食者ふたりは揃ってネズミをいたぶった。嗤った。その様を想像して――ひどい、と思うと同時にぞくぞくとした、快感のようなものも覚えてしまう。平野の事件の時、私も確かに楽しかったから。思った通りにことが運ぶのが面白くてたまらなかったから。あの楽しみが日常にあるなんて。ハマってしまうのも無理はない。ああ、私は確かに春山美波と同じ種類の人間だ。

 でも口元を緩めないように気をつけないと。良いな、羨ましいな、なんて思っても顔には出さないようにして。ここからが核心なんだから。春山さんがわざわざ夜中に私を尋ねてきた理由、それを吐き出してもらわないと。


「でも終わりではなかった……?」


 できるだけ優しく、怒ったり責めてるなんて思われないように。それでも私の問いはどこか追い詰めるような響きがあったのかもしれない。春山さんは顔を一層青褪めさせた。落ち着こうというのか間を持たせようというのか、持ち上げようとしたコーヒーのカップを上手く取れないで、テーブルに黒い染みを作ってしまって。――そして結局コーヒーを飲むのは諦めたらしい。春山さんはテーブルの上で拳を握る。よほど力を込めているのか、手の甲が白くなるほどに。


「ええ……!」


 ついさっき、玄関のモニター越しにこの人と話して、少しでも怖がったのが嘘のようだった。春山さんと話すうちに段々分かってくる春山美波の本性、狙い、春山家の事情。相手の正体を掴み始めているという実感が、私に余裕を与えてくれている。だからこまごまとした仕草を観察することもできるのだ。


「あの……蛇の、ことがあって。美波はまた私を焚き付けようとしました。――私には、そう見えました。もっとやれ、騒げ、って。でも……」

「あまりにも間が良すぎる、でしょうか。美波さんが……その、として、都合よくことが荒立ったなんておかしい、と……?」


 今度こそ笑いをこらえ切ることができそうになくて、私はコーヒーのカップを口元に運んで誤魔化した。春山さんが私にしか相談できないと言っていた理由がよく分かったから。

 何のことはない、母親も、私と同じように美波むすめがルビーちゃんを殺したと思っているのだ。

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