第20話 予期せぬ来客

 帰宅ラッシュ時の駅前では、朝とは逆の人の流れができている。川が流れるように逆らいがたく、のろのろと同じ方向へ歩く、疲れた顔の人の群れ――その中で、足を止めて後ろを振り返ると、周囲のスーツ姿のサラリーマンが迷惑そうな顔で私を避けた。中には聞えよがしに舌打ちをする者もいる。流れを止めるマナー違反を承知していてもそうしてしまうのは、家に帰るということに、まだ身構えてしまうからだ。郵便受けに突っ込まれていた脅迫状、見え隠れする平野ひらのの陰。それに、足を這った毛皮の感触。

 あの記憶があるから、家に帰るのが少し――少しだけ――怖いと思ってしまう。駅から家までの道中、後をつけられているんじゃないか、なんて思って振り返ってしまう。多分、女なら大なり小なり経験のあることだろう。肌にちりちりとした視線というか注意を向けられているのを感じてしまうということが。平野のことでナーバスにさせられているからというだけではなくて、私の肌は確かに例の感覚を訴えていた。


 かといって、振り向いてしまうなんて愚かなことだとは分かっているのだけど。


 駅の改札から吐き出され続ける人。その顔の中にこちらを凝視する目はないのを確かめて――正直、平野の顔なんてちゃんと覚えている自信はないのだ――私はまた自宅のマンションの方へと歩き出した。途中で寄るスーパーの、今日の特売の品を思い出して、今夜の献立を考えながら。努めて日常の思考と行動をなぞる。

 例の脅迫状を届けることができた以上は、平野は私の住所をもう知っているということだ。だから、後をつけられないように撒いてしまおうだなんて考えても仕方がない。多分、私が警戒し始める前、香奈子からのメッセージを受け取る前に、あいつはそんなことは済ませていたのだろう。尾行されてるなんて夢にも思わず、平野に自宅の場所を教えてしまったのかと思うと、腹が立って仕方ない。


 でも、それは過ぎたこと。後悔しても仕方のないこと。住所を知った上でも平野が私の後をつけ回すとしたら、それは不安を与えて怯えさせるためだろう。お前を狙っているぞ、見張っているぞと仄めかせて、獲物わたしを消耗させようというのだろう。あんな小物の癖に捕食者気取りだなんて笑わせる!

 私が気を配るべきは、あいつに襲われる隙を見せないこと、それだけだ。玄関の施錠もチェーンを必ず掛けるのも、今まで以上に慎重になった。郵便受けは内側から塞いだし、ベランダの窓ガラスにも、気休め程度だけど強化フィルムを貼ってみた。マンションの入り口に入るその瞬間だけは十分注意しなければならないけど、一度部屋に入って鍵を掛けてしまえば平野が押し入ることはできないはず。仮に暴力に訴えてきたとして、ドアを破られる前に警察を呼ぶ時間は十分にあるはずだし。

 だから、背筋を伸ばして歩こう。疲れも――ほんのわずか、心の隅にこびりついてしまう不安のような思いも無視して。平野の思い通りにはさせないと、態度で示してやらなくちゃ。


 そう思ってわざと大股に歩きだすと、絡みつくような気配はもう気にならなくなった。きっと、そもそもが思い過ごしでしかなかったんだろう。


* * *


 帰宅後、食事やひと通りの仕事を終えて、バッグから取り出したのは、春山はるやま美波みなみについての資料だった。出身の中学校から届いている内申書や、入学以来担任が記録していること――生徒ひとりひとりについての情報が蓄積されているファイルを、こっそりとコピーしてきたのだ。もちろん個人情報だから、本来は違法行為にあたるのかもしれないけど。ファイルは元通りに戻してきたし、目を通した後は破棄してしまえばまあ誰にも分からないだろう。


 飼っているボールパイソンをケージから取り出して腕に絡ませながら、コピー用紙をめくる。変温動物ならではのひんやりとした鱗が心地良い。幼体の頃からハンドリングに慣らした甲斐あって、わたしの身体の上で寛ぐことを覚えてくれているのだ。蛇からの信頼は、彼らのような強さ冷酷さが私にもあると思わせてくれるようで落ち着く。そうだ、私はネズミなんかではなく狙う方の存在だ、と。思い出させてくれるのだ。


 春山美波の住所や出身校などのデータは、大川先生から聞いたことの裏付けになっていた。確かに、彼女は乗り換えが必要な場所から通学している。私の通勤よりも時間が掛かるくらいではないだろうか。正直に言ってそれほど突出した特徴というかセールスポイントがある訳でもない私立高校に通いたがる理由は、何だろう。

 あるいは、通わなくてはならない、とか? 春山美波と同じ中学校出身の生徒は、少なくとも今年度はいないらしい。見知った友人たちと別れてでもわざわざ遠くの学校に進学したのは、何か気まずくなる事情でもあったのではないか、と考えることもできる。そして表面上はフレンドリーで人懐っこい彼女に人間関係で問題が起きるとは考えづらい。――ということは、やはり原因はあの母親だろうか。


『毎回何かある度に学校に乗り込むの、止めてって言ってるでしょ!』

『いつも勝手に騒ぐんで』


 春山美波自身が、わざわざ説明するかのように言及してくれた。あの母親の言動のせいで、地元での人間関係が拗れてしまっていた、とか。まあありそうなことだ。でも、それならまた同じように母親を暴走させる切っ掛けになるような事件を自ら起こすのはおかしいもする。


「どういうことなのかなあ……」


 あの不愉快に馴れ馴れしい少女の行動の動機は、一体何なのか。手がかりを求めて、素っ気ない文章だけの資料に何度も目を通す。小学校時代から成績が良かったらしいこと、父親はCМでもよく名前を見るような大企業に勤めていること。どれも、関係ありそうだけど実際のところはどうなのか。担任からのコメントも、ごく簡潔なものばかりで、つまりは春山美波は今のところは問題のない優等生を演じているということになる。

 でも、本当に問題のない生徒なら、をこそこそと捨てているはずはないし。あれを見てしまった以上は、彼女の良い子ぶりは演技に過ぎないと思うべきだろう。中学校に話を聞けたら良いけれど、担任でも顧問でもない私に個人的な情報を明かしてくれるとは思えない。


 それなら――


 と、思考に没頭する間に鱗に体温が移ってしまったのか、蛇が居心地悪そうに身じろぎした。そろそろケージに戻してあげようか、と思って取りあえず資料の紙の束を置いて立ち上がる。――その、時だった。玄関からチャイムの音が響いて、私は危うく蛇を取り落としかけた。


 何だろう。通販で何か頼んでいる訳でもないし、荷物が届く心当たりもないのに。でも、平野が馬鹿正直にチャイムを押すはずもないし。最近は馴染みになってしまった動悸を宥めようとしながら蛇をケージに戻す間に、チャイムがもう一度鳴った。明かりが点いているのを、外から見られているのだろうか。それなら居留守をつかう訳にはいかないか。そうだ、まずは誰か確かめないと。誰だったとしても、ドアを開けなければ怖くなんてないんだから。


「……何ですか?」


 すぐにも警察に通報できるように、スマートフォンを片手に持ちながら、インタフォンのモニターを覗く。すると、そこに映っていたのは意外にもほどがある人の姿だった。


『夜分にすみません……あの、少しだけ、お話をさせていただきたくて……』


 荒い画像のインタフォンのモニターを、私は息をすることも忘れて凝視していた。前の――もしかしたら更にその前からの――入居者から使い込まれている機器だ。画像だけでなく、伝えてくる音声もひび割れたもの。でも、たった二回会っただけでも、強烈な印象を残してくれた相手を見間違うはずはない。

 ほとんど喘ぐように、私は時折乱れる暗い画像に向かって問いかけた。


「春山さん……どうして、私の家を……?」

『すみません、勝手に……』


 以前に会った時と全く印象が違うのは、夜の共用廊下の暗さやモニターの画像の質のせいだけではないだろう。春山美波の母親は、隙なく、武装するかのように着飾って学校に乗り込んで来た時とは打って変わって、一回り小さく、それに一段と老けたように見えた。夫の勤め先を知って密かに納得していたように、ブランド品に着られるのではなく、自分のものとして着こなしていたように見えたというのに。

 私が尋ねたことに答えず、ただ謝罪を繰り返すばかりなのも――ろくに知らない相手に対して、おかしな表現かもしれないけど――なかった。

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