未確認世界(4)

 おばあちゃん。

 私があの人をそう呼んだ。

 冷たい水の中で私を抱きかかえたのは、あの人。

 川に落ちた私の命を救った、あの人。

 抱っこされた腕の中を私は知ってる。

 あの人は私のおばあちゃん。

 どうして忘れてしまってたんだろう、おばあちゃんのことを。


「おばあちゃん!!」

「おばあちゃん!!」

「おばあちゃん!!」


 私はずっと叫んでた。

 私のおばあちゃんを呼んでた。

 ずっと、ずっと。

 呼んでも返らない声を待って。

 呼んでも帰らない人を待って。

 待っても帰らない。

 会いたくても会えない。

 もう、おばあちゃんには会えない。

 それは。


 おばあちゃんは私の命を救って、自らの命を落としたのだから。


 思い出した、本当のことを。

 私の記憶から消えてしまってた、本当のことを。

 私が大好きだったおばあちゃんのことを。

 私のことを大好きだったおばあちゃんのことを。

 思い出した。


まどわされるな』


 また声がした。

 目が覚めた。

 寒い。

 にごった曇り空。

 固い地面に仰向あおむけになってる自分。

 露頭に触れた指から広がった空想は、私の意識まで失わせてたみたい。

 起きられなかった。

 動かない身体からだのせいじゃなかった。

 私の心はズタズタに切り刻まれて、何の意欲も持たない綿わたボコリみたいになってた。

 私のおばあちゃんは、私のせいで死んだのだと。私の記憶がそう言ってたんだ。


「棗ちゃん……」

 あれは私の空想だった。

 そうに決まってる。

 棗ちゃんは元々ここには居なかったし、今も私ひとり。

『梓ちゃんなら大丈夫』

 やめてよ、もう。

 私から愛する人を取り上げてしまうのは、やめてよ。

 もうやだよ。

 棗ちゃん、どこにいるの?

 私の手には、地質学図鑑とお守りの人形があるだけだった。

 悔しかった。

 むなしかった。

 空は濁ったまま。

 私の心も。

 もう。

 消えそうだった。

「そ、そんな……」

 そして消えそうだった心の火はこの瞬間もう消えて、火の光をなくした目の前は真っ暗になった。

 私の頭はどうかしちゃってる。

 もしかするとずっと前から。

 溺れて死にそうになったあの時にきっと普通じゃなくなってたんだ。

 自分の存在ごと、もう消してしまいたかった。

「見角、じゃなくなってるよ、棗ちゃん……」

 私はとうとう一人っきりになっちゃった。

 棗ちゃんの家の表札は“杉田”という家に変わってしまってた。

 あの時と同じ。

 アイツが消えたあの時と。

 この世界から存在が消えてしまうということが一体何なのか、なぜ私には消えてしまった人の記憶が残っているのか、こんなことに何の意味があるのか……。

 私はなぜ、消えないのか……。

「棗ちゃん、どこ?」

「棗ちゃん」

「棗ちゃんが私を守るって、棗ちゃんがついてるから大丈夫って、いつも一緒だよって、言ったのに、言ったのに……」

「もう無理だよ」

「私ひとりじゃ無理だよ」

 とてもじゃないけど、もう歩けなかった。

 胸が苦しくて、道端に座り込んだ。

 アスファルトについた自分の膝がみるみる枯れてくみたいだった。冷たくて乾いた灰色の空気が、私の呼吸気管をにぎつぶして咳が止まらなくなって、一人ぼっちで悲しくって、寂しくって、何でこんなことしてるんだろうって思ったら涙が止まらなくなっちゃって、我慢してたのに嗚咽おえつがこみ上げて泣き声になって。涙でアルファルトの色が濃くなって……。

『信じて、梓ちゃんは自分だよ』

 そんな事言わないで。

 そんな風に言わないで。

 できないもん、無理だもん、ひとりだもん。

 私を置いてかないでよ。

 私だけ残してかないでよ。

 私の枯れた足に涙が染み込んでいった。


 “御神本”

 自分の家は消えてなかった。むしろ消えてなくなってても構わなかった。もうどうでもよかった。自分なんてどうなってもよかった。

 私なんて。

 自宅の玄関先の廊下に私はそのまま倒れこんだ。

 家に戻っただけ優秀だと思う。

 夜まで誰も帰らない家は静か過ぎた。

 目を閉じる。

『私はイギリスのロンドンにある大英博物館かな』

 棗ちゃん。


 リンゴーン

 リンゴーン

 ウチの呼び鈴だった。誰かが訪ねる用なんて知らないし、今は冬休みだし。

 でもすぐに宅配便だとわかる。

 サインして荷物を受け取る。

 あて先は……御神本梓様。私?

 差出人は……。

 見角棗、彼女だった。

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