case3-6 看護師・深山環希
潤奈の話によると、環希さんはしばらく仕事を休むことになったらしい。そしてアイツは結局接近禁止命令を破ったことで捕まったらしく、その刑は今から決まるっていう事だった。
殴られた頬は数日間は赤くなって腫れていた。幸運にもマスクで隠れる場所だったから、俺は風邪を引いたという事で目立たなくなるまでごまかし続けた。
「もしもし、環希さん?」
「仕事終わった?
お疲れ様。」
「うん。今帰るところです。
環希さんちの晩御飯なんですか?」
「う~ん、どうしよっかな。
今日潤ちゃんと買い物行ったから
結構食材そろってるんだよね。」
毎日ではないけど、あれ以来よく環希さんに電話をかけている。
最初はやっぱりしばらく元気がなくて、怖くてカーテンも閉め切って生活していたと潤奈から聞いた。だから俺も会いに行くことは避けていたけど、ずっと一人で家にこもり切った生活をするよりは、一日一回くらい、誰かと話したほうがいいかなと思っていた。
「あ、潤ちゃん来た。
切るね!」
「あ、え、はい。」
でも数日も経つと、声もだんだん元気になって行くのが電話越しでもわかった。潤奈は毎日環希さんの家に居座っているようで、気が付けば二人の仲はどんどん深まっているようだった。
無理はするべきじゃないけど、そうやって誰かと楽しく出来る時間があるなら、それだけでも十分だと思った。
☆
そうしているうちに、あの事件から2週間程度が経過した。
今日は環希さんがお礼の意味を込めて、ご飯を家で作ってくれると言ってくれた。電話は定期的にしていたから大丈夫だろうけど、食べられなくてガリガリに痩せてるとか、ないだろうか。
どこかで少し心配しつつ、俺は少し緊張しながらインターフォンを鳴らした。
「はい。」
「侑です。」
「あ、は~い!」
インターフォン越しの環希さんは、最初慎重に返事をした。当たり前だけど、やっぱりまだ恐怖から完全に解放されわけじゃないんだろうなと思いながら、オートロックの第一関門のドアを通過した。
「侑で~す!」
環希さんの部屋の前について、俺はドアの前でもう一度、名前を言いながらインターフォンを鳴らした。すると環希さんは一度チェーンを付けてドアを開けた後、俺と確認して中に入れてくれた。
「いらっしゃい。」
「お邪魔します。」
久しぶりに見た環希さんは、別にやせ細ってもいないし顔色もよさそうだった。
もしかして無理して笑ってるんじゃないかなと一瞬疑ったけど、だとしても無理しても笑えなかったあの日より回復していることは確かだなと思った。
「あれ?潤奈は?」
いつもうるさく出迎えてくる潤奈がいないから疑問に思って聞いた。すると環希さんは俺の方を振り返りながら、「仕事だよ」と答えた。
「ちょっと遅くなるから
先食べててってさ。」
「え、いいんですか?」
男の俺だけここにいたら怖くないだろうか。
不安に思って食い気味で聞いてみると、環希さんはニコッとわらって「大丈夫」と言った。
「あ、私の大丈夫、
信じてもらえないんだっけ。」
「はい、信じません。」
とは言ったけど、それを聞いて笑った環希さんの笑顔に嘘がない事はわかった。それでまた安心した俺は、素直に環希さんの言われた場所に座った。
「飲む?
ビールでいいよね。」
「はい。」
ワンプレートに並べられた料理を俺の前に置きながら、環希さんは聞いてくれた。彩もキレイで美味しそうなご飯に感動していると、環希さんは俺の前と自分の間にビールの缶を置いた。
「え?」
お酒、飲めないんじゃないっけ。
最初に言っていたセリフを思い出して言うと、環希さんは今度は困った顔で笑った。
「飲めないわけじゃないの。
怖くて飲むのやめてたの。」
いつ何をされるか分からないし、自分が飲んでいることで何を言われるかもわからない。そんな状況に10年近く置かれていて、どこかで"お酒を飲むこと=悪"と思っていたらしい。
「でもね、昔は好きだったの。
少しずつ思い出していかなきゃ
って思ってさ。」
まだ2週間しかたっていないのに、環希さんはすごく前を向いていた。
あんなに怖いことがあったから大丈夫かと心配していたけど、俺が思っているよりずっと、環希さんは強い人らしい。
「飲みましょう!
とことん付き合います。」
「いいね。
よろしく頼むよ。」
環希さんはそう言って、勢いよくビールの缶を開けた。
プシュッという心地いい音がいつもよりとてもいい音に聞こえて、それが環希さんの未来を表しているように思えた。
「では、乾杯。」
「乾杯。」
慎重にビールの缶を合わせて、環希さんは恐る恐るそれを口にした。俺は自分もビールを飲みながらも大丈夫かなと注目してみると、環希さんは本当にいい顔をして「はああ!」と言った。
「美味しい!
最高だね、侑君。」
無邪気に笑って言った顔がとてもかわいくて、そしてとても嬉しくて、俺は「そうですね」と答えた。環希さんはニコニコわらって「さあ食べて」と言ったから、ほっこりした気持ちで最初の一口に手を付けた。
「美味しい。」
「ほんと?」
「潤奈ちゃんにはかなわないけど」と言って環希さんは謙遜したけど、負けないくらい料理はおいしかった。環希さんはそのまま、俺がバクバク食べ進めるのをニコニコと笑ってみていた。
「昔はこうやって、
彼が美味しく食べるのみるの、
好きだったんだよね。」
「そう、だったんですか。」
きっと少しだけあった"幸せだったとき"を思い出して、環希さんは言った。
どうしてそのまま"幸せなとき"が続かなかったんだろうと、俺まで悲しくなった。
「また、見れますよ。」
「え?」
でも何も、環希さんの人生が終わったわけではない。
今まで散々苦労した分、今後本当に幸せにしてくれる男にだっていつか出会えるはずだと、本気でそう思った。
「好きな人が美味しく食べるの、
また絶対見れますよ。」
俺がそう言ったのを聞いて、環希さんは小さく笑って「だね」と言った。
「来週からさ、
また仕事することになったの。」
「もう、ですか?」
あんなことがあったんだから、もう少し休んでもいいんじゃないかと思った。でも心配する俺を納得させるかのように、環希さんは「うん」と元気に言った。
「働きたいの、私。
それにね、
こっちが元の通り生活できないのって、
なんか悔しいじゃん?負けたみたいで。」
「環希さんって、
意外と負けず嫌いなんですね。」
「そうなんだよ」と笑って、環希さんはビールをごくごくと飲んだ。
大丈夫なのか心配したけど、ここは環希さんの家だ。今日は俺も潤奈もいるんだから気が済むまで飲ませてあげようと思った。
「侑君が献血に来た日ね。」
「はい。」
しばらく飲んだり食べたりしていると、顔をほんのり赤くした環希さんは唐突に言った。なんかやっちゃったかなと思って身構えて次の言葉を待っていると、環希さんは「ふふ」と笑った。
「初めて、
男の人の献血したんだ。」
「え?!」
驚いて環希さんの顔を見ると、目が完全に酔っ払いだった。
でも環希さんのことだから酔っぱらってないと言ってくれないこともあるだろうなと思って、むしろこれでいいのかもしれないと思った。
「みんな事情知ってるから、
出来るだけ当たらないようにしてくれてて。
でもあの日すごく忙しくてさ。
私しか空いてなくて、やるしかなくて。」
「ごめんなさい、なんか。」
忙しい時にわざわざ行ってごめんなさい。と心から思った。
でももしかしてそういうのまで"把握"して委員会が俺を送り込んだんだとしたら、まじで何の団体なんだって怖くなった。
「ううん、違うの。」
「え?」
「むしろ、ありがとうだったの。」
2缶目のビールをまたいい音で開けながら、環希さんは言った。好きに飲んでいいって思ってはいるけど、いいところで止めないとなと倒れないかなと心配になった。
「私ね、男に人に触れられるのが怖くて。
でも仕事柄いつまでもそんなこと言ってられないし、
いつか克服しなきゃって思ってた。
練習がてら仕事仲間にやらせてもらおうって
試してはいたんだけど、
手が震えちゃってさ。」
あれだけの経験をしたんだから、そんなのしょうがないことだと思う。確かに環希さんの仕事には支障が出るのかもしれないけど、それも環希さんのせいじゃない。
でも多分一番克服したかったのは、きっと負けず嫌いの環希さんだったんだろうというのが、環希さんの口調からなんとなくわかった。
「でもあの日、
なんでか分からないけど、
侑君のは出来たの。
手が震えなかったの。」
「俺、男とみなされてないですかね。」
否定されるかなと思って言ったのに、環希さんは「そうかも」と言った。環希さんの力になれたなら嬉しいと思いかけたのに、それで一気に複雑な気持ちになった。
「侑君以降、
男の人のも出来るようになったの。
仕事がのびのびと出来るようになって、
本当に嬉しかった。
ありがとう。」
何もしてないのに心からの「ありがとう」を言われて、俺が恥ずかしくなった。照れた俺が思わず顔を下げると、環希さんは「あのね」と言って話を続けた。
「もう一回、
練習、してもいい?」
「え?」
ここであのぶっとい針を刺されるのかと、少し身構えた。するとそんな俺の様子を見て環希さんはクスクスと笑って、「針はささないよ」と言った。
「大丈夫だと思うけど、
またああなったら嫌だから…。
腕に、触れても、いいかな?」
そんなの朝飯前過ぎた。むしろべたべたと触ってくれと変態なことを考えつつも、「もちろん」と紳士的な振りをして返事をした。
「腕、出せばいいですか?」
「はい、ここにおいて、
手をグッと握ってください。」
初めて会った日と同じように、環希さんは言った。
それがなんだかおかしくなって笑うと、環希さんも同じように笑ってくれた。
「それでは少し、
チクッと、します。」
「はい。」
環希さんはそう言って、大きく深呼吸をした。そして本当にゆっくりと、恐る恐る、俺の腕にちょこんと手を置いた。
あの日とは違って、環希さんの手はとても暖かかった。
「大丈夫、だ。」
嬉しそうに言った後、今度は腕を握って、環希さんはにっこり笑った。
ほんのり赤い顔をして無邪気に笑うもんだから、その顔が可愛すぎて、無意識に俺の心臓がドキッと高鳴った。
「ありがとう、
私、きっと大丈夫だ。」
「大丈夫です。
怖くなったら全員俺だと思ってください。」
「それは無理でしょ。」
ピンポ~ン♪
俺たちがのんきな話をして笑っていると、そこでインターフォンが鳴った。環希さんが「はい」と言って答えると、「遅くなったぁああ」と大声で潤奈が外で叫ぶのが聞こえた。
「お前、近所迷惑だぞ。」
「あら、そう?
え、てかおたまさんビール飲んでる!」
「そうなの。
潤ちゃんも飲む?」
「イエス!!!」
俺が想像していたより距離が縮まっているらしい二人は、キャッキャと騒ぎながら乾杯をした。
そして潤奈は運ばれてきたワンプレートのご飯を「美味しい」と何度も言いながら食べて、どうやって作るのかって話を二人で楽しそうに進めた。
「あ、俺、
これの作り方聞きたいです。」
盛り上がる二人の会話を割くようにして、俺は潤奈のプレートにまだ乗っているライスコロッケを指さした。すると二人はすごく不審な顔をして、俺の方を見た。
「なんで?」
「なんでって、
作るからに決まってんだろ。」
お酒に合いそうなおかずだったから、今度香澄さんに作ってあげたいと思った。するとそれを聞いた潤奈はニヤリと笑って、「あ~あの人に作るんだ」と言った。
「あの人って?
侑君の好きな人?」
「そうそう!
おたまさんも知ってたんだ!」
「うん。
好きな人がいるって話は聞いた。」
女は怖いものだとある程度分かっているはずだけど、二人集まると威力が10倍くらいにアップする気がする。圧倒されて俺が発言しずにいると、環希さんが「どんな人なの?」と聞いた。
「めっっちゃくちゃキレイな人。
最初見た時モデルかと思った。」
「潤ちゃん見たことあるんだ。」
「うん。
カフェにデートしに来たの。」
また俺が一言も発言しないうちに、勝手に会話が進んでいった。
もう黙ってても全部潤奈が言ってくれそうだなと思って、諦めてビールを飲み進めることにした。
「どこが好きなの?
やっぱ顔?」
「おい、お前な…。」
黙っていようと思ったのに、潤奈はガールズトークの勢いのまま俺に聞いた。思わずひるんで後ろに引くと、環希さんまで興味津々な顔をしてこちらを見ていた。
「えっと。全部。
もちろん顔もだけど、
性格も最高にかわいいし、
守ってあげたくなる。」
「え、何それ。
こっちが恥ずかしくなんだけど。」
素直に答えると、聞いてきたくせに潤奈は茶化してそう言った。むかついた俺がついに潤奈をにらみつけると、「ごめ~ん」と思ってない謝罪をしてきた。
「幸せだね、その子。」
すると環希さんは、かみしめるようにそう言った。すると潤奈はそんな環希さんの肩を抱いて、「私らも見つけるぞ~~~!」と叫んだ。
「そうだね、
絶対見つけよ!」
珍しく、環希さんは強気に言った。その表情を見てホッとしていると、潤奈も同じようにホッとした顔をしていた。
「乾杯だ、おたまさんっ!」
よっぽど嬉しかったのか、潤奈はそう言って自分の缶を環希さんの缶にぶつけて一気にビールを飲んだ。環希さんも楽しそうに笑って「かんぱ~い」と言って、豪快にビールを飲んだ。
―――女子って、楽しそうだなぁと思った。
しばらく潤奈は俺に悪態をついたり環希さんに甘えたりしながらビールを飲み進めて、よっぽど疲れていたのか、気が付くとソファでそのまま寝てしまった。起こして部屋まで連れて行こうとしていると、環希さんが「大丈夫」と言った。
「ここで寝かしてあげよ。」
楽しそうな顔をして眠っている潤奈に、環希さんはそっとブランケットをかけた。これなら大丈夫だと安心して、俺も残っているビールを飲んだ。
「こないだね。
潤ちゃんの昔の話もきいたの。」
「そっか。」
「すごいよね。
辛いことがあっても、
ちゃんと前向いて歩いてる。」
「こんな小さいのにね」と言いながら、環希さんは潤奈の頭を撫でた。この二人は友達っていうより、姉妹みたいに見えるなと思った。
「潤ちゃん見てると、
私も頑張らなきゃって思うよ。」
「わかります。」
それは、わかる。
いつも前向きに頑張ってる潤奈を見ていると、俺も色々頑張らなきゃなと言う気持ちになる。本人には絶対に言ってやらないけど、お前は周りにいい影響をたくさん与えてるんだぞと、心の中で思った。
「あの日ね、
またどん底に戻るのかって思ってた。」
環希さんはきっと俺たちが想像しているより何倍も、つらい経験をしてきた。ここでこうやって笑っていることだって、奇跡に近い事なんだって思った。
「でもね、
潤ちゃんが一緒に寝てくれて、
次の日からもずっと一緒にいてくれて。
どん底に落ちてる暇なんて、
作ってくれなかったの。」
迷惑だったんじゃないかと心配したけど、迷惑そうな顔は全くしていなかった。むしろとてもいい顔をして笑っていたから、本当に思っている事なんだなって安心した。
「一人じゃないよって、
言われてるみたいだった。
そばにいるからねって。
それだけでほんとに心強かった。」
「侑君の電話でもそう思えたよ」と、環希さんは言ってくれた。あれだけのことだけど少しは役に立てていたのかなと思うと、素直に嬉しかった。
「潤ちゃんのおかげでね、
自分でも驚くくらい、
全然大丈夫になっちゃった。」
「ほんとだよ。信じて」と、環希さんは念押しして言った。その目が本気でそう言っていることはよく分かったから、俺はその言葉に「信じます」と言って答えた。
「いつか絶対、
潤ちゃんは愛されるよね。
見てたらわかる。」
どこか遠い目をして、環希さんは言った。
それは俺もそう思う。こいつは愛されるべきやつだ。でもそれは、潤奈だけじゃない。
「環希さんも、そうです。」
「え?」
「見てたらわかります。
環希さんは愛されるべき人です。」
自分では分からないかもしれない。
でもはたから見ていたら自信を持って言える。環希さんは可愛いし優しいし、思いやりのある人だ。
自分にあまり自信はないけど、これには自信があると思ってはっきりそういうと、環希さんは「そうかな」と言った。
「でも私、
男の人に触れるのも怖いんだよ。」
「それはいつか直ります。」
そう言うと、環希さんは暗い顔をして「わかんないよ」と言った。
「もう。
環希さんは頑固ですね。」
そこで初めて、今まで思っていたことを言った。すると環希さんはびっくりした顔で俺を見て、「年とるとどうしてもね」と言った。
「わかりました。
じゃあ、練習してください。」
「え?」
「俺が証明します。」
俺は半分賭けに出て言った。
環希さんは何を言ってるんだという顔をしてこちらを見ていて、俺も自分は何を言ってるんだろうなと思っていた。
「抱きしめられに、
来てください。」
「え??」
拒否されたらされたでいいと思って、俺は手を広げた。すると環希さんはもっと頭にはてなを浮かべていた。
「俺は絶対にここから動きません。
だから環希さんから、
抱きしめられに来てください。」
「抱きしめ、られに…。」
「俺は動かないし、
嫌なら来なくて構いません。
でも腕を触れた俺なら、
練習台になれるかもしれないです。」
本当に何を言っているんだろうと、自分でも思った。
こんな大胆なことをしているのは、酒に酔っているからだろうか。嫌なら来なくていいと言ったけど、拒否られたら地味に傷つきそうだな。
頭の中で一気に色々なことを考えた。
その間環希さんはうつむいて真剣に何かを考えていて、もしかしてすごく困らせてしまっているのかもしれないと反省し始めた。
「すみません、
調子乗りました。」
沈黙に耐えられなくなって、ついに俺は折れた。
すると環希さんは「いや」と勢いよく言って、何か決心を決めたような顔をした。
「やらせて。」
「いいんですか?」
自分で提案しながら、恐る恐る聞いた。環希さんはその質問に、やっぱり決意をこめた顔をして「うん」と言った。
「お願い、します。」
環希さんはやっぱり頑固だから、こうなったらあとには引かないと思った。
ちょっと一日で無理をさせすぎていないかと今更反省しながら、俺は遠慮がちに両手を広げた。
「どうぞ。」
そんなセリフが正解なのか、全く分からなかった。
考えに考え抜いた頭が言ったのはまさか「どうぞ」なんていう機械的な言葉で、こんなんじゃ来にくいじゃないかとまた反省した。
俺が心の中で葛藤している間、環希さんはゆっくりとこちらの方に近づいてきた。そして後30センチくらいの距離辺りまで来たところで、「ふぅ」と深呼吸をして、一旦停止した。
「あの、環希さん。
無理は、しないでくださいね。」
「大丈夫。」
あれだけ環希さんの"大丈夫"は信じないと言ったのに、やっぱり環希さんは大丈夫だと言って一旦目をつぶった。
そしてもう一回だけ小さく息を吐いたあと、「失礼します」とまるで部屋に入るみたいなセリフを言って、ゆっくりゆっくり、俺の胸に頭を近づけ始めた。
環希さんの頭はそのまま本当にゆっくりと、俺の胸に落ちてきた。
完全に頭が胸に預けられたくらいの体重を感じてそちらの方を見てみると、環希さんは少し恥ずかしそうな顔をして、笑っていた。
「ねぇ、侑君。」
「は、はい…。」
「出来たね。」
「そうですね。」
自分で提案しておきながら、完全に動揺して下を見れなくなった。
動かないと言った手前広げた手も動かせなくて、俺はただただ十字架に貼り付けられたキリストみたいに、その場に固まっていた。
「侑君、ドキドキしてる。」
「そ、そりゃ…。
女の人にくっつかれたら…。」
動揺し過ぎてどもりながらいうと、環希さんは「ふふふ」と笑った。伝わってくる体温がとても暖かくて、高鳴った胸はしばらく落ち着きそうになかった。
「私、ドキドキしてもらえるんだ。」
「当たり前です。」
環希さんはこれまで、"当たり前"のことを、しいたげられてきた。
そう分かっていながらも"当たり前だ"と答えると、環希さんはその言葉で顔をあげた。
「ね、侑君。」
「は、はい。」
「あのね。」
すごく言いづらそうに、環希さんは下を向いてしまった。
やっぱり嫌だったかなと思って「どうしましたか」と慌てて聞くと、今度は勢いよく顔をこちらに向けた。
「練習ついでに、
もう一個、いいかな。」
「は、はい。」
顔が思ったよりも近くて、それに自分の鼓動を聞かれているという状況にも緊張して、鼓動がさらに早くなっていった。それまでも全部聞かれていると思ったらもっともっと鼓動が早くなっていって、このまま止まってしまうんじゃないかと思った。
「キス、して…みて、ほしい…。」
ええええええぇえええ?!
うっわ、俺完全にプログラムのこと忘れてた。
え?ええ?キス??本心?うわべ?
キスの、練習?!??
そんなの全部本番じゃん?!?
え、なに?何この状況?!?
もうなんもわっかんねぇええええ!!!
「ごめん、嫌だよね。
好きな子もいるのに。」
もしかしてこれが成功だとしたら、言わせた時点でもう環希さんを攻略したことになる。だからキスをしなくたっていいんだろうけど、なんとなく、環希さんは今日のことを忘れた方がいいと思った。
練習したことを忘れたとしても、きっと自信はすこしずつでも取りもどせる。そして俺とのキスなんて忘れた方が、環希さんのことを本当に愛してくれる人と、幸せなキスができるはずだ。
それにここでキスしなかったら、また愛される自信を、なくしてしまうかもしれない。
香澄さん、ごめん。
俺は心の中で丁寧に香澄さんに謝って、返事の代わりにゆっくりと、右手を環希さんの頬に添えた。すると環希さんは俺の手におびえることなく、赤く染まった顔を、こちらにあげてくれた。
「環希さん。」
「ん?」
「目、つむって。」
「あ、ごめん…っ。」
忘れてたって顔をして、環希さんはそっと目を閉じた。
それを確認して安心した俺は、こうやっていつか環希さんの好きになった誰かが環希さんにキスをすることを願って、優しく、触れるだけのキスをした。
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