case5-6 女神・有巣香澄
そうは言っても行動に出来ないまま、俺は香澄さんの家に週に3~4回泊まる日々を続けていた。香澄さんもすごく幸せそうにしてくれていたし、俺も香澄さんを色んな意味で自分のものに出来たことがただただ嬉しくて、やっぱりこのままプログラムなんて終わらせてやろうかと思った。
今日も仕事終わりに香澄さんの家に行くことになっていたから、仕事中も香澄さんのエロイ体しか浮かんでいなかった。最近はだいぶすんなり入るようになったし、動かせるようにもなってきた。
―――さあ今日はどんな攻め方をしようかな。
いや、仕事しろよ、俺。
気を取り直して仕事に集中しようとしていると、スマホにメッセージが来た。
"ごめん、
今日やっぱり会えない。"
「ウソだろ~。」
「なんかあった?」
「あ、何でもないっす。」
今の今までエロイことを考えていたのに、会えないと連絡が来て落ち込んだ俺は、独り言を口に出して言っていた。残念なことには変わりないけど、会えないなら仕方がない。
また明日会えばいいんだしと思いながら、"全然大丈夫だけどなんかあった?"と返信をした。
"なんでもない!
ちょっと用事。"
何の用事だよって思ったけど、それはあえて聞かなかった。
残念な気持ちはしばらく引きずったけど、俺は淡々と仕事をこなして、一人寂しくマンションへと帰った。
☆
"ごめん、今日もダメだ。"
楽しみにしていた次の日、香澄さんからまたお断りのメッセージがきた。そして次の日にはついに、"今週は会えない"と連絡がきた。
その連絡が来た時はさすがにおかしいと思って何度か電話をしたけど、その電話にも出てくれなかった。
"ほんとなんかあった?"
"何もない、ごめんね。"
胸騒ぎがした。
香澄さんと付き合ってまだ1か月ちょっとしかたっていないけど、でもこんなことは初めてだった。
絶対に、何かあった。
多分俺が感じていた違和感とか、相沢が言っていた"もったいない"の理由がこれな気がする。
今までの俺だったら、一歩引いて素直に待っていたと思う。
でも今の俺は一味違う。
中途半端を矯正しかけているらしい俺は、会えないと言われたにも関わらず、仕事終わりに香澄さんのマンションへと向かっていた。
ピンポ~ン♪
聞きなれた呼び出し音が、耳に入った。
いつも"もうすぐ着く"と連絡しているからインターフォンにはすぐに答えてくれるんだけど、今日は答えるまでに少し時間がかかった。
「…はい。」
もしかして留守なのかもしれない。
そう思って帰ろうとしたその時、インターフォン越しから小さい声で返事があった。
「香澄さん?ごめん急に。」
「うん、どうした?」
こっちが聞きたいことだった。
先週まであれだけ幸せにしていたのに、急にこんなのっておかしいだろ。
そうは思っていたけど強くも言えなくて、「とりえあず入れてほしい」と言った。
香澄さんは何も言わず、ただドアを開けてくれた。
思っていたより深刻な雰囲気に、胸騒ぎがさらに強くなった。
なんだよこれ、まるで、終わりみたいじゃん。
変な違和感を感じている胸が、ドキドキとうるさかった。あんなに会いたいと思っていたのに香澄さんの部屋が近づくにつれて足が重くなってきて、もはや着かなければいいと思った。
そんな無駄な願いは届かなくて、俺の足は香澄さんの部屋の前に到着した。震えている指をなんとかおさえながら恐る恐るインターフォンを押すと、今度はすぐに、香澄さんが中から出てきた。
「入って。」
平日だっていうのに、香澄さんはすっぴんで部屋から出てきた。
それにいつも着ているルームウェアが少し乱れてるような気がして、俺の中の違和感はさらに膨らんでいった。
「香澄さん。」
「あのさ、つむ君。」
部屋に入るや否や名前を呼んだ俺の言葉をさえぎるように、香澄さんが逆に俺を呼んだ。本当は何も聞きたくない気がしたけど、そういうわけにもいかなくて、「どうした?」と言った。
「私たち、
もう会うのやめよ。」
「は?」
唐突すぎて、凜香の時のことを思い出した。
やっぱり俺はあの時と同じように、香澄さんが発していたサインを見逃していたのか。全然中途半端を脱出できていない自分が嫌になりながら、絞り出すみたいに「なんで」と言った。
「なんでも。
もう会いたくないの。」
冷たい声で言う香澄さんの言葉が、胸に深く刺さった。
まるで本当にナイフで刺されたみたいに胸がズキズキと痛み始めて、俺は思わず自分の胸をつかんだ。
「なんでもって。
理由が、あるでしょ?」
俺たちは確かに、愛し合っていた。
香澄さんの気持ちが少しずつこちらへ向いていることも、実感できていた。
なのになんで。
疑問ばかり抱えてそう聞くと、香澄さんは楽しそうでもないのに乾いた声で「はは」と笑った。
「来て。」
香澄さんはそう言って、俺の手を取って自分の寝室へ連れて行った。そして寝室に入るなりゴミ箱を手に取って、俺に差し出してきた。
「見て。」
ゴミ箱の中には、生々しい使用後のゴムが捨ててあった。
それに寝室の中は男のアレの独特のにおいが漂っている気がして、その状況がすべて、真実を語っていた。
「私、こういう女なの。
新しい男が出来たから
もうつむくんいらなくなっちゃった。」
すごく冷たい目で笑って、香澄さんは言った。
俺の胸に突き刺さったナイフはもっともっと奥深くまで刺さっていって、もう死にたいとすら思った。
ここで「ふざけんなよ」と怒るのが、普通の反応なのだろうか。
でも怒る気力もなくした俺がただうなだれて視線を落とすと、目に入ってきた香澄さんの手は、かすかにふるえていた。
「香澄さん。」
俺は香澄さんが持っているゴミ箱を取り上げて、下におろさせた。そしてゴミ箱を持っていた手を、両手で握った。
「ほんとは、
何があったの?」
あの頃の俺なら、「ふざけんなよ」と怒る前に「わかった」と言って帰っていたかもしれない。でもプログラムに参加してしまった俺の勘は、「そうじゃない」と言っていた。
まだ胸にはナイフがしっかりと突き刺さって痛かったけど、俺は香澄さんに手を差し伸べることをやめられなかった。
「だから、言ってんじゃん。
私もともと、こういう女なんだよ?
わからなかった?」
「ほんとのことを、言ってほしい。」
俺の言葉を聞いて、香澄さんは一瞬俺の目をみた。でも次の瞬間には目を反らして、「ほんとだから!」と叫んだ。
「じゃあ。」
俺は握っている両手の手を強めた。
その手はやっぱりどう考えても震えていて、俺は無理やり覗き込んで、香澄さんと目を合わせた。
「じゃあ、
どうしてこんなにおびえてるの?」
香澄さんは一瞬、泣きそうな目で俺を見た。そして「はぁ」と大きく息を吐いたあと、まるで力が抜けたみたいに、ペタっと床に座り込んだ。
「香澄さん。」
まだ少し震えている香澄さんの両肩を持って、俺はソファへと連れて行った。気温は暑いはずなのに香澄さんの体はどこか冷たくて、俺は自分の着ていたジャケットを肩にかけた。
「つむ君には、嘘、つけないね。」
香澄さんは、笑っていた。口は笑っていたけど目が全然笑っていなくて、むしろ泣いているみたいに見えた。
それからしばらく、香澄さんはうつむいたまま何も言わなかった。俺は震えている背中に自分の手を置いて、香澄さんが話し始めるまで、背中をさすっていた。
「本当のお父さんとお母さんが離婚してね。
お母さんがおかしくなったの。」
すると香澄さんは深呼吸をした後、息に乗せるみたいにして声を出した。俺は目を見ながらギュっと手を握って、その話に耳を傾けた。
「毎日違う男の人と帰ってきた。
最初はまだ小さかったから意味が分からなかったけど、
中学生くらいになったら
夜リビングから聞こえてくる音が辛くて、
ずっと耳をふさいで寝てた。」
俺は思わず香澄さんの肩をギュっと自分の方に寄せた。そうしないと香澄さんが消えてしまいそうな気がした。
「それでね、
お母さんが連れてきた男の人の何人かは、
私のこと、女としてみてきた。
私の初体験は、
名前も知らない男の人とだったの。」
「…は?」
そんなの犯罪じゃないか。
そう思ったけど、とにかく香澄さんの話を止めたくなかった。
「最初はね毎日泣いてた。
でも何となくお母さんに言えなくて、
ただただ我慢してたの。
嫌われたく、なかったの。」
どんな親だって、香澄さんにとってはたった一人の肉親だ。お母さんに嫌われたくないって気持ちは俺だって理解できるけど、そんなの辛すぎると思った。
「でもね、
ある日男の人が私を犯してる時、
部屋の隙間からお母さんが見てるのが見えた。」
香澄さんは涙も流すことなく、淡々と話した。香澄さんの痛い気持ちが伝わってきて、泣いたのは俺の方だった。
「わかってたんだと思う、全部。
それでも助けてくれなかったってのが、
わかっちゃったの。
そのお母さんを見た時にね、
感情が全部スッと消えて行くのが分かった。」
香澄さんから感情を奪ったのは、虐待をした父親だけじゃなかった。それでようやく、すべての出来事が腑に落ちた気がした。
「それからは本当に無だった。
何をされても何も感じないし、
どうでもよかったの。
私が黙ってて全部うまく行くなら、
それでいいって思った。」
香澄さんの言うそれは、"全部うまく行く"とは言えないと思った。でも当時の香澄さんにとっての"全部"には、きっと香澄さん自身は含まれていないんだ。
「そんな時お母さんが連れてきたのが、
今の父親だった。」
香澄さんはまだ悲しい顔をしたまま、力なく笑った。
「今の父親も同じだった。
他の人と同じように
私にも手を出してきた。
でもね、違ったのはお金だった。」
「お金…。」
「そう。」
香澄さんはまた力なく笑って、膝に置いた手をグッと握った。感情がなくなったなんて嘘じゃないかと思った。
「小さな会社だけど社長をしててね、
とにかくお金があった。
だからお母さんも結婚して、
貧乏だった私たちは、
何不自由ない暮らしが出来るようになった。」
香澄さんはやっぱり泣かなかった。むしろ乾いた目でどこか遠くを見ているようだった。
「暮らしが安定したらね
お母さんの気持ちも安定した。
結婚してから犯される日も増えたけど、
それでもお母さんは笑ってたし、
私もやりたいことを何でもさせてもらえた。
だから要求されても、断らなかったの。」
「そんな…。」
そんなの絶対に間違ってる。でもそんなことは香澄さんが一番わかってるはずだ。
俺は言いたいことをとりあえず全部飲み込んで、香澄さんの手を握る自分の手を強めた。
「でもね、その代わり、
人を好きになる気持ちがなくなったの。
昔は恋だってしてたと思うけど、
私のこと好きになってくれた人と付き合ったって
自分から好きになれる人はいなかった。
エッチだって、ただの行為だった。
人といたって気持ちが安らぐことがなかった。
かえって男の人と一緒にいると
胸騒ぎがしてすごく嫌だった。」
香澄さんの濡れなかった原因は、すべてここにあったのかと納得した。
でも香澄さんは全部、それを克服したはずだ。それなのにまだ、香澄さんは悲しそうな目をして笑っている。
「でもね大学のときね、
つむ君といるとなんだか安心する気がしてたの。
なんでかは分からないんだけど、なんとなく。
それでね久しぶりに会った時、
もしかしたらこの人ならって思った。」
そんなこと、思っていてくれたのか。
香澄さんが俺のことを好きじゃなくても、そう思ってもらえているだけで充分な気がした。
でもそうじゃないらしい香澄さんは、自分に言い聞かせるみたいに話を続けた。
「つむ君も私のこと好きになってくれて
告白してくれて、
本当にうれしかった。
大事にしてくれて、気持ちを一番に考えてくれて、
初めてエッチがしたいって思った。
涙を流せたあの日、
もしかしたら私も普通に生きていけるかもって
そう思ったの。」
「そうに、決まってるじゃん。」
ようやく言葉を発して、俺はそう言った。
すると香澄さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「私つむ君のこと利用したの。
この人ならって試したの。」
「別にそれでも…っ。」
「それにね、
つむ君のこと、ちゃんと好きになれた。」
くしくもそこで、香澄さんは俺に始めて"好き"と言ってくれた。
でもそのシチュエーションは、思っていたものとは全く違った。
「でも好きになればなるほど、
私の汚い部分がどんどんあらわになってる気がして
辛くなっていったの。
一人になると消えたいくらい
黒い感情に襲われたの。」
こんなことなら一人にしなきゃよかったと、そう思った。
やっぱり俺は香澄さんのサインに気が付いてあげられない、中途半端な男だ。
「それでもしばらく目をつぶれた。
つぶってるうちに辛いのも忘れるのかもって思った。
でもねこないだ久しぶりにあの男がやってきて、
やっぱり私は断らなかった。
今日だってそう。」
「それは断れなかったんじゃ…っ」
「ううん、断らなかったの。」
小さい頃からそんな風に生きてきて、断れなかったんだと、それでも俺は思った。でも香澄さんがあまりにも強い目をするから、言葉が出なくなってしまった。
「やっぱり私、もうダメなの。
アイツとしてる時、
黒い感情が消えて行く気がしたの。
"ああ、私はこういう人間だった"って、
妙に納得できたの。」
「違う…っ。」
それは違うよ。
そう言いたかったのに、香澄さんが言わせてくれなかった。
香澄さんはやっぱり泣いていなくて、俺だけが涙を流し続けていた。
「キレイなつむ君といて
自分までキレイになったつもりでいた。
でも違った、やっぱり私は汚い。」
「汚くてもいい、俺はただ香澄さんと…っ。」
「違うの。」
香澄さんはまた悲しそうに笑って、俺の手を自分の手から離した。
俺にはそれが、お別れを言っているように聞こえた。
「つむ君のこと好きになればなるほど、
大切にしてもらえばしてもらうほど、
怖くなるの。辛くなるの。
つむ君と一緒にいると、
封印した感情がどんどん溶けていって、
それがすごく、つらいの。」
香澄さんは手で俺の涙を拭いて、にっこり笑った。笑顔は作れていたけど悲しい顔にしか見えなくて、俺の目からはまた涙がながれた。
「期待しちゃうの。
私も普通になれるって、
顔とか体とか抜きにして愛してもらえるって、
信じたくなっちゃうの。」
香澄さんは、誰が何と言おうと美しい。
でもその美しさが時に、この人を苦しませることがあるんだと、俺はそこで初めて知った。
「信じた分だけ、
裏切られた時辛いでしょ?
それなら私は
最初からない方がいいと思う。」
全部諦めた目をして、香澄さんは笑った。俺は香澄さんを暗闇から救っていたつもりが、いつしか彼女を暗闇に落としてしまっていたのかもしれない。
自分がどこでどう間違えたのかと考えていると、香澄さんは俺の目を見て、にっこりと笑った。
「この世に永遠に続く愛なんて、
ないんだから。」
香澄さんの目は笑っていたけど、目の奥はとてもとても暗かった。
そんな香澄さんに、"そんなことないよ"と、言ってあげたかった。
俺は地球が滅亡したとしても、どんなに暗いところにいたとしても、永遠に香澄さんのことが好きでいる自信があると、そう言いたかった。
でもいくら言葉で伝えたって香澄さんの気持ちが辛くなるだけな気がして、俺は何も言えなくなった。
「これ以上一緒にいたら、
つむ君のそんなキレイな涙を見てたら、
きっと私はもっと自分のことが嫌いになる。」
俺の大好きな笑顔ですがすがしく笑って、香澄さんは言った。
決意のこもった言葉で、胸のナイフがもう抜けなくなった。
「最後まで勝手言ってごめん。
散々利用して、ごめん。
でも一緒にいると辛いの。分かって。」
とどめを刺すみたいにしそう言って、香澄さんは肩にかけていた俺のジャケットを脱いだ。そしてお別れの代わりに、それを俺の手の上に置いた。
「ごめんね。」
嫌だと、抵抗するべきだろうか。
抵抗することはいくらでも出来るんだろうけど、それが辛いと言われてしまったら、これ以上何もすることが出来なくなった。
俺は抵抗することもなく静かに立ち上がって、玄関の方に向かった。
俺のせいで、香澄さんが辛くなった。
感情を押し殺したままの方が良かったなんて、そんなことは思わない。
でもそんな俺の考えが、香澄さんを苦しめているのは確かなことだ。
「俺のせいで、ごめんね。」
出会ってしまって、ごめん。
俺は香澄さんの目も見ないまま、ドアから外に出た。
香澄さんはどんな顔をしているだろうか。
俺との別れを、悲しんでいるんだろうか。
それともやっと別れられたと、笑っているんだろうか。
―――悲しんでいてもホッとしても、どちらにせよ辛い。
もう何も考えられなくて、もう何も考えたくなくて、無心のまま俺は、自分の家へと帰った。
10年も住んでいる家には、何も考えなくても帰ることができた。放心状態のまま俺は部屋の鍵を開けて、いつもの位置へと座った。
「香澄さん…。」
――――俺はどうするのが正解だったんだろうか。
香澄さんは確かに、俺といたことで感情を取り戻せたと、好きになれたと、そう言ってくれた。絶対にそれは間違っていなかった、はずだ。
――――どこで間違ったんだろう。
間違わなければ、香澄さんは辛くならなかっただろうか。
思い返してもどこで間違えたのかはわからなくて、やっぱり俺の中途半端なんて全く矯正されていないじゃないかと思った。
もう俺には、何もすることが出来ないんだろうか。一緒にいられなくても、せめて香澄さんが悲しむのを止められないだろうか。
そう思った時、相沢に最初に言われたことを思い出した。
「そうだ。」
思い出した瞬間、俺はスマホを手に取った。そして震える手をなんとかコントロールしながら、相沢に電話をかけた。
「もしもし。」
相沢はこんな時でも、ワンコールで電話に出た。
声がなんとなくいつもより暗い気がするから、やっぱり全部"把握"されてるんだろうなと思った。
「俺、プログラムやめるわ。」
相沢が何か言いだす前に、俺はそう切り出した。
相沢は確か最初に、俺が途中でやめれば記憶を失うと言った。
そうすればきっと、香澄さんは俺のことを忘れられる。
出会う前の大学の後輩と先輩に、俺たちは戻れる。
――――そしてなにより、
俺もこの胸のナイフを、取ることが出来る。
「本当に、いいんですか?」
予想はしていたけど、相沢はそう言った。
いいわけなんてない。
香澄さんとの幸せな想い出は、絶対に忘れたくない。
でも――――。
「しょうが、ないだろ。」
すこしでも悲しい気持ちを忘れさせてあげるなら、少しでも楽にしてあげられるのなら、それでいい。
それが楽になる方法だなんて、そんなの間違ってる。
でも今すぐにでも、あんな顔をして笑う香澄さんの気持ちを、少しだけ、救ってあげたい。
「かしこまりました。
それでは手続きをさせていただきます。」
相沢はこれ以上抵抗することなくそう言った。
何となく名残惜しい気がするのは、止めてほしかったからだろうか。
とことん情けない自分に、思わず笑ってしまった。
「ありがとな、ほんとに。」
「いえ、とんでもないです。」
香澄さんにとっては辛いことをさせてしまったかもしれない。
でもこの数か月間、俺は確実に成長してきたと思う。
「ごめんな、俺みたいなので。」
「いえ、佐々木様は
本当に良くやられたと思います。」
最後は褒めてくれるのかよ。
相沢の言葉を聞いて、俺の目からは涙がこぼれた。情けない自分が本当に嫌で、こんなことだから香澄さんにも辛い思いをさせるんだと思った。
「手続きをしますと、
明日の朝起きた時、
プログラムのことは忘れるようになっています。」
「うん。」
勝手に忘れているなんて、やっぱり怖い委員会だなと思った。
でもこの委員会に頼って中途半端を矯正しようと思っていた俺は、もっと危ない存在なのかもしれない。
「相手も、
俺のこと忘れられる?」
「はい。忘れます。」
それならいい。香澄さんの記憶を消してあげられるなら、それでいい。
「本当にありがとう。」
「こちらこそ、
ご協力いただき、ありがとうございました。」
俺は最後に相沢にお礼を言って、電話を切った。
これで香澄さんは、俺のことを全部忘れられる。辛かった思い出は、全部消せる。
「大好きだったな…。」
寝てしまったら俺は、香澄さんのことが大好きだったことも、忘れてしまう。
そう考えたら寝られそうになくて、俺はとりあえず冷蔵庫に入っていたビールを一気飲みした。
「さよなら。
いつか、幸せになってね。」
俺では香澄さんを幸せにしてあげられなかったけど、いつか必ず、幸せになってほしい。
そんな無責任な願いをいるかも分からない神様に願いながら、俺は記憶をなくすまで酒を飲み続けた。しばらくは記憶をなくせそうにないなと思っていたくせに、知らないうちに意識は遠のいていった。
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