プロローグ-2 まさかのイベント発生中


それから1週間、俺の意識は香澄さんとのイベントに全て向いていた。

仕事をしていても頭のどこかに香澄さんの無邪気な笑顔が浮かんでいて、これじゃ本当に恋をしているみたいだと思った。



まあ自分があの人に恋が出来る立場じゃないってことくらい、分かっているんだけど。



もしまだ俺が大学生だったら、当日は何を着ていったらいいのかとかそんなことで悩むのかもしれないけど、今日は仕事終わりに集合することになっている。クリーニングやらアイロンがけやらはめんどくさいけど、スーツって着るだけで普段より幾分かましに見えるらしいし、本当に便利だ。


社会人になって一番ってくらいスーツに感謝しながら、俺は運命の日、金曜日を迎えた。




「ね、つむつむちょっといい?」

「パズル型ゲームの呼び方すんのやめろ。」



こういう日に限って、外回りの予定があまり入っていなかった。考えたらドキドキが止まらなくなるから何かしていたいのに、デスクワークをしていると余計に考えてしまう。それでも何とか集中して仕事をしようとしていると、気の抜けた呼び方で同期の鎌田朱音(かまたあかね)が話しかけてきた。



「いいじゃん、別に。」

「んで、なに?」

「今度の今宮ドラッグの棚割りの件なんだけどさ。」



俺たちは新卒で、生活用品をドラッグストアとかスーパーとかに卸す中堅卸会社に就職した。あっという間にもう5年の月日が流れて、こいつともだいぶ付き合いが長くなった。

この時期は棚割りと言って、次の季節に棚にどんな商品を入れるのかの入れ替えの時期で、製造メーカーが新商品を売り込みに来たり、逆にそれを僕たちが小売店に売りにいったりする関係でやたら忙しい。


今回は朱音と大型ドラッグストアの担当をすることになってたから、最近はそれなりに慌ただしく働いている。あたりまえだけど俺がそんな決戦の日を迎えているなんてコイツは知る由もなく、朱音はいつも通りテキパキと話を前に進めた。



「聞いてんの?」

「うん、聞いてる。」

「じゃ、そういう感じで。」



いいよな、お前は。

あまり恋愛感情は抱いたことがないけど、朱音はどちらかというと可愛い顔をしていると思う。中途半端を公言している俺が偉そうに評価するのもどうかと思うけど、かわいいだけじゃなくて明るいし人当りも良くて、営業先からも評判がいいし、話を聞いているとそれなりにモテている。


それなのに彼氏がしばらくいないってのは俺にとっては七不思議ではあるけど、中途半端な自分と比べてカーストで言うと上位な同期をうらやましく思った。


すると無意識に俺がじろじろ見ていたのを不思議に思ったのか、朱音は「変なつむつむ」と思いっきり嫌悪感いっぱいの顔をして、また自席に戻ってテキパキと仕事を始めていた。



たまに思い出すことはあっても、忙しい時期という事も味方してその日もしっかりと仕事をしていると、あっという間に終業時間になった。普段ならもう少し残業してから帰るところだけど、今日の俺は一味違う。すでに会社から出る時もがちがちになっていたのはかなりかっこ悪いけど、朱音や上司にあいさつだけ済ませて、少し早めに香澄さんとの集合場所に向かった。



少し早め、とは言ったけど、30分前には到着していたから、かなり早めというのが正解だろうか。

飲み屋が集まるその周辺には週末ってこともあっていつもより人が集まってきていて、集まっている人の中のどのあたりから香澄さんが登場するのか考えるだけで、心臓が口から飛び出そうだった。



香澄さんを待ちながら、俺は一応予約完了メールを確認することにした。

太一と飲みに行く時は予約なんて絶対にしないし、テキトーな居酒屋にって思うけど、香澄さんと二人で飲むなんて人生に一度しかないであろうビックイベントを、そんなテキトーに終わらせるわけにはいかない。


どんな店がいいかって香澄さんに聞くと、のめればどこでもいいなんて返答が返ってきたから、適度にキレイでお酒の種類も多そうな店を、中途半端なりにしっかり探して予約までしておいた。



「19時から二人…。よし。」



大丈夫。

日にちも時間も間違いない。場所はここから目と鼻の先にあるから問題ない。



電車が出発する前の車掌の指差し確認みたいに、しっかりと確認をした。

これくらい念入りにチェックすれば、仕事でのミスなんてなくなるんだろうな。

それが分かっていても出来ないのが人間だけど、出来たなら俺は同期の誰よりも早く昇進できるのかもしれない。



そんな無駄なことをぐちゃぐちゃと考えていると、突然後ろから肩を叩かれた。

それに驚いて大げさにビクッと肩を揺らしながら振り返ると、そこには爆裂スマイルを浮かべた香澄さんが立っていた。



「よっ!お疲れ!」



スマイルが爆裂過ぎて、俺はまた石になりかけた。でも何とかその呪縛を必死に解きながら「お疲れ様です」と口から絞り出すように言った。



「ごめんね、もしかして待たせた?」

「いや、全然。」

「お、気使えるね。

イッケメン。」


もう言葉を発しないでくれ、と思うほどに、香澄さんの一言一言で心臓が飛び跳ねている自分がいた。でも香澄さんはそんな俺の様子になんて気づくはずもなく、「じゃ、いこっか」と軽く言って、どこかもしらないのに店に向かおうとし始めた。


「あ、香澄さん。

そっちじゃないっす。」


どこに行こうとしているかしらないけど、反対方向に行こうとする香澄さんを呼び止めた。でも俺の中途半端な声が聞こえなかったのか、香澄さんは全然足を止めようとしなかった。

むしろ速足でどんどん進もうとしているから、これでは人ごみの中で見失ってしまうと判断した俺の脳は、咄嗟に香澄さんの腕をつかんでいた。




掴まれたことに反応して、香澄さんは驚いた表情で振り返った。




驚いた顔まで破壊力はすさまじくて、アッパーを打たれたボクサーみたいに後ろに倒れかけた。



「こっち、です。」

「あ、そか。ごめんごめん。」



これ以上顔を見たら死んでしまいそうだ。

いや、これから二人で飲むとか耐えられるのか?俺。



予約した席がどんな風になっているかは行ってみないと分からないけど、対面で座る席ならもう本当に心臓が止まってしまうかもしれない。少しでも店に着く前に鼓動を整えるためにも、俺はそこからは香澄さんの前を歩くことにした。



でもそんな努力もむなしく香澄さんは楽しそうに笑いながら俺の横に並んで、「どんなとこかな~楽しみだな~」と独り言を言っていた。絶対可愛いから俺は顔を見ないようにしていたけど、すれ違う人ほぼ全員が香澄さんにくぎ付けになっているのが客観的にみているとよくわかって、隣を歩けている自分が誇らしく思えると同時に、みじめな気持ちにもなった。



「ここです。」

「お、なんかおしゃれ~!」


あまり堅苦しいところもいやだったから、俺は最近話題になっているスペインバルを予約した。名前を伝えると店員は俺たちを、フロアの角にある少し高めの丸テーブルの席へと案内してくれた。テーブルには席が直角にセットされていて、真正面ではないことを少し安心した。


俺の心が叫び続けている間も、香澄さんはとても楽しそうに「キレイな店」とか「ワイン美味しそう」なんて話をしていて、この店を選んでよかったなと思った。




「生で。」

「私も。」



おしゃれなスペインバルに来たというのに、俺たちはお約束の"とりあえず生"を注文した。大学時代の俺たちにとって、ビールは手っ取り早く酔えるツールみたいなものだったけど、社会人になってはストレスを流し込む特別な飲み物に変わった。多分それは香澄さんも同じらしく、「今週も疲れたね~」なんてかわいい顔をしながら言っていた。



「それじゃあ、乾杯。」

「乾杯。」



それからすぐに黄金の飲み物が到着して、それと同時にテキトーに注文をした後、香澄さんはキラキラした目のまま乾杯をした。そしてそのままグイッとおしゃれグラスの半分くらいの量を飲み干すのを見て、そう言えばこの人酒めちゃくちゃ強かったなってのを思い出した。



「それにしてもほんっと久々だよね。」

「そうですよね。」



正常に話をするためには、俺にはアルコールがどうしても必要だった。

豪快に飲んでいる香澄さんに負けないようにとりあえずの生をグイッと飲んで、やっとの想いで会話を続けた。

香澄さんは入口から見える位置に座ってニコニコしながら僕に話しかけていて、入ってくるたびこそこそとみんながこちらを見ているのが分かった。


香澄さんの可愛さ含めて、今日は全然アルコールに集中できそうにないと思った。




「つむくん、今何してるんだっけ。」

「卸で営業してます。」

「へぇ、すごい。営業マンか。」



なにもすごくないけど、本当に感心した様子で香澄さんは言った。それだけで少し照れくさい気持ちになっていたけど、香澄さんが店員を呼び止めてワインを頼んだので、目を覚まして俺も同じものを注文した。



「香澄さんは、弁護士秘書、でしたっけ?」

「あ、うん。

よく覚えてるね。

お堅いおっさんの秘書してるよ、相変わらず。」



そのお堅いおっさんとやらは、毎日楽しいでしょうね。

心の中ではそう思いつつ、「かっこいいですね」と本当に思っていることを言った。すると香澄さんはまた無邪気な爆裂スマイルを向けて、「そうでしょ!」と誇らし気に言った。



「でもさ、あたりまえなんだけど

裁判なんてドロドロな事ばっかりなんだよね。

近くで見てたら嫌になっちゃうよ。」

「なるほど。」



確かに自分の生活では考えられないような事件とかの話を毎日聞いてたら、精神が参ってしまいそうだ。でも香澄さんは参っている様子もなく到着したワインをキレイに飲んで、「わ!すごいおいしい!」と言った。



「懐かしいよね~あの頃。

楽しかったなぁ。」

「ですよね。」



香澄さんの言う通り、あの頃は毎日楽しかった。

酒ばっかり飲んで酔っ払って朝まで飲んで寝ないままバイトに行って、授業なんて二の次で…。人生の夏休みと大学時代を表現することがあるみたいだけど、本当にその通りだったと思う。

今考えたらゾッとするけど、あの頃は本当に楽しくてたまらなかった。



過去を懐かしんで思い出に浸っていると、香澄さんもすごく懐かしそうで、そして少し悲しそうな顔をして笑っていた。



「つむくん、彼女とかいんの?」



すると唐突に、香澄さんは聞いた。

唐突すぎて少し驚きながら、「いや、いないっす」と素直に返答をした。



「よかった。

それ聞く前に誘っちゃって、

彼女さんに怒られたらどうしようって

今更思っちゃった。」

「いや、こちらこそなんですけど、

大丈夫っすか?」



いや、俺より香澄さんの彼氏だろ。

こんなかわいい人に彼氏がいないわけはないと決めつけて言うと、香澄さんは困ったように笑って首を横に振った。



「いないよ、私も。」

「嘘だ。」

「ほんとほんと。

もう1年くらいいない。」


天変地異かよ。

こんなかわいい人に彼氏がいないなんて、世の中の金持ちやイケメンどもは何をしているんだ。


天に二物を与えられたやつらを恨みつつ、まだ俺は少し香澄さんの話を疑っていた。でも本当に嘘じゃないって様子で香澄さんは「出会いもないしね~」なんて話を続けるもんだから、だんだんその話を信じ始めた自分もいた。



「つむくんモテそうなのにね。」



いやいや、モテないし、そんなのこっちのセリフっすよ。

思ったけど口には出せなかった。すると香澄さんは「つむくんはさ~」と話を続けていたから、とりあえず彼女の話に耳を傾けることにした。


「なんていうんだろ、なんか落ち着くよね。」

「え?」

「何か分かんないけど、

雰囲気?かな。

落ち着く雰囲気の男の人って、

モテると思うんだけどなぁ。」

「いや、そんなこと…。」


本気でそんなことはないけど、香澄さんにそう言われるだけで嬉しい。

無意識にニヤついている自分に気が付いて、必死にニヤついた顔を冷静に戻そうとしてみたけど、たぶんそれは失敗に終わった。


「香澄さんこそ。

こんなにキレイな人、

周りの男がほっとくわけないでしょ。」

「ふふ、ありがとう。」



これ以上香澄さんに褒められたら顔が爆発してしまいそうだと思ったから話をそらすと、僕の言葉を聞いて香澄さんは少し照れたように笑った。キレイだなんて、聞き飽きているだろうに、こんなので照れてくれるなんてもう可愛すぎる。


そうやって話を続けていると、最初は全く耐性がなくていちいちやられていた俺だったけど、だんだん状況に適応し始めたってのと、酒に酔い始めたおかげもあって、だいぶ正常な状態で話が出来るようになってきた。


香澄さんのお酒もどんどんと進んで、顔にはそんなに出ていないけど、目がトロンとし始めたのが分かった。




あの…お持ち帰りって、出来ますか?




「香澄さん、そろそろ。」



しばらく他愛のない話をしながらワインを飲んでいると、香澄さんが完全に出来上がり始めた。これ以上酔わせたら可愛すぎて俺が誘拐っていう犯罪を犯してしまいそうだと思ったから帰ろうというと、香澄さんはうるんだ瞳で「え~?」と言った。


「まだ飲みたいのに…。」


そう言って香澄さんは、俺の腕に自分の手を絡めてきた。

香澄さんは体にピッタリ張り付くタイプの薄手のピンクのニットを着ていて、ボディラインがくっきりと出ていた。モデルみたいに細いのに、その尊いお胸はふっくらとしていて、その上俺の目線からはすこし谷間が見えていて、20代前半でアルコールも入ってなかったら、完全にたってるなって思った。



「また今度、また飲みましょ。」

「うん…っ。いいの?」

「もちろん。」


なんで香澄さんが俺とこんなに飲みたがってくれているかは全くわからなかったけど、少なくとも次の約束が出来たことが嬉しかった。

もし明日今日の記憶をなくしていたとしても、それでもなお嬉しいと思った。



「お会計で。」



それから俺はスマートにお会計を済ませて、席に戻った。

すると香澄さんはその隙に別の男に話しかけられていて、ニコニコしながらそれにこたえていた。



もう、爆裂スマイルを持っている自覚がまるでない。



少し呆れつつ、俺はそいつのことなんて気にせず席に戻った。



「香澄さん、帰りますよ。」

「はぁい。」


俺が話しかけると、その男は「すみません」と一言言って慌てて去って行った。俺はそいつの背中に「いや、しょうがない。この人のせいだ」と心の中で言って、一つうなずいてみせておいた。



「ほら、行くよ。」

「うん。お会計は?」

「済みましたよ。」



それを聞いて香澄さんは「払うよ!」って何度も言ったけど、こんな贅沢な時間を過ごさせてもらってお金まで払ってもらう気にならない俺は、それを全力で拒否した。


そしてそのまま足元が少しふらついている香澄さんを連れて、店を出て駅の方に向かっていった。最初は横を歩くだけにしようと思っていたのに、香澄さんの足元は思っているよりフラフラで、俺は思わず香澄さんの肩を支えた。


すると香澄さんは俺の顔を上目遣いでみて「ふふふ」と笑って、そのまま少し体重を乗せてきた。



なんだよこのご褒美イベントは。




「香澄さん、家、勝どきでしたっけ?」

「そうそう、その辺り~。」



あらかじめ香澄さんが帰りやすいように、近場で飲んでいた。だから多分駅までは電車で15分もかからず行けると思うけど、このまま帰すのが不安でしょうがなかった。



「タクシー乗りましょ。」

「え~もったいないよ~!」

「いや、送ります。」



「家まではいかないんで安心してください」と言うと、香澄さんは「別にいいよ」と言って笑った。こちらが別によくないんですと思いつつ、その辺に止まっていたタクシーを止めて香澄さんを詰め込んだ。



「勝どきまで。」


タクシーに乗ってからも香澄さんは酔っぱらってニコニコ話をしていたけど、ちゃんと家の場所を説明できるくらいには頭は正常みたいだった。

俺はと言うとこんなご褒美人生で二度ともらえないだろうなと思いつつ、窓の外を流れている東京の景色をじっと見つめ続けた。


「あ、ここです。」


香澄さんのマンションは、自分の住んでいるマンションと比較にならないくらい綺麗でこじゃれた場所だった。こんなところに一人暮らし出来るなんて、秘書って結構儲かる仕事なんだなとげすいことを考えつつ、香澄さんだけをそこでおろした。



「俺このまま乗っていくんで、

香澄さんまっすぐマンション入ってください。」

「は~い!」


香澄さんは元気よく片手を上げて、俺の指示に従った。

少し酔いが覚めてきたせいもあって、かわいい仕草にグサグサとやられそうになったけど、なんとか自分を保って「それじゃあ」と言った。



「あ、お金渡す。」

「いいですよ、近かったし。」

「いやだ!」


さっきも払ってもらったからと言って、香澄さんは無理やりお金を手渡してきた。返そうとしたけど香澄さんが全然受け取ってくれないから、今度は俺の方が折れることにして「すみません」とだけ言った。


「こちらこそごちそうさま!

また誘うからね。」

「は、はい…。」


香澄さんはまたそこで爆裂スマイルを振りまいて、素直にマンションに入っていった。その背中を見送った後、運転手に最寄りの駅まで行ってもらって、堅実に電車で帰ることにした。



「はぁ。」



最寄り駅について、僕はトボトボと家まで歩きながら、今日のことを思い出していた。



香澄さんが無邪気に笑う顔、澄み切った声。

一生懸命身振り手振りを踏まえて話す姿。

そしてあの神々しい胸のふくらみと、尊すぎる御御足おみあし




「いや、マジ…。」



神様からの贈り物だろ。


あの人が一人戦場に行けば、全員が闘気を失って平和が訪れる。

あの人が一回笑いかけてくれれば、重い病気もすぐに治りそうだ。


そんな馬鹿なことを考えてしまうほどに、尊すぎる存在だと思った。

そして今日そんな尊い彼女と、俺は二人で数時間も…。



今日使った徳の反動が、一気に襲ってきそうで怖かった。でももうすべての不幸が一気に襲い掛かってきて、ここで死んでしまってもいいと思えるくらい、幸せな気持ちに包まれていた。



「あ~やりてぇ~。」



でも本音を言うと、あのふっくらした唇に、濃厚なキスをしたい。そして一回くらいあの尊いふくらみに、触れてみたい。もう全身を触りつくしたい。



俺はサルか。



やっぱり酔ってるなと思いつつ、俺はいつもの古いマンションのカギを開けた。さっき香澄さんの家を見ているせいかいつものマンションがすごくしょぼく見えて、「なんかごめんな」とだけ言っておいた。



「はぁ…。」



先週と同じように、シャワーを浴びる前に少し酔いを冷ますべく、ソファにドカンと座った。そしてスマホを確認してみると、すでに香澄さんからメッセージが来ていた。


"今日は本当にごちそう様。

今度は私の行きつけでごちそうさせてね~!"


「今度は、だってさ。」


どうして香澄さんがこんなに俺を誘ってくれるのか、冷静になった今でも全然わからなかったけど、でも一緒の時間を共に出来るだけで十分幸せだ。中途半端な人生を中途半端に生きていくと思っていた俺にとっては願ってもなかった贅沢な時間で、それを無駄にしないためにもすぐに返信をすることにした。


"こちらこそありがとうございました。

香澄さんの行きつけ、楽しみです。"


「はぁ…。」


酔っぱらっているのか、酔っぱらってなくてもそうなのかわからないけど、もうずっと俺の頭の中には香澄さんの笑顔が浮かんでいた。


正直に言おう。


おっぱいも浮かんでいた。



こんな風になるなら一緒に飲みになんて行くんじゃなかったかな。

次にどの女性と食事に行っても、なんかダメになりそうだ。



「はぁ…。」


幸せな時間を過ごした反動か、ため息しか出なくなった俺は、他のメッセージもチェックしようと一覧を見ることにした。



その時、先週来たあの謎のメッセージがふと目に入ってきて、無意識にそれを開いていた。



"中途半端だと思っているあなたの人生、

矯正したみたいと思ったことはありませんか?"



「矯正か…。」


正直、矯正なんかしたいと思ったことはない。

そりゃもし今すぐにでも若手の人気俳優みたいな顔になれるならなりたいし、背があと10センチ伸びるって言われたら嬉しいんだろうけど、そんなこと起こるはずもないし、自分の中途半端な人生だって悪くないと思っている。



でも…。

もし、もし、この俺の中途半端な人生が"矯正"されたら、あの奇跡のような存在の香澄さんと、どうにか、なれたりするんだろうか。



「酔ってるわ。」



そんなわけないのに、自然とそんなことを考えている自分に向けて言った。


あまり覚えてないけど、ワインを5杯くらいは飲んでいる。

その前もビールを飲んでるんだから、そりゃ酔っぱらうだろ。



「うぬぼれんなって。」



二人で飲みに行けたくらいで、うぬぼれんな。

また自分に向けて言って、スワイプしてそのメッセージを消そうとした。


するとやっぱり酔っているらしい俺の手は、スワイプしようとしたのによりによって、



――――そこに書かれている、フリーダイヤルに電話をかけていた。



「ちょ、やば…っ!」

「お電話ありがとうございます。」



急いで電話を消そうとすると、ワンコールも置くことなく、向こうで誰かが話す声がした。

このまま消してしまおうかとも思ったけど、社会人としての俺がそれは失礼だと言っていたから、「間違えました」と一言だけ言う事にした。



「あの、すみません。」

「佐々木様、お電話お待ちしておりました。」



間違えましたと言う前に、本当に待っていたという様子で電話の向こう側の女の人は言った。


なんで電話をかけただけなのに俺ってわかるんだ。

そもそも、もう時計は12時を回っているのに、保険でもないのにこんな時間も稼働してるコールセンターってどんなブラックだよ。



いろんな戸惑いが一気に浮かんできて戸惑っている俺に、電話の向こうの女は「佐々木様?」ともう一度言った。


「はい…。」

「わたくし、佐々木様を担当させていただきます、

中途半端矯正委員会の相沢と申します。」

「担当って…。」


これからカタログが送られてきて、壺をこの人から買うことになるのか?

名前を知られているだけじゃなくて、電話番号まで知られているらしい恐怖に、酔っている状態でもやっと襲われ始めた。



「今回は当プログラムへご参加いただける、

ということでよろしいでしょうか。」

「いや、そういうことじゃ…。」



こうやってだまされるお年寄りは増えているんだろうか。

まっとうな方法で金を稼げと心の中では強がってみたものの、恐怖で支配されている俺はそのまま電話を切ってしまおうとした。



「有巣(ありす)香澄さんとのデートは、

いかがだったでしょうか。」

「は?」


すると相沢と名乗る女は、続けてそう言った。

不信感というより今度は怒りに支配されそうになった俺は、「つけてんのかよ」と言ってキレた。


「いいえ。

把握はさせていただいておりますが、

後を付けたりはしておりませんので、

ご安心ください。」

「は?」


もう訳が分からない。

やっぱり電話を切ろうと思ったけど、その前に言う事は言ってやりたいと思って、「あの」と言って初めて会話の主導権を握った。



「すみません、間違えて電話したので、

これ以上"把握"するのもやめていただけますか。

警察に通報しますよ。」

「いいんですか?」

「え?」


主導権を握ったはずなのに、また主導権を握り返して相沢は言った。


「香澄さんと二人で飲みに行く。

それだけで満足なんですか?」

「それは…。」


満足っちゃ満足だけど、それ以上があるならもちろんそうしたい。

でもそれは俺だけが感じる事じゃなくて、多分世の中の男ならたいがい感じることであって、満足じゃないと言っても自分だけの力でどうにかなる問題でもない。



「香澄さんとそれ以上になりたいという気持ちが

少しでもあるのなら、

当委員会のお話を一度聞いてみませんか?」

「いや…。」


いくらなんでも怪しすぎる。

でも壺を売りたいだけにしては情報を"把握"しすぎていることが、引っかかってならなかった。そう言ったまま黙り込んでいると、相沢は俺の気持ちなんて気にすることなく話を続けた。



「お話させていただく場所は、

佐々木様に指定していただいて構いません。

もちろん時間もです。

条件は佐々木様おひとりで聞いていただくこと。

それだけです。」

「はあ…。」

「今からでも結構ですよ。

差し支えなければ

お家にうかがわせていただきます。

私一人で参りますので、ご安心を。

心配なら包丁でもなんでも構えといてください。」



有無も言わさぬ弾丸トークで相沢は言った。

人並みに警戒心を持ち合わせている俺は最後までその提案をのむかどうか迷ったけど、やっぱり酔っているせいか、少し話を聞いてみたくなっている自分がいた。


「じゃあ…。」

「ありがとうございます!

では10分でお伺いしますっ!」



まだ「来て」と一言も言っていないのに、相沢は食い気味でそう言って電話を切った。電話を切ってから冷静に良く分からないやつを部屋にあげるってことに恐怖をやっと感じ始めたけど、そもそも住所は言ってないし、もし来ても最悪居留守を使えばいいかと、深く考えるのをやめた。

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