case1-3 同僚・鎌田朱音


それからどう帰ったのか、全く記憶にない。


絶対にそうであってほしくないという事実が俺の脳天を貫いた感覚だけが体に残っていて、真っ白になった頭では何も考えられそうになかった。

気が付いた時にはいつものソファの定位置に座っていて、さっきまでうきうき気分で買った惣菜とビールが、机の上に乗っていた。



本当はこんな気分で飲みたくなかった。もっと楽しく、飲むつもりだった。

仕事終わり、どうして俺はあの駅へ行ってしまったんだろう。



もう何も考えたくないのに、少し冷静になり始めてしまった俺の頭がどんどんあの事実を理解し始めた。俺はたまらず買ったビールの栓を開けて、一気にそれを流し込んだ。



「あれって…。」



分かっているはずだけど、まだしっくり来ていない自分がいた。

終業後の時間に、部下と上司が一緒に歩いている理由はなんなのか。



もしかしたら、本当にストアチェックなのかもしれない。

何か悩みがあって、聞いてもらっていただけなのかもしれない。



そこまでだったらそういう理由でもおかしくはない。

でも、俺は後をつけてしまった。そして、見てしまった。



―――二人が、ホテルに入るところを。




「いや、アウトだろ。」



今考えてみれば、最近の違和感が全部しっくりくる気がした。


飲み会の後、朱音が同じ服を着ていたことも、この間大荷物で来た日、服にタグがついていたのも、全部全部いやってくらいにしっくり来た。



ピンポ~ン♪



するとその時、タイミングよく玄関のチャイムが鳴った。

インターフォンを確認するまでもなく誰が来たか理解していた俺は、何の警戒心もなくドアを開けた。



「夜分遅くに失礼します。」



またタイミングを見計らったみたいに、この女はやってきた。


そんな気分じゃないんだよなとは思ったけど、何となく一人になりたくなかった俺は、相沢をいつもの定位置に座らせた。



「お前、飲めるの?」

「たしなむ程度には。」



こいつがいくつかも知らなかったし、仕事中に飲んでいいのかもよくわからなかったけど、とりあえず聞いてみるとまんざらでもない様子だった。一人で飲んでいたらどんどん気持ちが落ち込んでいきそうだったから、俺は冷蔵庫に入っていたビールの缶を取り出して相沢の前に置いた。



「すみません、いただきます。」

「うん。」


きっと相沢は、全部"把握"している。

それなのに俺に変化とやらを観察されたことに嫌悪感すら持ちつつ、俺は「はあ」大きなため息をついた。



「こんななら、

変化なんて見つけたくなかったよ。」



最近変化を探すことに楽しさすら覚えていたのに、見つけたのは俺にとって残酷すぎる事実だった。

こんな現実なら、知らない方がよかったのに。まだ受け止めきれない俺はとりあえずビールを一缶飲み干して、次のものに手を付けた。



「そうですね。

佐々木様にとっては、

とても辛いことかもしれませんね。」


やっぱり全て知っていた様子で、相沢は言った。

ふざけんなよと思ってにらむと、相沢はそれを気にすることもなく上品にビールを飲んだ。



「このままで、

いいんですか?」

「え?」



まだ怖い顔をしてみている俺のことなんて全く気にも留めないまま、相沢は言った。何がと思ってその顔を見続けていると、初めて会った日みたいににっこりと笑った。



「大切な同僚と、大切な上司。

いけないことをしていると分かっていて、

このまま続けさせて、いいんですか?」

「それは…。」



そうではない。そういうことではないんだけど、俺に出来る事なんて…。



言葉にはならなかったけど、俺の心情なんて全部わかってるって顔で相沢はまた笑った。



「鎌田様だって

いいとは思ってないはずです。

彼女がそういう性格だって、

佐々木様も理解されているんじゃないでしょうか。」



こいつの言う通り、朱音はいつもまっすぐなやつだ。

仕事に対していつも全力で一生懸命だし、卑怯な手を使っているのも見たことがない。


男が多い業界で、"女だから"って理由でバカにされるのも優遇されるのも嫌っていたし、そういう目で見られないためにも人一倍努力しなきゃと言っているのを、聞いたこともある。



だからこそ、信じられなかった。

アイツがそんなことをしていることを、俺自身が一番信じたくなかった。



大好きな職場で、大好きな人たちが道理に合わないことをしているのが、我慢できなかった。



「わかってはいるけど、

一度始まったものは

なかなかやめられないものです。」



確かに、恋愛ってそういうものだと思う。

中途半端と言ってもそれなりに恋愛してきたから分かっているけど、好きという感情は時に止まらないことがある。


だいたいそれは悪いものではないけど、朱音のそれは、相手を間違っている。

きっとそんなこと本人が一番わかっているのだろうけど、きっともう、簡単には戻れないんだ。



「救ってあげてください。」

「俺が…。」

「はい。

佐々木様にしか出来ないことです。」



相沢は顔色も変えることなくビールを飲みほして、軽いトーンで言った。

俺にとってはすごく重い話なのに、よくも軽いトーンで言ってくれたもんだなと思った。



「チャンスですよ!

きっと彼女の心は隙だらけです。」

「お前なぁ…。」



悩む俺を色々な意味で置き去りにして、相沢は去って行った。

味わって食べるはずのおしゃれな惣菜も美味しいビールも全く味がしなくて、本気で月曜日仕事に行きたくないって気持ちだけが、グルグルと頭をまわり続けていた。





仕事に行きたくなければないほど、月曜はすぐにやってくる。

誰にだって等しいはずなのに、俺の休日だけすぐに時間がすぎているような気がした。でも文句を言いながらもしっかりと社会人をしている俺は、いつも通りスーツを着て、いつも通りの電車に乗った。




「おはよう。」

「おは、よう…。」



当然だけど朱音は、いつも通り会社にやってきた。

少し俺の様子がおかしいことを察したのか一度は首を傾げたけど、その後はやっぱりいつも通り席に座って、キレイな姿勢でパソコンの電源を付けていた。



いやいや、この状況でどうやってやめさせんだよ。

その上"キスしてほしい"って言わせるなんて…。

無理ゲーが過ぎる。



心の中ではそんなことを考えていたものの、俺も仕事をしないわけにはいかない。動揺とか今後の考えとかは一旦胸にしまって、気を取り直して今日も仕事に向かうことにした。



「鎌田君、ちょっと。」



しばらく仕事をしていると、頭はしっかりと仕事モードに切り替わった。やっぱり自分も立派に社会人できるようになったな~なんて思っていると、部長が朱音を呼ぶ声が耳に入ってきた。


それ自体は、日常的な出来事だ。その証拠にこのフロアにいる人ならだいたい部長の声は耳に入ってるんだろうけど、朱音以外は気にすることなく仕事を続けている。


でも俺にとっては、部長と朱音が話しているという事自体、もう日常的な出来事ではなくなってしまっている。自分がよばれたわけでもないのにその声に大げさに反応した俺は、二人が話している声に無意識に聞き耳を立てた。



とはいえ、俺と部長の席までは少し距離がある。

何かを話しているという事は間ではかろうじてわかるんだけど、内容までは耳に入ってこない。



いや、入ってきたところで、こんなところで個人的な話なんてするわけないか。

いちいち過剰に反応しすぎだぞ、俺。



俺は動揺し過ぎな自分の気持ちに喝を入れるためにも、ドラマみたいに両頬を強く叩いて、また仕事に集中することにした。



「ね、あつむん。」


そんな俺の集中を引き裂くように、当事者である朱音はまた間抜けな呼び方で俺を呼んだ。全部お前のせいだぞと思いつつにらむようにして朱音をみると、よっぽどキツイ顔をしていたのか「こっわ」と言われてしまった。


「水曜日、岸川さんとアポ入ってたよね。

あれ、一人で行ってもらえる?」

「は?」


普段二人でお客さんのところをまわることなんてそんなに多くはないんだけど、最近は忙しいってのもあるし、こちらの本気度を伝えるって意味でも時間が合う時は二人で回るようにしていた。


水曜日に行く予定になっているドラッグストアの担当者である岸川さんとのアポもその例の一つだったから、確かに一人で行けないことはない。



「部長と名古屋回ることになってさ。

水曜から金曜まで

出張になっちゃったんだよね。」



普段なら「あ、そうなんだ。頑張って」くらいのこと、言ってあげられたと思う。でもを知ってしまった今の俺は素直にそうは言えなくて、もう一回朱音のことをにらんだ。



二人で出張って。怪しすぎんだろ。

いや、てか真っ黒だろ。



「え、なになに。

一人じゃ不安?」



そんな俺の気持ちなんて気づくはずもなく、朱音はからかうようにそう言った。それでも「お前不倫しに行くんだろ」なんてとてもじゃないけど言えない俺は、「了解」とだけ声を絞り出してなんとか答えた。



「よろしく~。」



朱音はすこぶる嬉しそうに、そう言った。

大好きな仕事を口実にして法に触れることをしに行こうとしているヤツの顔には、とてもじゃないけど見えなかった。



どうしちゃったんだよ、朱音。



いつも一生懸命で、どんな仕事に対しても全力で。

俺の知っている朱音はそういうやつだと思っていた。


もしかして俺は思っているより、ずっとショックを受けているのかもしれない。




「だっせ~。」




自分が結構純粋なことに、嫌悪感すら抱いた。

そんな気持ちを払しょくする意味でも、とりあえず目の前の仕事に集中することにした。






そんな俺の気持ちなんて知るはずもなく、火曜日の夕方朱音はどこか嬉しそうに俺に「よろしく」と言って、水曜日には出張に出かけた。本当に回らなきゃいけないお客さんもいるんだろうけど、2泊もしなくても回れるだろ。


っていうか金曜日にかぶせているところも怪しすぎる。


もう疑心暗鬼になっている俺には何が本当でどこからが不倫なのか分からなくなっていて、動かなくてはいけないってわかってながらも思考回路を無意識に止めていた。


「お~佐々木。

何かやる気だな。」

「うっす。」


実際はやる気になっているわけではない。やけを起こしているだけだ。

それでも仕事に気合が入ることは悪い事ではないと何とか自分をだまして、とにかく一生懸命に仕事をした。



~♪



俺のやる気を割くように、個人携帯にメッセージが来た音が鳴った。金曜だからどうせ太一だろと思って横目で流すみたいにしてスマホを見てみると、そこに表示されていたのは"香澄さん"という文字だった。



「…えっ!」



思わず声を出して反応してしまって、周りの人が数人こちらを不思議そうに見ていた。俺は動揺しつつもその人たちに「なんでもないっす」と必死でいいわけをして、若干震えながらそのメッセージを開封した。



"今日ご飯いかない?

行きたいお店があるんだけど

一人で行きにくいんだよね。"



どうして香澄さんが俺をこんなに誘ってくれるのか、皆目見当もつかなかった。

大学時代の俺にこんなことが起きていることを言っても、きっと信じてもらえないんだろうな。


今でもどこかで信じ切れていない自分がいたけど、目に入ってくるこのメッセージはハッキングでもされていない限り本物だ。


当然断る理由もないし、本当は誘ってもらって嬉しくて飛び出したい気持ちになっている俺は、まだ震える手を何とか動かして"もちろん行きます"と返信した。



"やった~!ありがとう。

あと少し仕事頑張るぞっ!"



ありがとうと言いたいのは、こちらの方だ。

知りたくもない事を知ってしまって荒んだ俺の心に、香澄さんだけが唯一ずっと癒しを与えてくれていた。


そう言えば、朱音と部長のことを知ってからあのプロジェクトに参加していること自体どこか忘れていた気がする。

俺は香澄さんのおかげであれ以来初めて不倫のことを頭から消して、その日は早く仕事が終わるように仕事を次々に処理していった。




「お疲れ様ですっ!」

「おお、早いな。

お疲れ。」



香澄さんがせっかく誘ってくれたのに、集合時間に遅れるわけにはいかない。

俺は今日中に終わらせなければいけない仕事だけをさっさと終わらせて、香澄さんに指定された駅まで向かった。



努力の甲斐もあって、集合時間20分前には駅に到着した。どの辺りで待とうかなと考えながらとりあえず改札を出ると、すでに目の前の商業施設の下でスマホを触っている香澄さんの姿が目に入った。



ああ、尊い。

この距離で見ても尊い。



普通にたっているだけなのに、香澄さんからぼんやり光が放たれているようにすら見えた。



俺はあんな次元の違う人種と、どうにかなろうとしている…?

どう考えてもしんどいだろ、無理だろ。



どこか冷静な俺はそう言っていたけど、一度踏み出した足をなかなか後ろに引くことが出来なくて、俺は少しでも早く香澄さんに声をかけようと小走りで香澄さんの元に向かった。



するとその途中で、香澄さんは誰かに話しかけられた。俺より少し年上くらいの、同じくスーツを着た男性2人組だった。



もしかして、知り合いかな。



邪魔してはいけないかなと思って、俺は小走りになっていた足のペースを少し落とした。そのまま香澄さんの観察をしていると、香澄さんはどこか困った顔になっている気がした。



「今日じゃなくてもいいから、

ご飯だけでも、さ。」

「い、いや…。」



近づくと、そんな会話が聞こえた。

知り合いだと思ったけど、ただのナンパだったみたいで、香澄さんはいよいよ思いっきり困った顔になった。かわいい。




早く助けなくては。



反射的にそう思った俺は、スーツの男の間を割くようにして手を伸ばして、香澄さんの手を取った。



「ごめん、お待たせ。」




敬語で話すと不自然かなと思って、俺は自然とため口で香澄さんにそう言った。

するとそれにびっくりしたのか、俺が突然登場したことにびっくりしたのか分からないけど、香澄さんは一瞬目を見開いた後、小さな声で「あ、うん」とだけ言った。




「なんだ、彼氏持ちかよ。」




男たちは意外とあっさり諦めて、どこかに消えて行った。

嫌な絡み方をされたらどうしようと思っていた俺は内心ホッとして、まだ言葉を発しないままの香澄さんに「大丈夫でした?」と聞いた。



「うん、ありがとう。」



俺の声に反応して、香澄さんは悩殺スマイルで言った。

そのスマイルだけでご飯が3杯くらい食えそうだなと、バカみたいなことを咄嗟に考えた。



「すみません、俺が遅かったせいです。」

「あ、ううん。違うの。

私が早く来すぎたから。ごめんね。」



上目遣いで両手を合わせて申し訳なさそうな顔をする香澄さんが何だか少しエロくて、思わず下半身が反応しそうになった。最近してなさ過ぎて性癖までいかれたかと、自分が自分をさげすんでいた。



「いこっか。

すぐそこだから。」

「は、はい。」



主張をしてくる下半身を何とかおさえて、すたすたと歩く香澄さんの背中を何とか追った。歩くたびに香ってくるいい香りが、下半身には悪影響でしかなかった。



「ここ。」



香澄さんが行きたいと言っていたお店は、本当にすぐそこにあった。

出来たばっかりって感じの清潔感はあるけど、どうみてもそこは居酒屋だった。香澄さんが行きたいっていうからおしゃれなイタリアンとかを想像していた俺は、内心少し驚いていた。



「すみません、

19時半に予約してる有巣ですが。」



香澄さんはためらいもなくそのおしゃれ居酒屋のドアを開けて言った。

今まであえて言及してこなかったけど、香澄さんは苗字を含めて名前まで可愛い。天は二物だって三物だって与えてしまうんだなってことを、体現していると言っていいくらいの存在。それが香澄さんだ。



「つむくんどうしたの?

行くよ?」

「あ、すんません。」



足りない頭で足りないことを考えているうちに、店員はどんどん先へ進んでいた。俺は何とか頭を働かせて、二人の背中を追った。香澄さんのキレイになびく髪を凝視しながら。



「突然ごめんね。

迷惑じゃなかった?」

「そんなわけないじゃないですか。」



席に着くなり、香澄さんは申し訳なさそうに言った。

迷惑どころかお誘いが嬉しくてしょうがなかった俺が素直にそう答えると、香澄さんはそれを聞いてにっこり笑った。



「そっか。よかった。

試しに電話してみたら席取れてさ。

つむくんと行きたいな~って思って。」



今すぐに、誰か殺してくれと思った。そうしたら幸せな気持ちのまま死ねるから。

もう付き合うとかキスするとかしないとかそんなことはどーでもよくて、そう言ってもらえるだけで充分だと思った。



「じゃあ、乾杯。」

「乾杯。」



そんなバカなことを考えているうちに来た黄金の泡の飲み物を、俺は香澄さんのグラスに控えめにぶつけた。香澄さんは相変わらず名前のように澄んだ笑顔で笑って、気持ちよくビールを体内に流し込んでいった。もはやビールになりたかった。



「さっき、かっこよかった。」

「へ?」



間抜けな声を出した俺を、香澄さんはクスクス笑った。何もした覚えのない俺が頭に疑問符を浮かべていると、香澄さんはそれをみてまたにっこりと笑った。



「助けてくれた時、

何かすごい男らしかったよ。」

「え、あ、はい…。」



"男らしい"とは無縁の人生を送ってきた俺に、これまた無縁なくらいの美人が男らしいなんて言ってくれることは、本当に奇跡だと思った。顔がにやけないようにすることにとりあえず必死になっていた俺がまともな返事をしないままでいると、香澄さんは少し頬を赤らめて、恥ずかしそうな顔で俺の目を見た。



「ドキドキ、しちゃった。」



え、え、?かわいい。

え、なに?この生物。え?かわいい。かわいすぎる。



キスするとかどうでもいいなんて言っていたはずの俺の下半身は、また暴れだしそうだった。お酒が入っているってのもあってか少しうるうるとした瞳と、シャツの奥にある暗闇を見ているだけで理性が一気に吹っ飛びそうになって、俺は何とか自分のこぶしを握ってまだ残っている理性をつなぎとめた。



「そんな、別に当たり前のこと…。」

「つむくんさ。」



もう目を合わせていられなくなった俺が照れ隠しをする意味でもそういうと、香澄さんは今度はすごくあっさりと俺の名前を呼んで、自分のビールをサラリと流し込んだ。



「ため口だったよね、さっき。」

「あ、すんません。」



ドキドキしたなんて言ってもらった後、今度は説教されるのか。

それも悪くないななんてまた変態なことを考えていると、香澄さんは「ううん、違うの」と言った。



「ずっとため口でいいよ、むしろ。

その方がいい。」

「えっと…。」



ずっと敬語で話してきた雲の上の存在の香澄さんに、いきなりため口で話せっていうのは無理な相談だと思った。でも香澄さんは俺の気持ちとは反対に楽しそうな顔をして、「堅苦しいの嫌いなの」と言った。



「でも…。」

「ダメ?」


この人にそう言われて、ダメと言える男がいるのであれば紹介してほしい。俺はまた香澄さんの上目遣いに負けて「わかりました」と言ってしまうと、香澄さんはそれを聞いてクスクスと笑った。



「"わかった"でしょ?」

「あ、そっか。

ご、ごめん。」

「そうそう、その調子。」



違和感しかなかったけど、香澄さんがそうして欲しいというのだからしょうがない。

俺は少しでも違和感をなくすためにもとビールを豪快に飲んで、香澄さんもそれに合わせるようにして水みたいにビールを飲み進めていった。



「んでね、その親父がね、

あと20歳若かったら有巣さんみたいな子と

結婚したい~なんて言うんだよ!」

「セクハラじゃん。」

「でしょぉ~?!

こっちは20歳若くても嫌だし!」



酔っぱらってきた香澄さんは、仕事の愚痴をどんどんとぶちまけた。そのほとんどが親父からのセクハラ話で、聞いているだけでも気持ち悪いなと思った。これだけ可愛く生まれて苦労なんてないんだろうなって思ったこともあったけど、かわいく生まれたからこその苦労もたくさんあるんだなとしみじみ考えた。


「俺がそこにいたら殴ってやりたい。」

「いけいけ~!

つむくんいっちまえ~!」


その苦労を俺がなくせるのならなくしてあげたいけど、今すぐには無理だ。

今俺に出来ることは少しでも話を聞いて気持ちを軽くしてあげることだと思って、その後も香澄さんの話が止まるまで聞き続けた。



「私ばっかり話してる。

つむくんは何もないの?」

「俺は…。」



俺は香澄さんみたいに美しく生まれたわけでもないし、セクハラを受けているわけでもないから特に仕事で困っていることはない。今まではそうだったんだけど、最近になって一つ悩みが出来てしまった。


それも全部もしかしたら香澄さんのせいなのかもしれない。

そうやって人のせいにして大きくため息をつくと、香澄さんは俺の様子を見て「なんかあるんだ~」と楽しそうに言った。



「香澄さんはさ。」

「ん?」

「不倫、ってどう思う?」



香澄さんのせいにしていたくせに、ずっとこの話を誰かに聞いてもらいたいとどこかで思っていた俺の口からは、お酒の勢いのせいもあってそんな質問が出ていた。香澄さんは一瞬びっくりしたみたいだったけど、その後すぐに「う~ん」と何かを考え出した。



「私はしたことないから分からないけど…。」



しばらく考えた後、香澄さんは言った。

その顔が少し悲しそうに見えて、もしかして聞かない方が良かったのかなと思った。



「人っていけないことほど

魅力的に見えちゃったりするんだよ、きっと。」

「そっか…。」

「悪い事ってわかってはいるんだろうから

寂しい気持ちも

どこかにあるんじゃないかな。」



不倫をする理由なんて、人それぞれだ。

そこに気持ちがない人だっているだろうし、悪気がない人だって、きっといる。



でも朱音はそうじゃない。悪いことだってわかってるし、香澄さんの言うように自分のものにならない寂しさみたいなものだって、分からないほど馬鹿なやつじゃないと思う。



「つむくん、不倫してるの?」



そんなことを考えていると、香澄さんが不安そうな顔をして言った。



「違う違う!俺じゃなくて…。」

「もしかして、

好きな、人…?」

「それも違う。

同僚の話なんだけど…。」



そう言うと香澄さんは、少しホッとした顔をして「そっか」と言った。

やっぱり香澄さんも、自分が知ってる人が不倫していたら嫌な気持ちになるよなと思った。



「責任感も強いやつだから

知ったとき信じられなくてさ。」

「なるほどね~。

つむくんもまじめだから余計だね。」

「俺はそんなこともないんだけど…。」



謙遜して言うと、香澄さんは「つむくんは真面目だよ~」とニコニコして言ってくれた。それがいい事なのか悪い事なのかもよくわからなかったけど、とりあえず「ありがとう」と言っておいた。



「つむくんなら大丈夫。」

「大丈夫って…。」



別に俺が不倫しているわけでもないし、何が大丈夫なのかは全くわからなかった。でも香澄さんは相変わらず曇りのない笑顔でニコニコと笑って、「大丈夫だよ」と繰り返して言った。



「私が大丈夫って言ったら

大丈夫なの!わかったぁ?」



もうすでにあまりろれつが回ってない口で、香澄さんはそう言って俺の頭を撫でた。



根拠のない大丈夫は、時に人を救うものだと思う。


何か的確なアドバイスをもらったわけでもないのに、こんなにかわいい香澄さんに大丈夫と言われただけで、ズンと重くなっていた俺の気持ちは少し軽くなっているのが自分でもわかった。



「えらいえらい。」

「子ども扱いしないでくださいよ。」

「あ~また敬語だ!

悪い子~!」

「ごめんごめん。」



香澄さんはトロンとした目と高揚した頬をゆるませて、ニコッと笑った。




ああ、俺。完全に、好きだ。




キスしたいとか、ヤりたいとか。

もちろん男としてそういう気持ちだってしっかりと持っているけど、これはあれだ。




―――好き、なんだ。




曇りなく笑う香澄さんの笑顔を、俺が守りたい。香澄さんが大丈夫じゃないときは、俺が"大丈夫"って、言ってあげたい。


酔っぱらって頭はあまり働いていないはずなのに、頭は柄にもなくそんなことを考えていたし、胸が大きく高鳴っていることも良く分かった。

アラサーと呼ばれる年になっているはずなのに情けないけど、自分がしっかり香澄さんに恋をしていることを、ようやくそこで自覚した。

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