case1-4 同僚・鎌田朱音


あの日はそのままベロベロに酔っぱらった香澄さんを、前みたいにタクシーで家まで連れて行った。香澄さんはもう1件一緒に行こうと腕を俺に絡ませながら言ったけど、このままでは襲ってしまいそうだと思ったから無理やりにでも帰した。



香澄さんに"大丈夫"と言ってもらってから、なんとなく何とかできそうな気持になっていた。別に何かいい案が浮かんだわけでもないけど、先週の月曜よりははるかに軽い気持ちで、いつも通り出社準備を始めた。



ピンポ~ン♪



月曜の朝から、俺の家のインターホンを鳴らすやつなんて一人しかいない。時間がないのにとイラつきつつドアを開けると、やっぱりそこには礼儀正しく礼をする相沢が立っていた。



「時間ないんだけど。」

「わかってます。

どうぞ準備を続けてください。

勝手に話してますんで。」



なんだよそれと思ったけど、本当に時間がなかったから俺はさっきの続きでネクタイを締めながらリビングに向かった。すると相沢は「おじゃまします」となれた様子で家に上がってきて、いつもの定位置に正座した。



「一つ言っておきますが、

有巣様とヤってもいいんですよ。」

「はぁ?!?」


ちょうどコーヒーにお湯を注ぎ始めた頃、相沢は「おはようございます」と同じテンションで言った。お湯が手にかかることを何とか阻止しながら反応すると、それでも相沢は動揺することなく正座のまま同じ位置に座っていた。



「落とす前に行為をしていただいても、

プログラムの進行に支障はないので

問題ございません。」

「聞いてねぇから。」



「そうですか」とまたあっさり相沢は言った。

まるでヤってはいけないからヤってないと思われているみたいな口ぶりだったけど、いいと言われたから"はい、じゃあヤッてきます"と言えるほど、俺に度胸がない事くらいこいつもわかってるはずなのにと思った。



「有巣さんとの仲は良好みたいですが、

鎌田さんのことは何も進展していませんね。」

「はい、そうですね…。」



ぐうの音も出なかったから、相沢の前にコーヒーを置きながら悔しくも俺はそう答えた。すると相沢はまた同じテンションで「いつもありがとうございます」と言って、コーヒーをすすった。



「このまま有巣様との仲を良好にしたところで、

気持ちまで手に入れることは不可能です。」

「はぁ…。」

「いってもセフレ止まりでしょうね。」

「お前な…。」



月曜の朝に全くふさわしくない言葉を、相沢はツラツラと発した。俺はそれに呆れつつも、準備を淡々と進めた。



「落としたいなら、

しっかりプログラムを進行していただくこと。

遠回りに見えてこれが一番の近道です。」



なぜこんなに自信満々に断言できるのかは全くわからなかったけど、相沢は相変わらず冷静にコーヒーをすすりながらいった。もはや俺の目を見ようともしなかった。



「佐々木様。」

「はい。」


そろそろ準備を終えて家を出ようとしたあたりで、相沢が俺を呼んだ。するとさっきまでコーヒーしか見ていなかった憎たらしい相沢は、今度は俺の目をしっかりと見た。



「好きだと、そう思ったんでしょう。」



何でもお見通しかよ。

そう思って、盛大にため息をついた。すると無表情だった相沢は、そんな俺を見て両手でガッツポーズを作った。



「それならまず

自分自身をアップデートさせましょう!」



月曜の朝から人んちにきて、ふさわしくないセリフを言っているのは確かだった。でも香澄さんと付き合うために自分をアップデートさせなくてはいけないことも、確かな事実だってことはわかっていた。



「佐々木様は変化に気が付きました。

次は"誰かが見ていてくれてる"っていう事、

鎌田様に気が付いてもらいましょう。」



見てくれている、か。

何か行動を起こさなくてはいけないと思いつつどうしたらいいか分からなくなっていた俺は、珍しく素直に相沢のアドバイスに「うん」とうなずいて、そのままいつも通り会社に向かった。




「アップ、デートね。」


アップデートさせるためには、何かをしなくてはいけないのは分かっていた。そしてそのためには"誰かが見てくれている"ってことを意識させるのが大事だと、さっき相沢が言っていたからそうなんだと思う。でもやっぱり具体的な案が浮かんでいない俺は、デスクに座って思わずため息をついた。



「アップデート?スマホ?

はやくしなよ。」

「うわっ。」



俺の気持ちなんて知るはずもなく、独り言を聞いて話しかけてきたのは、悩みの種を作っている張本人だった。大げさに驚いた俺に朱音は「なによ」と不審げな顔をしつつ、自分の席についた。



「出張、どうだった?」



あまり聞きたくなかったけど、アップデートさせるためには逃げてばかりいられない。自分が身構えてしまわないためにもサラッとそう聞いてみると、朱音は書類を整理しつつ「まぁまぁかな」と答えた。



「マツノドラッグの名古屋の支店長さんに会ったけど、

ちょっと難しそうな人だった。

部長がいてくれたからなんとかなったけど、

一人で対応するには色々準備がいりそうな感じ。」



やることやりにいったのは確かなんだろうけど、ちゃんと仕事もしていた。朱音の朱音らしい責任感のあるところとか、部長が頼もしくて尊敬できるところは少なくとも変わっていないみたいで、それを確認出来て少しホッとしている自分がいた。



「つむつむは?

アポどうだった?」

「俺の方はまずまずだったよ。

反応良かったから期待していいと思う。」

「お。珍しく強気だね。

ありがとう。」



それからは淡々と仕事の話をして、ひと段落した後はお互いパソコンに向かって仕事を始めた。こんな調子で過ごしていたらこのまま何もしないまま終わってしまう。そのことに危機感は覚えつつ、それでも行動するタイミングが全くつかめなかった俺は、とりあえず行動を起こす機会だけ伺いつつも普通通りの日常をすごした。



「ダメだ。」



そして水曜日。

本当にこれではダメだという事を、やっと自覚し始めた。そもそも今まで通りに生活していて、何かきっかけが出来るはずがない。アポの帰りの電車に朱音と一緒に乗っていてそれにやっと気が付いた俺は、意を決して朱音をご飯に誘う事にした。



「なぁ、この後暇?」

「え?」

「飯、行かね?」



突然ご飯に誘ってきた俺を朱音は一瞬不満そうな顔で見て、そのまま嫌そうな顔で「いいけど」と言った。



「嫌ならいいけど。」

「別にいやではないけど…。

珍しいね。」

「まあ、うん。

たまにはいいかなって。」



内心ドキドキしつつ、出来るだけあっさりとそう言った。朱音はそのまま不審げな顔をしていたけど、しばらくすると仕事のタブレットをいつも通り真面目な顔で見つめて、電車の中でも淡々と仕事を進めていた。



「ここでいい?」

「うん。」


今日は直帰の予定になっていたから、テキトーにお互いに都合のいい駅で降りて、目の前にある店に入った。香澄さんの時はもっと慎重に店選びをしたのに、俺もなかなか薄情なやつだなと思った。



「私オムライス。」

「女子みたいなもん頼むな。」

「女子なんですけど。」



テキトーに入ったそこは、おしゃれなカフェみたいな店だった。テキトーに入った割に女子受けのよさそうなところを選べたかなと自分で自分を褒めつつ、俺も"女子みたい"なロコモコ丼を注文した。



「んで、どうしたの。

悩みでもあんの?」

「は?別に。」



俺が話を聞こうとしていたはずなのに、朱音は注文が終わるや否やそう言った。そしてそれに動揺している俺を見てニヤっと笑って、「あるんだ」と意味ありげに言った。



「好きな人でも出来た?」

「何言ってんだよ。」



朱音はすべてを見透してそう言った。そしてまた俺の反応を見てすべてを見透かしたように、「出来たんだ…」とつぶやいた。



―――女って怖いな、と思った。



「どこの誰?」

「大学の、先輩。」

「へぇ。かわいいの?」

「もう、天地がひっくり返るくらいに。」



それからは、尋問みたいに質問攻めをしてきた。

可愛いかという質問に対して予想外の返答をされて、一瞬朱音は「なにそれ」と言って笑ったけど、大学時代の香澄さんの写真を見せると驚いた顔で「確かに天地もひっくり返るね」と言った。



「なんでまたこんなキレイな人を…。」

「俺もわかんね。

よくわからんのだがよく誘ってくれるんだよな。

それで一緒に飲みに行ってるうちに俺の方が…。」

「好きになったのね。」



ちょうどその時運ばれて来たオムライスをスプーンで軽くすくって、朱音はそう言った。俺が口に出来なかった言葉を軽々しく言うなとにらみつつ、俺も出来るだけ軽くハンバーグをすくってみせた。



「毎回誘ってくれるの?」

「うん。

まあ毎回って言ってもまだ2回だけど。」

「二人で?」

「うん。」

「いい感じじゃん。」



それだけでいい感じというのもいかがなものかと思ったけど、悪い気持ちない俺はまんざらでもない顔で「そうかな」と言った。



「んで?」

「んで?」

「あんたから誘わないの?」

「俺、から?」

「うん。」



香澄さんとの関係は、今のところ完全に受け身だ。

っていうのは俺なんかが香澄さんのことなんて誘っていいのかって気持ちがどこかにあるってのも大きくて、自分からメッセージを送る勇気がなかなか出なかった。



「誘っていい、のかな?」

「あったりまえじゃん!

今後も誘ってもらうの待つつもり?

そんなんでそんなキレイな人落とせないよ!

絶対!」



「確かに」としか、言う言葉がなかった。

やっぱりヘタレな自分が嫌になりつつ「でもな~」とまだ渋っていると、朱音は持っているスプーンで俺の方をさした。



「押しが弱い!

あんたは仕事でもそう!

あともう一歩ってとこおせないのよ。

それが侑のやさしさで

いいところでもあるんだろうけどさ。

女にはグッと来てほしい時もあるわけよ!」



朱音は力強く、そう言った。

俺はその勢いに押されて思わず身を引いたけど、朱音の言った言葉がどこかで引っかかっていた。



「お前にもあんの?」

「え?」

「グッと、来てほしい時。」



自分が不倫をしていることを俺なんかが知っているはずがないと思っているだろう朱音は、一瞬後ろに身を引きながらも「まあね」と言った。その顔が少し悲しそうに見えて、俺はもう見ていられなくなった。



そしてその後は、特に何かを話すこともなく食事を終えて店を出た。"何やってんだ"と思ってみたものの、二人になったところで「お前不倫してんだろ、俺は見てるぞ」なんて言ったらホラーでしかないと思って、結局何も言えなかった。



「んじゃね。

おごってもらってありがとう。」

「また明日。」



朱音は、いつも一生懸命でまっすぐなやつだ。

それは近くで見てきた俺が一番知っている。でもそんな朱音が、不倫をしている。よりにもよって、俺の尊敬している、愛妻家の部長と。


朱音がしたあの悲しい顔は、きっとわかっているけどやめられない、自己嫌悪みたいなものだ。人の恋する気持ち自体は悪いものではないけど、まっすぐでいられない自分が、きっと嫌になっている。



「朱音!」

「ん?」

「俺、誘ってみるわ!」



だから俺は少しでも、朱音に朱音らしいまっすぐな気持ちを思い出してほしくて、自分のまっすぐな恋心をぶつけてみた。すると朱音は一瞬さっきよりもっと悲しい顔をして、「頑張れ!」と言った。



もしかして傷つけてしまったかもしれない、と思った。






「おはよ。」

「おはよう。」



傷つけていたとしたらもう俺の目なんて見てくれないかもしれないとすらおもったけど、朱音は次の日何事もなかったみたいに出社してきた。そのことに少しホッとしつつ、今日も仕事に取り掛かることにした。


「ちょ、朱音。

あの資料のことだけど…。」

「あ、あれね。

ちょっと作ってみたから見てくれる?」


来週チームでの大事なプレゼンを控えている俺たちは、今週はお客さんとの仕事の合間にその準備を詰め込んでいた。一緒に詰めようと言っていた資料を作ろうと提案しようとすると、朱音はすでにほぼ出来上がった資料を俺に手渡してきた。



そのまま内容をサラっと見てみると、資料が出来上がっているだけじゃなくて、それは誰が見ても分かりやすくまとめられていた。



「朱音、お前…。」



最近忙しい中でこれを仕上げていたなんて。俺は同じ時期に入ったと思えないほど仕事が出来る同期に、嫉妬と関心を同時に覚えた。すると朱音はそんなこと気にもすることなく、「ん?どこ直せばいい?」なんて聞いてきた。



「完璧すぎてなんも言えねぇ。」

「あらそう?よかった。」



俺がこんなに感動しているのに、朱音は今作っている資料から目を離さず仕事を続けていた。


こいつは俺が思っているより、この仕事が好きだ。そして誇りを持っている。

まとめられた資料とか毎日の仕事に対する姿勢とか、それを見ていれば俺にだってそんなことは分かる。


なのにどうして…。

とどこかで思っていたけど、今はそんなことを考えている場合ではないと、その考えを自分の中に必死でしまった。



「お前、ホントすごいな。」

「え?」

「よくここまで調べたなって。

すげぇわ、まじで。」



素直にべた褒めすると、朱音は「なによ」って言いながら、すごく嬉しそうな顔をしていた。あんな悲しい顔をしていたやつと同じ人には、全く見えなかった。



朱音の資料を見て、うかうか人を褒めている場合ではないと思い始めた俺は、残りの資料の作成を朱音に買って出た。恋だの愛だのも大事だけど、仕事が出来る男になって香澄さんに少しでも釣り合うようにならなければと気合を入れて、必死でパソコンに向かった。



「資料室行ってきま~す。」

「はいよ。」



しばらく集中して仕事をしていると、朱音がそう言った。

資料室なんて俺は入社して数回しか行ったことがない。やっぱりできるやつは昔の情報を調べたりするのも怠らないのなと感心して、俺も行ってみようかなという気になり始めた。



「いや、

だとしたら誘ってくれてもいいだろ。」



水臭いな。

ブツブツと独り言を言いながら、俺はエレベーターに乗って、慣れない足取りで資料室に向かった。

自分の会社のはずなのに、慣れない場所に行くってのは少し緊張する。慣れないとはいえ迷う構造でもないから順調にたどり着いたはいいものの、ドアの前に来たら開けるのをしばらくためらってしまった。

でもいつまでもドアとにらめっこをしているわけにもいかないから、臆病な自分をn何とか奮い立たせて、資料室のドアを恐る恐る開けた。



資料室と言っても、中は結構広い。

多分20畳くらいある部屋の中にはたくさんの棚に並べられた資料が所狭しと並んでいて、初めて来たときは想像通りの"資料室"だなと思った。

久々にくるとやっぱり広くて、部屋に入ってもすぐには朱音の姿が見つけられなかった。

それに加えて資料室の隣にはサーバー室があって、色々な機械が動いている雑音が資料室にまで響いているせいで、朱音がいるって気配すら感じられなかった。



もしかして資料室に来る前に、どこか違う場所に寄っているのかな。

慣れないところに一人かもしれないっていう事がまた少し怖くなり始めた俺は、朱音がいる事を信じてゆっくりと、足を部屋の奥の方にすすめた。


すると、部屋の半分くらいまで進んだあたりで、男の人と女の人の声が聞こえた。




―――よかった、誰かいてくれた。




一人だってことに心細くなっていた俺は、人の声が聞こえただけで嬉しくなって、気が付けばゆっくり進めていた足が速足になっていた。そしてさらに近づいていくと女性の声が朱音の声だってのが何となくわかって、本格的にホッとし始めた。



何だよあいつ。

俺のこと誘わない上に、誰かと一緒に来てんのかよ。



やっぱり水臭いやつだなと思いながら、俺は足をさらに奥の方へとすすめた。すると朱音の声も男の声も鮮明に聞こえるようになって、次第にその会話の内容が、俺の耳に届き始めた。



「部長…っ。

ここではもう…っ。」

「嫌なら抵抗しなさいよ。」

「もう…ぁ…っ。」




―――うそ…だろ…っ。



それは、この世で一番、聞きたくない会話だった。

朱音の声はどう聞いてもいつもと違って色っぽかったし、部長の声だって、どう聞いてもいつもより気持ちが悪くて、鳥肌が止まらなかった。



さっきまで速足で進んでいたはずの俺の足は、魔法で凍らせられたみたいにぴたりと止まってしまった。二人は俺がいることに気が付くはずもなく、そのままを進めようとしていた。



「…んっ…ぁっ。」

「朱音…っ。」



分かっていた。

男女が仕事終わりにホテルに行って、その上家に帰らずそのまま出社してるんだ。


仕事なわけはないし、何をしているかなんて、俺にだって想像が簡単にできる。

分かってはいたけど、どこかで信じていない自分もいた。



だって、あの朱音が…?

あの、部長が…?



信じていないというより信じたくなくて、俺は目をそらし続けていた。

でも確かに耳に入ってくる声は次第に大胆になってきていて、俺のこぶしは知らないうちに固くむすばれていた。




「っざけんな。」



ふざけんな。

朱音も部長も。こんなとこで仕事中に何やってんだ。



悲しみが次第に、怒りに変わり始めた。

そのまま静かに写真を撮って会社中に貼ってやろうかと最悪なことも考えたけど、動こうとしても出来なかった。

俺にとって朱音も部長も大切な仲間であることには変わりないらしくて、行動出来ない度胸のない俺は、すこし二人から距離を取った。




「朱音~?来てる~?」



どうしようと悩んだけど、二人の関係に気が付いていないふりをして行為をやめさせるには、俺が来たってことを伝えるという方法しかなかった。


大声で俺がそう言った直後、二人がいる場所からはガタガタとせわしない音が聞こえたから、どうやら作戦は成功したらしい。そしてそれから少しすると、朱音だけが棚の隙間からいそいそと出てきて、俺と目も合わせず「どしたの?」と聞いた。



「いや。

俺も資料室の使い方とか聞きたくてさ。」

「そ、そうなんだ。」



朱音はそれでも、俺と目を合わせなかった。

あんなにまっすぐに目を見て人の話を聞く朱音が、まったく、目を合わせなかった。



「あ、でもその前に

ちょっと急ぎで確認してほしいことあって。

来てもらっていい?」

「あ、うん。」



部長の存在に気が付かれたら困ると思ったのか、俺が外に出る提案をすると、朱音は少しホッとした顔で言った。

俺は内心煮えたぎっている気持ちを何とか心の中におさえて、朱音の手首のあたりをつかんでまっすぐ資料室を後にした。



そして俺は何も言わないまま、朱音をエレベーターに乗せた。

手をつかんでいるってだけで不自然なのに、その上俺が俺たちの階ではなく屋上のボタンを押したから、朱音はついに「え」と声に出して言った。



「どこ行くの?」



そう聞かれても、俺は何も答えなかった。

俺の態度がおかしいことを確信し始めたんだろう朱音も、そこで何も言わなくなった。地下から屋上まで向かうその数分が、永遠のように長く感じられた。



エレベーターが屋上について、俺はまた朱音の手を取って屋上の奥の方に連れて行った。そのまま何か言葉を発しようとおもったけど、そのまま何か言ってしまえば汚い言葉でキレてしまいそうだ。



そう思った俺は一旦空を見て、気持ちを落ち着けることにした。



「ねぇ、つむつむどうしたの?」



そんな俺を見かねて、朱音は言った。俺が何かを察していることなんてわかっているだろうに。わざとらしく聞いてくる朱音にまた腹が立って、俺は思わず怖い顔をして朱音の方を見た。



「なぁ、

お前の言うグッと来てほしい時って、

どんな時なの?」

「え?」



俺が唐突に聞くもんだから、朱音は気まずそうな顔をして下を向いた。悪いことをしていることくらいわかってるって顔を見たらひるんでしまいそうになったけど、俺はそれでも言葉を止めなかった。



「どんな時なんだよ。」

「それは…。」

「奥さんがいても、子供がいても、

好きな人がいればヤることヤるのも、

"グッと来てくれる"ことに入んの?」



もう全部知ってることを隠すことなく、言った。

朱音は一瞬びっくりした顔をして俺を見たけど、その後悲しい顔をして笑った。


「知って、たんだ。」

「ああ。」

「いつから?」

「見たんだ。

ホテルに二人が入ってくとこ。」


「そっか」と言って、朱音はもっと悲しそうな顔をした。その顔は笑っているはずなのに、少し泣いているみたいに見えた。



「引いたよね。」

「うん。」



俺は正直に言った。すると朱音は「だよね」と言って何も言わなくなった。


「俺さ、感動したんだ。」

「え?」

「お前がさっき見せてくれた資料。

よく調べたんだろうなって。

めちゃくちゃ考えたんだろうなってわかって

感動したんだ。」


朱音はもう完全にうつむいて、顔を上げようとしなかった。彼女がいたときだって喧嘩になればすぐに"ごめん"と言って折れる方だと思うけど、今回ばかりは"きつい事いってごめん"なんて言う気になれなかった。


「仕事が本当に好きなんだなって。

誇り持ってやってるんだなって分かって

同期ながら尊敬した。

俺もそうなりたいとも思った。

頑張らなくちゃって、そう思った。」

「もう、やめて…。」



全部わかってるって声で、朱音は言った。それでも俺はやめられなかった。



「俺の知ってる朱音はそういうやつだ。

自分の仕事に誇りをもってて、

いつも一生懸命で、

たまに折れる時もあるけど、

それでも次の日には前向いて頑張ってた。

そんな姿を、俺は5年も見てるんだ。」


朱音が誰よりも遅く残って勉強していたこと、俺は知っている。家に帰っても調べ物をしたり、お客さんや上司から怒られたら何が悪かったんだってちゃんと振り返ったりしていたこと、すべてちゃんと見ていた。



「俺、人として、お前のこと大好きだ。」



大々的に告白するみたいなことを俺が言うと、朱音はびっくりして顔をあげた。やっと目を見てくれた。俺はそれをいいことに朱音に近寄って、両肩を両手で持った。



「頼むから、

俺の大好きなお前に戻ってくれ…。」



今度は俺の方が泣き出しそうな声で、朱音に言った。すると朱音はまた悲しい顔をしてうつむいて、小さく「ごめん」と言った。



「ごめんね、侑。

私、侑が思ってるみたいな

素晴らしい人間じゃないんだよ。」



朱音が絞り出すみたいにして言うのを、俺は静かに聞いていた。今聞き逃したら一生聞けなくなりそうで、消えそうな声にしっかりと耳を傾けた。



「わかってるの。

こんなのダメだって。

私も自分で自分が大嫌いになった。」

「…ならっ。」

「でもね。」



俺の言葉にかぶせるようにして、朱音は言った。その声はさっきの声とは違って力強くなっていた。



「でもね。

気が付いた時にはもう止められなかった。

戻れないんだよ、もう。」

「戻れないって…っ。

犯罪だぞ?!

お前がしてることは、法に…」

「わかってる!!

そんなこと、わかってる…っ。」



朱音はもっと力強くそう言った。その力強さがなんだかとても悲しくて、苦しかった。



「私のしてることは、

人をたくさん傷つけてる!

それでも好きなの、愛してるの。

頭がダメだって言っても、

心と体が、もう止められないの…っ!」

「違うよ。」



俺は朱音の声とは反対に、柔らかくそう言った。

すると下を向いていた朱音はその声に反応して、俺の目をしっかりみた。



「お前のしてることは、

誰より一番お前を傷つけてる。」



もちろん、一番傷つくのは奥さんや子供さんだ。

でもその人を傷つけているという事実が傷つけるのは、朱音自身だと思う。俺の知っている朱音は、そういうやつだ。


「その先に何がある?

止められなくなった足は、

どこに向かってる?」


すると俺の言葉を聞いてついに泣き出した朱音は、俺の手を振り切って出口の方に向かって歩き出した。



「朱音!」



これ以上、俺が出来ることは何もない。

分かっている。人の気持ちを人が止めることが出来ないことは。


それでも何もしないなんてことは絶対に出来なくて、俺は咄嗟に朱音の名前を呼んだ。



「待ってるから!

俺、お前のこと、待ってる!」



朱音は一度は足を止めたけど、その後は振り返ることなく屋上から出て行った。


朱音の姿が見えなくなると一気に全身の力が抜けて、足元のベンチに力なく座り込んだ。

曇っている気持ちとは反対に、無情にも空はウソみたいに青く広がっていて、その空をみていたら、なんだか香澄さんに会いたくなった。


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