case3-5 看護師・深山環希


「こんばんは。」

「すごい。

今帰るところだった。」

「でしょ、見てましたから。」

「怖いよ、侑君。」


なんでも言ってと言っても、きっと環希さんは何も頼ってくれない。

何となくそれが分かっていた俺は、それからたまに環希さんの帰り時間を狙って電話をするようにしていた。



環希さん曰く、最近近所でよく警察を見かけるらしいし、あれ以来怪しい気配も感じなくなったらしい。最初は声も元気がない感じがしたけど、だんだん覇気が出てきた感じがあったから、その話は本当なんだと思う。



会う口実はなかったし勝手に行っても怖いかなと思って何もしなかったけど、環希さんがどんどん心を開いてくれている感覚は、なんとなく感じていた。


あれだけ八方ふさがりな気がしていたのに、もしかしてこれ、順調か?


と、思ってみたけど、どう考えても"キスしてほしい"と言わせる流れになる気はしていなくて、俺は今日もため息をついた。



環希さんの終業時間はだいたい俺の終業時間くらいで、環希さんに電話するときはいつも会社を出る前と決めている。


今日も電話で異常がない事は確認できたと満足して、俺も荷物をまとめて帰ることにした。



それからまっすぐ駅に向かって、1時間も経たないうちに最寄り駅までついた。

もう10年くらい住んでいると、駅に着いただけで"帰ってきた~!"って感覚になる。俺もいつまでも学生気分のマンションになんて住まずに引っ越しでもした方がいいかななんて考えていると、ポケットに入れているスマホが震えるのが分かった。



「あれ、環希さん。」



画面に表示されていたのは、意外にも環希さんの名前だった。

俺から電話することはあっても、今まであちらから電話がきたことはなかった。かけてきてくれたってことは、少しは壁が低くなってきたのかもと嬉しい気持ちで電話を取った。


「もしも…」

「あのね、侑君、ごめんね…っ。

あのね…っ。」



俺が"もしもし"を言い終える間もなく、せわしなく環希さんは言った。その声の切羽詰まり方が尋常ではなくて、嫌な予感がした。



「環希さん、どう…。」

「あのね、あのね…。

今ね、あの…。」

「いるんですか?」



気が動転していて、正常に話せない様子の環希さんの代わりに言うと、環希さんはやっと「うん」と答えてくれた。

俺はとりあえず帰ろうとして足を駅の方に向けて、「警察に電話してください」と言った。



「怖いの…っ、

怖い…どうしよう、助けて…っ。」



俺の言葉なんて全く耳に入らない様子で、環希さんは言った。

電車でのこのこ向かってられないと判断して、俺は足を今度は大通りの方に向けた。



「環希さん、切らないから。

落ち着いて、聞けますか?」



多分、警察に電話するために電話を切ることすら、怖いんだと思った。

とりあえず少しでも落ち着いてもらうために、本当は自分も動揺しているのを何とかおさえてそう言った。



「大丈夫。落ち着いて。

一番近くの交番、わかりますか?」

「こ、交番…。

あそこ…。」

「一緒に行ったところは近いですか?」



環希さんはやっと俺の質問に応答して、「うん」と言ってくれたから、家の近くにいるんだろうなってことはかろうじてわかった。

話している間になんとかタクシーを拾って、急いで運転手さんに行先を伝えた。

「急いでください」と小声で言うと何か普通ではない雰囲気を感じたのか、運転手さんも深刻な顔をしてうなずいてくれた。



「環希さん?

向かえてる?大丈夫ですか?」

「う、うん…。

向かう、出来る、大丈夫…。」



こんな時でも"大丈夫"と言うのかと、少し呆れた。でもそれも俺が大丈夫かと聞いたせいだとバカな自分を反省しながら、俺はポケットからイヤフォンを取り出してスマホにつないだ。



「今どこです?」

「い、いま?

今は、ここは…。」



環希さんの話を聞きながら、俺は潤奈に"今どこ?超緊急"とメッセージを打った。すると幸運にも潤奈は休みだったみたいで、"なに?家だけど"と返信をしてきた。



「ここは、えっと、

あの、前会った、

路地の…えっと、あの…。」

「環希さん、

どんぐりの歌ってあるじゃないですか。」

「え?あ…うん…っ、

あるよ。」



今どこなのかだいたい把握できた俺は、潤奈に"事情は後。警察を呼んで、環希さんの名前伝えて。お前も絶対部屋から出んな。"とメッセージを送って、だいたいの場所を伝えた。


そこで潤奈から着信があったけど、俺が話し中だったことで察したのか"わかった"とだけ返信があった。



「歌ってみてください。」

「え?

ど、どんぐりころころ、

どんぐりこ…っ。」



環希さんの気を何とか紛らわすために、俺は全く別の話題を振った。もっと気の利いた話題が浮かべばよかったんだけど、俺のしょーもない頭にはしょーもないネタしか浮かばなくて、とことん残念だなと思った。



「ストップ。

そこの歌詞って

"どんぐりこ"じゃなくて

"どんぶりこ"なんですよ。」

「え、え?そうなの?

ずっと間違えてた…。」



環希さんはそこでやっと冷静な声でそう言った。

しょーもない話題だったことは間違いないけど、少しは気を紛らわせられたかなと思った。


「侑君…っ、私…。」

「大丈夫だから、環希さん。

俺もう、着きますから。

大通りの方、向かってください。」



今ならきっと俺の声も届くだろう。

そう思って言うと、環希さんは素直に「うん」と言ってくれた。でもその間にも息遣いの荒い音が聞こえてきて、早く行ってあげなければと思った。



「おつりいらないです!」



初めてそんなイケメンなセリフを吐いて、俺はタクシーを降りた。

環希さんとはまだ電話がつながっていたから何とか説明された道の方に全力疾走して、環希さんの姿を探した。



「侑君、もうすぐ、大どお…

きゃあっ!!!」

「環希さん?!」



するとその時、環希さんの叫び声が耳に鳴り響いて、スマホが落ちる音がした。それでも電話を切らずにいると、遠くの方から男の声で「環希…」と言っている声がして、それを聞いた俺は高校生ぶりの全力で走り始めた。



「環希さん…っ!!!」



警察は一体何をやっているんだ。

何もないから何もできないと言ったけど、何かあってからでは遅いじゃないか。


夜だという事も気にせず環希さんを大声で探しながら、心の中で何度も文句を言った。でも文句を言ったところで状況が好転するわけでもないから、とにかく全力で環希さんを探し続けた。


するとどこかから、男女の声が聞こえはじめた。



俺は全力でその声のする方に向かって、もう一回「環希さん…!」と大声で叫んだ。




「いや…っ!」



声のする方をたどって道の角を曲がると、男が両手で環希さんの両肩をつかんでいる姿が目に入った。



見つけた…!!



前は遠かったからあまりわからなかったけど、男は結構大柄で俺が勝てそうにないくらい大きかった。

でも俺は"ケンちゃん"の時とは違って勝てるか勝てないかなんて気にすることなく、全速力で二人の元に向かった。




「なにしてるんですかっ!」



近寄った勢いのまま、俺は男の手を環希さんの肩から離した。すると男は「お前この間の!」と言って、今度は俺の肩をつかんできた。



「邪魔すんな…っ!

俺は環希と…。」

「嫌です。」



間近で見ると、男はプロレスラーみたいにデカかった。

正直怖かったし勝てる気なんて1ミリもしなかったけど、ここで引き下がるわけにはいかなかった。



「なんなんだよ、お前!」

「なんでもいいでしょ、

関係ないです。」

「だまれ!」

「…くっ。」


男はそう言って、俺の頬をグーで殴った。

それを見た環希さんが「きゃっ」と小さく叫び声をあげたのが分かったけど、俺はそれでもひるまなかった。



「なぁ環希、

許してくれよ、な?

悪かったよ、俺が悪かった。」



男は殴られた俺のことなんて無視して腰をかがめて環希さんに話しかけた。すると環希さんは俺の腰辺りをギュっと握って、「いや…っ」と小さく言ってがくがくと震えだした。



「環希さん。」



ここまで何も言えなかったことを申し訳なくおもいつつ、俺はまた着ていたジャケットを今度は頭からかけた。



「ごめんね。」



こうなる前にどうにか出来なくて、本当にごめんなさい。

心の中で何度も繰り返した後、その償いをするためにも出来るだけ男が見えないように環希さんとの間に入って、またそいつをにらみつけた。



「恐怖で支配しても、

心は手に入りませんよ。」

「うるせぇ!だまれ!」

「目を覚ましましょうよ。」



男はそれを聞いてまた俺を殴ろうとしたけど、頭がクリアになっていた俺は、男の手を自分の手で止めた。結構自分出来る男じゃんと思ったけど、それは相手が冷静でなかったおかげかもしれない。



「なにやってるんだ!」



その時ようやく警察が駆け付けたみたいで、こちらに近づいてきた。男はそれを見て逃げようとしたけど、俺はつかんだ手を絶対に離さなかった。



「離せ…っ。」

「嫌だ。離さない。」



俺は男をにらみつけて言った。男は何とかして俺がつかむ手を離そうとしてきたけど、俺は負けなかった。相沢のおかげだと思った。



俺がなんとか負けないでいるうちに、警察はようやく到着して、暴れる男を連れて行った。そこでホッとした俺は、やっと環希さんの方を振り返ることが出来た。


「環希さん。」


環希さんは男が去っても、がくがくと震えていた。

尋常ではないほど震えているのが可愛そうで、俺は環希さんの両手を自分の両手で包んだ。



「環希さん、もう、大丈夫だから。」

「あつ、侑、君…。

ご、ごめんな、さい。」

「いいから。大丈夫だから。」



環希さんは震えながら大粒の涙を流していた。本当はだきしめてあげたい気持ちだったけど、これ以上ふれたらいけない気もして、ただ震えている背中をさすることしか出来なかった。



「すみません、

事情を聞きますので…。」



その時残っていた警察が、事情を聞くから交番まで来てほしいと言った。

本当は一刻も早く家に帰してあげたかったけど、そういうわけにもいかなかったから、とりあえず一緒に交番まで行くことにした。



「先ほどの、方ですが…。」



環希さんはグッと両手を固く結んでいた。それだけじゃなくて全身に力が入っていて、それが環希さんがどれだけ恐怖を感じていたのかを表しているようだった。



「相談させていただいてた、

元、旦那です…。」



隣にいる俺には聞こえていたけど、警察の人には聞こえているかどうか定かではない消えそうな声で環希さんは言った。これだけ怖がっているのにこれ以上話させないでくれと、本当は言いたかった。



「DV防止法に基づく、

接近禁止命令が出されている

ってことで間違い無いですね。」

「は?!」



淡々という警察の言葉に驚いて、思わず大きな声が出た。

環希さんは今まで言わなかったけど、アイツは環希さんに暴力をふるっていたのか。それを知ると、色んなことに納得がいった。



後ろから話しかけた時、毎回驚いていたのはこういう事か。

誰にも頼らずに色々やろうとするのも、きっとそのせいだ。



何かあるんだろうというのは分かっていた。

それでもそれ以上深く考えなかった自分が、本当に恥ずかしかった。



それから警察は、今日のことを詳しく環希さんに聞いた。環希さんが弱々しい声で話をするたび胸が痛んだけど、これも今後あいつが接近しないための第一歩だと、止めたい気持ちをぐっと我慢した。



「そこで、えっと、

彼に電話をして…。」

「以前から、

元旦那さんに付きまとわれていたことは

知っていました。

なので電話をもらってすぐに駆け付けてみると、

男が彼女の肩をつかんでいるところを目撃しました。」



話しているうちに俺が知っているところまで話が追い付いたから、環希さんの代わりに話すことにした。環希さんは相変わらずこぶしをグッと握っていて、その手が痛そうで悲しそうだった。



「その手をはがして

彼女への接近を止めているとき、

男に殴られました。」



なるべくアイツの立場が悪くなるように、俺はちゃんと殴られたことも話した。すると警察は俺にも「被害届を出しますか?」と聞いたけど、それは断っておいた。



「その後すぐに駆け付けていただいたので。」

「なるほど。」



それからも細かいことをいくつか聞かれて、俺たちは家に帰っていいと言われた。

仕方がないことなんだろうけど、被害を受けた方も辛いことを思い出しながら話さなければいけないことが、どうも理不尽に思えてならなかった。



「送ります。」



環希さんはその言葉に力なく笑って、小さくうなずいた。

本当は支えて歩きたかったけど、男に触られるのは嫌かもしれないと思って、ただ環希さんの後ろを守るようにしてついて行った。




「上がって。」



家に着くと、環希さんはまた無理して笑って言った。

「いいんですか?」と聞くと、小さくうなずいた顔がすごくおびえていたから、もしかして一人になりたくないのかなと思った。



「お邪魔します…。


あ…。」



環希さんの部屋の玄関を見て、俺は一つ忘れていたことを思い出した。

苦笑いしながら「やべ、忘れてた」と言うと環希さんは不思議そうな顔をしていたけど、説明する前に俺は急いでポケットからスマホを取り出した。



「潤奈ごめ…っ」

「なんなのよ!!!!!!」



すぐ隣にいるだろうから呼べばよかったんだけど、少しでも環希さんを一人にしたくなくて、何も話さないまま放置していた潤奈に電話をかけた。すると案の定ワンコールもする前に電話を取ったあいつは、めちゃくちゃに怒っていた。



「ほんとごめん。」

「ごめんじゃないって!!

今どこ…っ!」



環希さんの方をみると全部察したって顔をして、うなずいてくれた。

まだ怒りが冷めやらなそうな潤奈に「環希さんち」と伝えると、すぐに横の部屋からバタバタという足音が聞こえた。




「おたまさんっ、

どうしたの…っ!」



潤奈は俺がドアを開けていたのをいいことに、環希さんの部屋に飛び込んで、そのまま抱きしめた。すると環希さんはすべての緊張が解けたみたいにして、力が抜けてその場に座り込んだ。



「潤奈ちゃん、

心配かけてごめんね。」

「なんで言ってくれないの…っ。

二人とも全然連絡取れないし、

何があったかってほんとに私…っ!」



環希さんじゃなくて、潤奈が声をあげて泣きながら言った。

それが少し面白くなって笑ってしまうと、環希さんもようやく嘘のない笑顔で笑ってくれた。



「笑わないで…っ!

私怒ってるの!!」

「ごめんね、ほんとに。

ごめんね。」

「謝らないで!

もうっわけわかんない!」


本当に訳が分からないって様子で潤奈は怒りながら泣いていた。

ここまで気が張りつめていたけど、怒りながら泣く潤奈を見ていたら、俺も緊張が少し溶けていくような気がした。



「ちょっと待ってて!

二人とも座って!」

「は、はい…。」



一番年下だっていうのに潤奈は俺たちに指示を出して、そのまま自分の部屋に戻って行った。しばらくしたらお盆に暖かそうな飲み物を入れて、そのコップを俺たちの前に置いた。



「とりあえず飲んで。」

「はい…。」



それは生姜とハチミツの味がする、とても優しい飲み物だった。

その暖かさと甘さが体中に染み渡って、心の底から「はあ」と詰まっていた息を吐き出した。



「おいし。」

「当たり前でしょ!」

「美味しくて…、

涙、でできた…っ。」



環希さんはそう言って、静かに泣き始めた。

潤奈はそれを見てあたふたしながらも、環希さんに抱き着いて「大丈夫だよ」と慰めていた。


どっちが年上なんだろうと思った。



「ごめんね。」



しばらくして泣き止んだ後、今日何度目か分からない「ごめんね」を環希さんは言った。潤奈も俺も「もう大丈夫だから」と言うと環希さんはにっこり笑ってうなずいて、「私ね」と言った。



「私ね、

佐々木だったの。」

「え?」


予想と違う言葉が口から出てきて、間抜けな声を出してしまった。

すると環希さんは俺を見て困った顔で笑って、「結婚、してたの」と付け足した。



ゆっくりだけどはっきりと、環希さんは話し始めた。

だから俺を"侑"で呼びたかったのか。あの時は意味が分からなかった言葉がやっとしっくり来て、俺は大きくうなずいた。



「昔からね、

幸せな家庭で育たなかったの。

両親の仲は最悪で、

いつも家の中がギスギスしてて…。

だからね、人一倍、

幸せな家庭にあこがれてた。」



潤奈の持ってきたマグカップをギュっと握りしめたまま、環希さんはつぶやくように話した。潤奈はそんな環希さんの手を握って、「うんうん」と聞いていた。



「彼に出会った時、

やっと私も幸せになれるって思った。

すごく優しくて私のこと想ってくれて。


ああ、私もこれで幸せだー!って。」



環希さんはそこで、マグカップを持つ手の力を強めた。それを見た潤奈も、環希さんの手を強く握りしめた。



「でもね、違ったの。

結婚してすぐ、彼の暴力が始まった。


最初はね、

見えないところを

殴られるくらいだったの。」



"くらい"と言った環希さんは、まだ多分アイツに洗脳された状態だ。暴力に"くらい"なんていうのは通用しなくて、手をあげた時点で、それはもう愛情ではない。



「それにね、

殴られた後は

すごく優しくしてくれたの。

頭を撫でて"ごめんね"って何度も言って。

そのまま優しく抱いてくれたりして、

私やっぱり必要とされてる、

愛されてるんだって思ったの。」



それはまるで、こないだまでの潤奈みたいなセリフだった。思わず潤奈の顔を見ると、すごく悲しそうな顔をしていた。きっと誰よりも気持ちが分かるんだろなと思った。



「そのうち、妊娠したの。

すごく幸せだった。

妊娠が分かったとき、

彼もすごく喜んでくれてね。

しばらく暴力をされることも、なくなったの。」


ここで幸せなストーリーに変わればいいのに、と思った。

でも二人が離婚しているという事実をしっているからそんなわけはないって、冷静な自分がどこからか語りかけてきた。



「ある日ね、

私はケガをした患者さんを支えて歩いてたの。

彼は偶然それを見てたみたいでね。」



「当時は救急で働いてたんだ」と、悲しそうな笑顔をして言った。俺も潤奈ももう言葉をなくして、ただうなずくしか出来なかった。



「夜帰ったら浮気だって

言いがかりをつけられた。

いくら患者さんだって説明しても

納得してくれなくて、

それからはもう、

意識が飛びそうになるくらい、

殴られたり蹴られたり…。」

「もう、いいよ。

もういいから、おたまさん。」



もう我慢できなくなった潤奈が、環希さんを抱きしめながら言った。でも環希さんはそんな潤奈をはがして、「ありがとう」と言った。



「聞いて、ほしいの。」



環希さんの目を見てそれが嘘じゃないって分かったのか、潤奈はおとなしくうなずいてまた環希さんの手を握った。



「必死にね、守ったの。

私は死んでもいいけど赤ちゃんはって。

でもね、まだ初期だったし、

そんなわけにいかなくて、

そのまま病院に運ばれて流産しちゃったんだ。」



俺は怒りに震えていた。さっきあいつに会った時、死ぬほどボコボコにしてやればよかったと思った。あんなにでかい男が、妊娠中の奥さんを意識が飛ぶまで殴り続けるなんて。世の中にそんな奴がいるってことを、信じたくなかった。



「そこで別れればよかったんだけどさ。

もう私、多分おかしくなってたんだよね。

警察の人も来たけど

ただの喧嘩だとか言ってさ、

また優しくしてくれたから、

許しちゃったの。

バカだよねぇ。」

「バカだよ。

ほんっと、バカ。」



ほんとに、バカだと思う。

でもきっと当時の環希さんは完全に洗脳された状態で、それをおかしいと思う事すらできないところまで追い込まれていたんだろうなと思った。



「仕事も続けられなくなって、

ひたすら家で彼を待つ生活をしてた。

買い物で外に出てその間に彼が帰ったら

それだけで怒られて殴られたこともあった。


どんどんエスカレートしていって、

とにかく理由をつけては殴られて、

でも引き留めるために優しくされて…。

その繰り返しが10年近く続いたの。」

「10年…。」

「バカだよね。

若い時間、全部無駄にしちゃった。」



環希さんは悲しそうに笑って、目から涙を流した。潤奈もつられるようにして泣き始めて、二人は目を合わせて泣きながら笑っていた。



「ある日さ、

朝から性欲処理に使われたの。

最初は暴力を振るったとしても

抱くときは優しかったのに、

最後の方はほんとにツッコめればいいって感じでさ。

全然濡れなくて、血が出て痛かった。


そうなるともう

彼もよくなかったんだろうね。

散々ヤって出された後、

そのまま彼、他の女に電話したの。

"今から会える?"って。」

「死んだらいい…。」



潤奈はついに声に出してそう言った。俺も同意見だったから、思いっきりその言葉にうなずいた。



「その言葉を聞いてね、

パッと目の前が明るくなる感覚がしたの。

あれ?なんで私ここにいるの?って。


冷静になってね全身見てみたら、

そこら中あざだらけで、

ベッドの上は血とか

アイツが出したもので汚くて、

腕も足もガリガリで、

あれ?何やってるんだろうって思ったの。」



潤奈は我慢できなくなったみたいで、またギュっと環希さんを抱きしめた。環希さんは潤奈の背中をポンポンと叩いて、「ありがとね」と言った。



「そこからとりあえず服だけ着て、

はだしで走ったの。

どこに行けばいいのかもわからなくて、

でもとりあえず家から離れなきゃって思った。

そしたら途中で交番が見えたから、

死に物狂いでかけこんだの。

それが3年くらい前の話。」



潤奈は環希さんの目を流れる涙を、手ですくった。優しい子に育ったなと、まるで我が子を見る目で潤奈を見ている自分がいた。



「そこからはシェルターに入って、

離婚調停をして、接近禁止命令がでて…。


どんどん洗脳がとけてきてさ。

私10年も何やってたんだろって

気が付けたんだ。

切り替えるまでには

すごく時間がかかったけど、

働けるまで回復して

やっとここに引っ越しして、

新しい生活ができる~!って思ってたのにね。」

「どうしてゆってくれないの…っ!」



俺らに話したところでどうにもならなかったんだろうけど、せめて相談してほしかった。多分潤奈は俺と同じ気持ちでそう言った。


さっきから誰より号泣している潤奈を見て、環希さんはひたすら「ごめんね」と言った。



「迷惑、かけたくなくて。」

「環希さん。」



そこまで黙っていた俺が急に声を出したことで、二人は驚いてこちらを見た。驚かれたことに驚いたけど、それではダサいと思って、なんとか平静を装った。



「言ったじゃないですか。

迷惑じゃないって。」

「そうだよ。

私はともかく、

侑さんなんておせっかい代表選手なんだよ!」

「おい、なんだよそれ。」



思わず全力でツッコむと、環希さんはそこで初めて楽しそうに笑ってくれた。その笑顔を見て少し安心して潤奈を見ると、潤奈も同じようにホッとした顔をしていた。



「迷惑だなんて思いません。

もう環希さんの"大丈夫"も信じません。

嫌って言われても、

俺は環希さんにおせっかいします。

お願いだから、

一人で頑張らないでください。」



環希さんに反論されないように一息で言うと、潤奈が「かっこいい~」と言って茶化してきた。水を差すなと思って潤奈をにらむと、それを見て環希さんが「ふふふ」と笑った。



「ありがとう、

侑君、潤奈ちゃん。」


"ごめん"じゃなくて"ありがとう"と言ってくれて、なんだかとても嬉しくなった。やっぱり俺って"おせっかい代表選手"なんだなと、そこで初めて気が付いた。



「一つ、お願い、していい?」

「うん!」


俺が答える前に、潤奈が大きい声で言った。

あまりにも大きくて元気な声だったから、環希さんは楽しそうに笑った。


「潤奈ちゃん、

今日、一緒に寝てくれない?」

「え、そんなんでいいの?

もちろん!お泊り会だね!」

「そうだね。」



潤奈の底抜けに明るい性格が、すごくありがたかった。

さっきまで震えていた環希さんの震えが止まって笑顔になったのも、全部潤奈のおかげだと思った。


「侑さん、女子会だからね。」

「わかってるって。」


正直心配はしたけど、アイツは捕まっているからすぐに危ない目に合う心配もないかと思った。男の俺は早く退散した方がいいなと思って荷物を取ると、環希さんが申し訳なさそうな声で「侑君」と言った。



「ごめんね、痛かったでしょ。」



そこで初めて、自分が殴られたことを思い出した。

思い出した瞬間に痛みに襲われて、口の中も血の味がする気がしてきたけど、俺は何ともないって顔をして「全然」と答えた。



「そういえばなんか腫れてるね。

ウケる。」

「ウケんな。」



ウケてる場合じゃないと本気で思っていたけど、出来るだけあっさりと「じゃあ」と環希さんの部屋を後にした。最後に念押しで「戸締りだけは忘れるな」と言うと、俺が出て行った瞬間に鍵とチェーンがされる音がした。



それはやりすぎだ。

と、潤奈に心の中で文句を言っておいた。

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