case4-4 元カノ・白石凛香
連絡が来るかもと言う俺の希望とは反対に、1週間程度たっても凜香からの連絡は一向に来なかった。こちらから「元気?」なんて連絡をしてみようかとも思ったけど、何の用事もないのに人妻に連絡するのはやっぱりなんだか気が引けて、いつも通りの日々を過ごすしかなかった。
「じゃ、行ってきます!」
「は~い。頑張って。」
朱音がやめてすぐは、本気で疲れ果てるほど忙しい日々を過ごしていた。
でも最近はやっと落ち着いてきて、たくさんの仕事をこなしていたおかげで、前より効率よく仕事が出来ている実感もある。
やめてすぐは恨んでいたけど、今は朱音に感謝すらしつつ、今日も元気にお客さんのところに向かった。
「オーガニック製品なんかは
弊社のターゲット層に大変人気があります。」
「なるほど、かしこまりました。
いくつか厳選して
ご紹介させていただきます。」
今回新しく担当することになったのは、百貨店や高級ブランドのお店とかが立ち並ぶ場所で高級志向の商品を扱っているお客さんだ。自分の生活にはなじみがない場所過ぎてイメージがわかなかったけど、色々と話をしているうちに今後どうやって商談を進めていけばいいのか何となく見えてきた。
「それでは失礼します。」
「また来週お待ちしております。」
来週、具体的な提案をするところまではもっていけた。
でも一番大切なのは、その提案を採用してもらうことだ。採用してもらえる提案をするためにも、お店を自分の目で見ておかないとなと思って、帰りにチラッとお店を覗いていくことにした。
その街には俺みたいなスーツのサラリーマンもたくさんいたけど、見るからに高級そうな服を身にまとったマダムや家族が、平日の昼間から楽しそうに買い物をしていた。
来たことはあっても、ここで買い物をしたことはない。
一生縁がないであろうその場所はとても居心地が悪い感じがしたけど、これも仕事だと自分に言い聞かせて、目当ての店の方に向かった。
その店は最近オープンしたということもあって、たくさんのマダムたちでにぎわっていた。予想通り自分が担当しているどんな店舗とも雰囲気が違って、いつも通りのやり方じゃ通用しないなと思った。
今までの自分だったら、めんどくさいと思っていたかもしれない。
でも最近自分でも実感できるくらい仕事をスムーズに進められるようになった俺は、少しはやりがいを感じられるようになっていた。
だから新しいことにまた挑戦できるっていうワクワクした気持ちを抱えて、会社に戻ることにした。
その"新しい事"をしっかり成功させるためにも本当はもっと詳しくチェックしたかったんだけど、店の中にはスーツのサラリーマンがいなかったから、怪しまれるとよくないと思ってすぐに出てきてしまった。
今度は私服で、チェックしにこよう。できれば香澄さんを誘って。
その方が違和感ないしななんて無駄な言い訳をしながら、電車の中でさっそくお誘いの連絡を入れようと心に決めた。仕事に対するワクワク感と香澄さんに会えるかもしれないワクワク感で、スキップでもしそうになりながら地下鉄の駅に降りて行こうとすると、対岸の方の道に凜香が見えた気がした。
「あれ…?」
もう一回確認してみると、やっぱり凜香だった。
道路が広いから「凜香」と名前を呼ぶ気にはならなかったけど、俺はしばらく楽しそうに歩いていく凜香を見つめていた。
アイツは一人で買い物を楽しんでいるようだった。
その証拠に両手にはたくさんの袋が抱えられていて、その中には縁のない俺にもわかるくらいの有名ブランドの袋がいくつも見えた。
「アイツ…。」
変わったな。そう思った。
証券会社で働いているときも、凜香は多分十分な金を持っていた。
でも凜香はとても倹約なタイプで、ブランド物のバッグやアクセサリーにはまったく興味がなかった。たまのボーナスにいいご飯を食べに行こうと誘っても、いつものお店でいいと言っていたくらいだった。
別にブランド物を買うことが、悪い事であるとは思わない。
でも倹約家だったアイツがあんなにたくさんブランドの袋をもって楽しそうにしているってことが、なんだか信じられなかった。
「変化、か。」
そこで、相沢の言葉を思い出した。
"変化の中に隙はある"
「隙、な。」
でも正直、今の凜香は隙だらけだと思う。
他のどの人よりも、俺でも隙だらけってことが分かる。
もしかしてこれって、成長の証なのか…?
とはいえ隙だらけなのにどう動いていいのか分からないって、やっぱり俺って中途半端を矯正なんて出来てないんじゃ…。
考えすぎるとネガティブな方向に思考が行ってしまいそうだったから、それ以上考えるのをやめて、とりあえず気持ちを上げるためにも香澄さんに連絡することにした。
"うん、行きたい!"
さんざん悩んだ挙句、仕事で行きたい場所があるからついて行ってほしいというと、5分もしないうちに香澄さんから快諾の返事が来た。さっきまで落ち込みかけていたのが嘘みたいに晴れたのを感じて、香澄さんって本当に女神だなと再確認した。
お互いの予定がピッタリ合致して、今週末には一緒にお店に行けることになった。そこから俺より一層気合いを入れて、今週の仕事に励むことにした。
☆
水曜日なのに体が木曜日っぽくなる感覚に、誰か名前を付けられるならつけてほしい。
香澄さんと会う約束をしているかしていないのかにかかわらず1週間はとても長くて、もう木曜日だと思っていたのに今日はまだ水曜日だった。
そんな謎の絶望感にさいなまれても、曜日が進んでくれるわけではない。いつか国のお偉いさんが週休三日制を採用してくれることを心から願いながら、会社を出て駅に向かった。
☆
"あの場所集合で。"
俺が帰りの電車に乗るのを見計らったみたいに、凜香からそんなメッセージが入った。まあ社会人になってからもしばらく付き合っていたんだから、俺の帰り時間も大体把握されているんだろう。
唐突なメッセージに驚きはしたけど断る理由もなくて、とりあえず"了解"とだけ返信して、あの土手に向かうことにした。
「よっ。」
「お、はやかったね。」
暗闇の中スポットライトを浴びているかのように、街灯に照らされながら凜香は座っていた。よく見てみるとちょっと家から散歩に出たってくらいラフな格好をしていて、あの日あの街で高級ブランド品を買いあさっいたやつと同一人物にはまったく見えなかった。
「飲む?」
「うん、ありがと。」
途中のコンビニで買ってきたビールを手渡して、俺も凜香の横に腰を下ろした。お腹がすいて死にそうだったからとりあえず腹ごしらえのために買ってきたチキンをかじると、「ごめんね」と凜香が謝った。
「たまに外で食べるのもいいな。」
精いっぱいのフォローのつもりで言った。すると凜香はすごく悲しい目をして「優しいね」と言った。
「そう言えばお前、
今日買い物してただろ。」
「え?なんで知ってんの?」
「俺も仕事であの辺にいたからさ。」
凜香は最初は驚いた顔をしていたけど、理由を説明すると納得した顔で「そっか」と言った。
「何時ころ見たの?」
「えっと、たしか3時過ぎくらいだと思う。」
「じゃあたくさん買った後だね。」
なぜか少し残念そうなトーンで凜香は言った。それに首をかしげていると、凜香はまた悲しそうに笑った。
「引いたでしょ。
あんなに買い物して。」
「いや、別に。
むしろ俺みたいなやつの代わりに
たくさん買って日本経済回してくれよ。」
「大げさね。」
そこでやっと、凜香は楽しそうに笑ってくれた。こんなつまらない自虐でも少しは役にたったなと思うと、俺も嬉しくなった。
「ストレスがたまるとね
つい買い物したくなっちゃうんだよね。
これ、一種の病気だと思う。」
「病気って…。」
「ううん、ほんとに。
だってさ欲しいって衝動がきて
あんなに買って、
その時はすごく嬉しいんだけど、
家に帰ってそれを広げても
なんかむなしくなるの。」
手に持っていたビールをグッと喉に流し込んで、まだ悲しそうな顔の凜香は言った。なんだかもう見ていられなくなって、抱きしめたいくらいの気持ちになったけど、人妻だってことを思い出してやめておいた。
「うちの旦那ってさ。」
「うん。」
「めちゃくちゃ几帳面なんだよね。
シフトとか予定をスマホのアプリに
きっちり入れてるんだよね、昔から。」
何の話だよって思ったけど、凜香はやっぱりむなしい顔をしていたから、とりあえず静かに話を聞いた。
「んでね、
タブレットがあるんだけどね。
スマホとアプリが共有されてんだよね。」
「ああ。」
「そのタブレットいつも家にあるから、
私に予定が筒抜けなの。
でも旦那はそれに気が付いてない。
バカだよね。」
申し訳ないけど、バカだなって思った。
俺は几帳面なタイプではないしスマホで予定を管理しているタイプではないけど、気を付けないとなと思った。
―――いや、気を付けなきゃいけないような
クズにならないってのが一番か。
「仕事柄夜勤もあるから
帰ってこない日は今までもあったの。
でもね、
夜勤以外の日はちゃんと帰ってきた。
女とホテルで寝てても、
ちゃんと夜中に家に帰ってきてたの。」
「うん。」
「急患が来たとか、急変したとか、
そういうの言われちゃうと
何も言えなくなるんだけどさ。
本当のところどっちかはわかんないじゃん?」
「まあ、そうだな。」
もし凜香が疑っていなかったら、不倫されていることを知らなかったら、遅く帰ってきたなら「お疲れ様」って言ってあげられるんだとおもう。でも知ってしまった以上、本当に仕事で遅くなったときだって疑ってしまうのは当たり前の話だ。
「でもね、ついにね、
今日、帰ってこないって言われたの。
今日が夜勤じゃないって、
私知ってるのに。」
「うん。」
「もしかしたら
本当に仕事なのかもしれない。
でももうわかんないし、
家にいたら頭がおかしくなりそうで、
だから買い物に行くことにしたの。」
本当は旦那で満たしてほしい心を、買い物で満たそうとしているんだろうなと思った。でもそんなことで、満たされるわけがない。凜香もそう分かっているはずなんだろうけど、やっぱりどこかで納得できない自分がいるんだろうなってことは、ひしひしと伝わってきた。
「もしかしたら
やっぱり大丈夫になったって
帰ってくるかもしれない。
そう思ったけど、
やっぱり帰ってこないんだよね。」
「うん。」
「つけようかと思ったけど、
もしかして泊まるところ見たら
本当に狂っちゃうかもしれない
って思っていけなかった。」
もう狂ってもおかしくない状況で凜香は笑った。きっとここで座って普通に話をしていることが奇跡なくらい、精神は弱っているんだろうなと思った。
「今までは帰ってきた人が
帰ってこないってさ。」
「うん。」
「また一線を超えるっていうか。
多分本命が出来たってことだと思うんだよね。」
「本命って…。」
本命はお前だろって言いたかったけど、それを言えばもっと傷つけそうな気がして、言葉を飲み込んだ。
「今までは火遊びみたいな
感覚だったと思うの。
旦那って賢いし勉強ばっかしてきて
正直女性経験はほとんどなかったんだよね。
私と付き合った時はすごくピュアでさ。
でも一回一線を超えてからは
楽しくなっちゃったんだと思うよ。」
「なんだよそれ。」
凜香だけが傷ついていることが、まったく腑に落ちないと思った。
それなのに相手は不倫を楽しんでいるかもしれない…。やっぱりこんな状況のまま放置し続けることは、全くいい事とは思えなかった。
「火遊びみたいな感覚なら
まだ我慢できるって思った。
でもな~。
本命はキツイな~。」
そう言って凜香は、ビールを全部喉に流し込んだ。
俺はもう我慢できなくなって、それでも控えめに手を凜香の背中に置いた。
「お前さ。」
「ん?」
凜香はとても、まじめなやつだと思う。
努力家でひたむきで、リーダーシップがあって。だからゼミ内でもすごく人気があったし、そんなまっすぐさに、俺も恋をした。
「お前、
いい子じゃなくてもいいんじゃない?」
いい子だ。凜香は誰が何と言おうと、いい子。
でもきっと旦那には、いい子でいる必要はない。わがままだって、言ってもいい。
思い返せば付き合っているとき、俺にわがままの一つも言ったことがなかったなと思った。そうなったのは俺のせいだなんて無責任なことを言うつもりはないけど、でも少なくとも原因の一つにはなったかもしれない。
もっと気が付いてあげられなかった自分を不甲斐なく思ってそう言うと、凜香は少し真剣な顔をした。
「いい子、か。」
「うん。」
「確かに、そうなのかもね。」
少し考えこんだ後、凜香は言った。ちょっとでもわかってくれたらいいと思ったけど、その次の瞬間には「でも」という声が聞こえてきた。
「でもね、
旦那のためにいい子でいるわけじゃないよ。」
「え?」
帰ってきたのは、思わぬ答えだった。
どういう意味かと首をかしげると、凜香はそんな俺を見てクスッと笑った。
「自分のためだよ。
余裕のある自分の方が
かっこいいと思ってるから。
そのふりしてるだけ。」
「なら…。」
それなら辞めたらいい。
そう言おうとすると、凜香は笑った顔のまま首を横に振った。
「侑が思ってるほど
私はいい子じゃないよ。
全部自分のわがままなの。
いつでも余裕ぶっていたいし、
"医者の妻"であることを捨てられないから
離婚も絶対にしたくない。
本当はあざとくて、すごくズルい女。」
それがズルい女なんて思わないけど、わがままで今の状態を続けることに、何の意味があるんだろうと思った。
でも俺が何と言おうと、きっと凜香の今の気持ちは変わらない。
今の状態では言えば言うほど凜香が傷つきそうな気がして、俺はそれ以上、アドバイスみたいなことを言うのをやめた。
「またいつでもこいよ、ここに。」
まるでここが自分の家かのように言った。
今は何もすることが出来ないけど、話を聞くだけでも力になれるならと思った。すると凜香は今度は曇りのない笑顔をみせて、「ありがとう」と言ってくれた。
「そろそろ帰ろっかな。」
「駅まで送ろうか。」
もう辺りは真っ暗だったから、このまま一人で歩かせるのは危ないと思った。
でもそんな俺の提案を、凜香は「大丈夫」と言って断った。
「タクシーで帰る。
日本経済回さないといけないし。」
そう言って笑う凜香は、昔のままの純粋でまっすぐな目をしていた。
さっき自分で言ったくせに「それだけで経済回るかよ」とツッコミを入れて、凜香を近くの大通りまで送って行った。
☆
待ちに待った土曜日。
香澄さんを呼び出したのは俺だから先に待っていなきゃいけないと思って、30分以上早く自分で指定した駅の出口に到着した。
さすがにちょっと早く来すぎた。
でも遅れるよりはマシだと自分を褒めて、その出口の近くでスマホをかまいながら待つことにした。
「つむ君、お待たせ。」
しばらくすると、目の前から天使のささやきが聞こえた。
その声に反射して顔を上に向けると、声の数段キレイな顔がこちらを見てニコニコしていた。
―――ドキッッ
心臓から、そんな音がする気がした。
息切れすら感じてしまうくらい心臓が高鳴って、体内に響く音がうるさくて痛かった。
「待たせた?」
しばらく声が出せずにいる俺に、香澄さんは覗き込むみたいにしてそう聞いた。
頼むから顔を近づけないでくれと思いながら、「ううん」と何とか声を絞り出して答えた。
「お店、どっち?」
「あ、うん。
こっち。」
そう言えばストアチェックに付き合わせるために呼び出したんだった。
自分の仕事のために大天使を呼び出しするなんて、俺はいつからそんな生意気なやつになったんだ。
心の中で自分自身を攻めながら、楽しそうに話をする香澄さんになんとか返事も返した。
「私もネットで見て
気になってたんだ~。」
「そうなんだ。
じゃあよかった。」
「ね、終わったら
行きたいカフェあるんだけど
付き合ってくれる?」
「もちろん。」
「やった~」とはしゃぐ香澄さんのために、出来るならそのカフェごと買い取りたい。凜香の旦那さんに頼んだら、買い取ってもらえないだろうか。
日本経済、回してもらえないだろうか。
「ねぇ、つむ君聞いてる?」
「あ、ごめん。
なんだった?」
「もうっ。
別のこと考えてたでしょ!」
なるべくあっさりと「ごめん」と言ったつもりだったけど、多分顔は赤くなっている。もう香澄さんの一挙手一投足すべてが最高にかわいくて、胸のドキドキはいつまでもおさまってくれそうになかった。
俺、こんな状態で、本当に香澄さんとどうにかなれるんだろうか。
そうなれるかも分からないのになったことを想像しただけで、おかしくなりそうだったから、とりあえず思考回路を全てシャットアウトすることにした。
「ついた。」
「わぁ、おっしゃれ!」
休日という事もあって、あの日覗いた時よりたくさんのマダムたちが店内にいた。
もし一人で来ていたら店の中に入る勇気がでなかったかもしれない。香澄さんに声をかけて本当に良かったと思っていると、香澄さんは我先に店内に入って行った。
「わ~。
これ気になってたやつだ。」
店内に入るや否や、香澄さんはリップらしきものを手に取った。よく見るとその商品には、"オーガニックカラーリップ"と書いてあった。
「オーガニックって
やっぱ気になるの?」
「絶対にそうじゃないとってほど
気にしてるわけじゃないんだけど、
最近人気だしね~。」
そう言いつつ香澄さんは、リップを手に取って匂いを嗅いで、「いい香り」と嬉しそうな顔をしていた。
あなたの方がよっぽどいい香りですよと、教えてあげたい。
それから香澄さんは嬉しそうに色々なものを手に取ってみていたから、俺も同じように隅々まで店内を見て回ることにした。この間会った担当者が言っていたように、店内にはオーガニック思考の製品とか、普通にドラグストアで手に入れるには高級なものがたくさんならんでいて、それでもマダムたちは値段も気にせずレジに商品を持っていっているようだった。
「なるほどな~。」
本当に、今までとは全く違う提案を考えなければ。
つい仕事モードになって真剣に顧客の観察をしていると、いつからか俺を見ていたらしい香澄さんが、「ふふふ」と笑った。
「つむ君、真剣だね。」
「あ、ごめん。つい。」
香澄さんと来ているのに、つい集中して仕事をしてしまっていたことを反省した。でも香澄さんは相変わらず天使みたいな笑顔でにっこり笑って、「大丈夫」と言った。
「かっこいいよ。」
この俺が、かっこいいわけない。
そう思っているはずなのに、香澄さんに褒められただけで嬉しくなって、多分にやけた気持ち悪い顔で「ありがとう」と言った。
もう香澄さんを俺のデスクの横に配置してくれないだろうか。
そうしたら今の2倍くらいは売り上げを取ってこれる気がする。
またそんな訳のないバカなことを考えながら、ストアチェックをすすめた。香澄さんもそれなりに楽しんでくれていたみたいで、いくつか商品をお買い上げしていた。
「いこっか。」
「うん!」
気が付けば結構長い間、その店に滞在してしまった。
会計を終えた香澄さんを待って、俺たちは香澄さんの行きたかったっていうカフェに向かった。
「ここだ。」
そのカフェは、路地裏のすごく狭い道の途中にあって、知る人ぞ知るっていう感じだった。そんな店を見つけられるなんて、香澄さんはやっぱり神なのかもしれない。
相変わらずバカなことを考えながらカフェの扉をそっと開けると、中には静かで落ち着いた空間が広がっていた。雰囲気が何となく潤奈のカフェに似ている気がして、俺はもうすでにその場所を気に入っていた。
「こちらへどうぞ。」
二人だと伝えると、かわいらしい店員さんが見晴らしのいい窓側の席に通してくれた。香澄さんはメニューを見ることなく気になっていたというクレームブリュレを頼んで、俺はチーズケーキを注文した。
「ほんとに今日は、
ありがとうございました。」
「ううん、全然。
私もすごい楽しかったよ。」
「こんなに買っちゃったしね」と、紙袋を持ち上げながら、香澄さんは無邪気に笑った。無邪気と言う単語は、もしかして香澄さんのためにあったのかもしれない。そう思うほどにかわいくて、椅子ごと倒れてしまいそうになった。
「お待たせいたしました。」
俺が倒れる前に、ウエイトレスはスイーツとコーヒーを持ってきてくれた。
香澄さんはそれを写真に撮った後一口食べて、「ん~~っ!やばい!」と興奮しながら言っていた。100個食べさせたい。
「んで、つむくん。
なんかあったの?」
「へ?」
半分くらい食べ終わった頃に、香澄さんはサラッとそう言った。
何もないけどと思ってびっくりしていると、香澄さんはそんな俺を見てクスクスわらった。
「さっき、
すごく考え込んでるみたいだったからさ。」
その"さっき"がいつを示すのかはよくわからなかったけど、多分このカフェを買い取れないか考えていた時だなと思った。もちろんそんなこと香澄さんに言えるはずがないから、「なんかあったわけじゃないよ」と答えた。
「ふ~ん。」
疑う顔をして、香澄さんは言った。
香澄さんが"何かあった"と思うなら、もう何かあったことにしてしまおう。
そう思って頭の中でその"何か"を考えていると、それは割とすぐに見つかった。
「香澄さんはさ、
不倫されてることしってて、
でも何も行動しない人ってどう思う?」
ストレートに、凜香のことを相談してみた。
すると香澄さんは俺の質問を聞いてしばらく考えた後、「本人がいいって言うならしょうがないんじゃない?」と環希さんと同じことを言った。
「だよねぇ。」
「でもさ。」
やっぱり俺にこれ以上できる事なんてないかと納得しかけていると、香澄さんはかぶせるように何かを付けたそうとした。
「割り切ってたとしても、
辛いもんは辛いよね。」
「え?」
香澄さんはまるで、自分のことのように言った。
凜香のことを詳しく話したわけでもないのに、まるで共感しているかのように、凜香と同じように悲しい目をしていた。
「辛いって分かってて
その状況を割り切ったとしても、
それでも辛さがなくなるわけではないよね。」
「確かに。」
確かに、香澄さんの言うとおりだ。
辛いとわかってて、でも離婚したくないから黙っていたとしても、それでも凜香は傷ついている。
「それでも負けたくないんだよ。
辛いって分かってても、
負けられないんだよ。」
「なにに、かな。」
凜香はそもそも、何と戦っているんだろう。
不倫相手?旦那?それとも…。
「ん~、
全部に、じゃない?」
凜香は、医者の嫁と言う立場を捨てられないと言った。
それはもしかして、不倫相手にも不倫を繰り返す旦那にも、そして自分にも負けたくないってことなのかもしれないと、香澄さんの言葉を聞いて思った。
「でも、勝ち負けじゃない気がする。」
言いたいことは分かる。凜香の気持ちを少しは理解しているはずだ。
でも、それって勝ち負けで片付けられることではない気がした。
「愛情とか人間関係って、
勝ち負けじゃない気がする。」
俺だって相手に何かしてあげたら、見返りが欲しいって、少しは思う。
でも相手に何も求めないのがきっと本当の愛情なんだと思うし、勝ち負けとか別として相手のことや自分のことを考えることの方がずっと大事な気がする。
「つむ君は
やっぱすごくまっすぐだね。」
「そう?」
香澄さんはやっぱり曇りのない太陽みたいな笑顔をこちらに向けて、そう言った。
すごく夢のあることを考えているんだろうか。
まだ俺は愛だの恋だののこと全部わかったわけじゃないと思うけど、少なくとも香澄さんに対しては、勝ち負けとか関係なく、愛情を注げる気がする。
クリームブリュレをとても美味しそうに食べ始めた香澄さんをみて、ぼんやりそんなことを考えた。
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