case4-2 元カノ・白石凛香


「はぁ。」



一回寝て起きても、胸のモヤモヤが覚めなかった。

それには色々と原因があるんだけど、すべて凜香に起因することで、ついには夢にまで出てきてしまった。




凜香が結婚していて、しかも相手は医者。


朱音も潤奈も環希さんも、男運がなくて恋愛で辛い気持ちを抱えていたから、相沢のいう"隙"は俺でも見つけることが出来た。でも幸せの絶頂にいる凜香に、隙なんてあるはずがない。



相手が医者だったっていうことだけでもダメージを受けたのに、これ以上どうにか出来る気が全くしなくて、もう一回大きくため息をついた。



「散歩でも行くか。」



俺の気持ちとは反対に、空はとても気持ちがよく晴れていた。

休日にこの狭い家にこもっていたらもっと気分が落ち込みそうな気がしたから、近所の土手まで散歩することにした。



外に出ると、休日だということもあって、子供連れの家族や老人夫婦の散歩とかにたくさん遭遇した。冴えない顔をして一人で歩いている男は俺くらいで、この晴れた空に自分が全く似合わないことで、またダメージを受けそうだった。



でも、空に似合うも似合わないもないはずだ。



情けなく背中を丸めて歩いていたら不審者みたいに見えるかもしれないと自分に言い聞かせて、俺は出来るだけ姿勢よく歩いて目当ての場所に向かった。




「よいっしょ。」



家から歩いて10分くらいのところにあるその土手は、凜香と付き合っていたときによく来た場所だった。大学生でお金もなかった俺たちは、何をすることもなくここでただボーっとしていて、それだけで幸せだった。



社会人になってお互い忙しくなってからはあまり来ることもなくなって、会うのはだいたい仕事終わりのカフェとか凜香の家とかに変わった。そうしている間に会うペースが1か月に1回、2か月に1回と減って行って、ついには浮気をされて別れた。



忙しいことを理由にしてもっと"会いたい"と言わなかった俺にも、やっぱり非がある。浮気されたと聞いた時はただただ腹が立って怒るしか出来なかったけど、"浮気した"なんて俺に言う必要もなかったのに正直に話してくれたのは、凜香なりの誠意だったのかもしれない。



久しぶりにそこに座っているとあの頃の記憶が色々と呼び覚まされて、タイムスリップしたような気分にすらなった。


浮気されたと聞いた時、別れたくないとごねたらまだ俺と付き合っていてくれただろうか。もしもっと俺が頻繁に凜香に会って、もっと男らしくしていたらそもそも浮気されていなかっただろうか。



もしそうしたとしても俺たちに未来がなかったことには変わりなかったのかもしれないけど、もっと早く反省していたら、もっとすぐに彼女も出来たのかもしれない。



全部"かもしれない"でしかないから今更どうにかすることも出来ないくせに、そのまましばらく、うじうじと男らしくないことを考え続けてしまった。




―――もしかしてここに来たの、失敗だったかもしれない。





まだ家にいた方が明るいことを考えられそうだ。することもないし、そろそろ昼ご飯でも用意して帰ろうか。



「あつ、む…?」



そんなことを考えていると、幻聴なのか、後ろから俺を呼ぶ声がした。




「え、凜香…?」



幻聴とは思っていても、27年間呼ばれてきた名前を呼ばれると、人は反射で振り返ってしまうものらしい。

しかもそれは幻聴じゃなかったみたいで、反射で振り返った先には凜香が驚いた顔で立っていて、それを見た俺はもっと驚いた顔をしていたと思う。



「どうして…。」



動揺を隠せないままそう聞くと、凜香は少し困ったように笑った。



「昨日侑と話したら、

なんかここを思い出してさ。」




そう言えば付き合ってる頃、凜香に"私たちってよく似てるよね"と言われたことがあるのを思い出した。あの時言われたことって、本当なのかもしれないと今更気づいて少し恥ずかしくなりながら、「俺も」と笑って答えた。



「隣、いい?」

「どうぞ。」



まるでカフェで相席するみたいに、凜香は言った。

そしてあの頃みたいに俺の隣にそっと腰を下ろして、しばらく二人で黙っていた。




その沈黙は、決して気まずいものではなかった。

別れたとはいえ俺たちは一度お互いのことを好きになった者同士で、やっぱり波長が少し似ているおかげもあるのか、無言でいてもあまり苦にならなかった。


でも、新婚の人妻が休日にこんなところにいてもいいものかという疑問が、ふと湧いてきた。



「旦那さんは?」

「仕事行ってる。」

「そっか。大変だな。」



そっか、お医者さんは土日に休日ってわけじゃないか。

そういう人もいるんだろうけど、違うってことは大きい病院の医者なのかなと推測された。


本気で完敗だな、と思った。





負けを完全に認めた瞬間、何かが吹っ切れる音がしたきがした。

そもそも引きずってるわけじゃないって言いながら、引きずってるような気持ちでいるなんておかしいじゃないか。


そう思ったら今度はいつかはしたいと俺も思っている、"結婚"がどんなものかっていう興味が湧いてきた。



「結婚って、幸せ?」

「え、何よいきなり。」



しばらく黙っていた俺が唐突に聞くもんだから、凜香は本気で驚いた顔をまたしていた。でもしばらくするとフッと笑って、「うん」と答えた。



「うらやまし。」

「でしょ。」



今度は心から、いいなって本気で思った。

もう一人暮らしを始めて10年くらいたつから、家に帰って誰かがいるっていうことを長らく経験していない。もし仕事終わりに香澄さんが家で待っていたらどんなに幸せだろうと想像すると、にやける顔が止まらなかった。



「彼女、いるの?」

「いないけど。」

「じゃあ好きな人がいるのか。」



ぜんぶ見透かしたみたいに、凜香が言った。

なんでそんなこと分かんだよと思って睨んでみせると、凜香は「顔に書いてあるよ」と言って笑った。



「職場の人?」

「ううん、香澄さん。」

「香澄さんって…。

あの?!?」

「うん、あの。」



凜香は違うサークルに入っていたけど、学校内でも有名な美女だった香澄さんのことはよく知っている。隠すことなく元カノに今好きな人の話をするのは少し違和感があったけど、隠す必要もないなと判断して素直にいった。


なのに凜香はしばらく驚いた顔をしたまま、固まってしまった。



「おい、傷つくだろ。」

「ごめんごめん。

びっくりしちゃって。」



そう言えば太一にもこんな反応をされた。

分かってる。分かってるはずなのに、やっぱり高望みすぎることを自覚させられて、気持ちがまた落ち込むのが自分でもわかった。



「なんでまた。」

「半年前くらいに再会してさ。

そっから遊ぶようになって、

気が付けば好きだったわ。」



「好きにならない方がおかしいくらい綺麗だもんね」と、凜香は笑った。俺はその言葉でようやく胸をなでおろして、「だよな」と言った。



「どこまでいったの?」

「どこまでって…。

家には遊びに行ったけど、

それ以上は…。」

「え、逆に家行ったんだ。」



それでもすごいってテンションで凜香は言った。元カレのことをなんだと思ってるんだと、ムッとした。



「家で何したの?」

「パスタ作った。」

「あ~。

侑のパスタ美味しいもんね。」



あの頃を懐かしむように、凜香は言った。確かにあの頃、俺はよく凜香にパスタを作っていた。香澄さんに披露できるくらいの腕前になったのは、凜香のおかげでもあると思うと、感謝しなくちゃなと思った。



「結構いいかんじじゃん?」

「そうかな。

でもさ、なんというか、

それ以上踏み込めない

空気があるんだよね。」



香澄さんは、俺のことをいやとは思ってないはずだ。

家にも入れてくれて、たまに飲みにも誘ってくれることを思ったら、きっと”好意”はあるはずだと思う。でもその好意は、”好き”とは違う気がする。


それは何となく"いい人"に抱く好意な気がして、香澄さんからと一緒にいても、これ以上になれる気がしていなかった。



「侑さ。」

「うん。」

「私の時も、

なかなか告白してこなかったよね。」



痛いところをつきながら、凜香は言った。

確かにあの時も、俺は慎重に慎重をきした。確信が持てるまで凜香に好きだと言えなくて、自分でも情けないくらいうじうじしていた思い出がある。


思い出したくないことを思い出さされて不服ではあったけど、でも違うとも否定できない俺は、「うん」と素直に答えた。



「もっとガツガツしていいと思う。

気使い過ぎだよ。侑はいつも。」



そう言えば朱音にもそんなことを言われたなと思い出した。

でも嫌われるくらいなら無難な関係でいたいと思うのは、きっと俺の弱さだ。わかっていながらも元カノに言われるってことは、少なくとも3年は変わりないんだなってことに気づいてしまった。



「いっそのこと、

襲ってみたら?」

「お前なぁ。」

「ごめんごめん。」



そう言って笑った凜香の顔は、なんだか少し悲しそうだった。この悲しそうな笑顔には、少し見覚えがあった。



「んで?」

「え?」

「お前は何に悩んでんの?」



その笑顔は、少しあの頃の環希さんのに似ている気がした。普段ならそんなこと見逃していただろうけど、プログラムを進行出来なかったことを朝まで後悔していた俺は、優秀にもそう切り返した。



「別に、なにもないよ。」

「へぇ。」



環希さんの経験で、これだけで悩みを話してもらえるとも思っていなかった。

心の中で「やっぱりな」って思っていると、凜香は困った顔のまま「私新婚だよ?」と言って笑ってごまかした。



「そうだよな。

幸せだよな。」

「うん。」



とはいえ、「なにかあったんだろ?!話せよ!!」と怒って言えるほどの度胸がある俺なら、今頃プログラムなんてやっていない。そもそももしかして気のせいっていう可能性だって残ってるからこれ以上は踏み込めないなと思っていると、凜香は「よし」と小さく言った。



「そろそろ行くね。」

「うん。」



おしりの辺りを手で払いながら、凜香は立ち上がった。何回プログラムを進行してみても、慣れることもないし、スムーズにすすめられた試しがない。

やっぱり中途半端な俺が矯正される日なんてこないんではないかと疑いながら、「じゃあね」と去っていく凜香の背中を見つめた。




「凜香。」



しばらく背中を見ていたら、さっき感じた違和感が、また頭に浮かんできた。どうみても凜香の背中は幸せな背中にはみえない。


そもそも幸せな背中ってなんなのかって自分でもよくわからないけど、とにかく違和感がある。そう思っていると、俺は自分でも知らないうちに、凜香を呼び止めていた。



「なに?」



不思議そうな顔をして、凜香は振り返った。

何のプランもなく呼び止めたけど「お前やっぱり変だぞ」なんて、言い出せるわけもなかった。



「何かあったら、連絡しろよ。」



かろうじて俺の頭に浮かんできたのは、お見送りをするお母さんみたいなセリフだった。それを聞いた凜香はまた少し困った顔をしたけど、すぐに懐かしい笑顔でにっこり笑って、「ありがとう」と言った。







それから1週間たっても2週間たっても、凜香から連絡はなかった。

よく考えてみたら当たり前の事だと思う。もし何かあったとして、3年ぶりに会った元カレに、相談なんてするわけはない。するとしても仲のいい友達にした方が、凜香だって気軽だろう。


でも最後に一言付け足したことで、もしかしたらっていう期待を俺はどこかでしてしまっていたんだと思う。連絡が来ないことにがっかりしているのが何よりの証拠で、安易に考えすぎていた自分がすごく恥ずかしい。



「はぁ~~。」

「おっ。いい飲みっぷりだな。」



俺の悩みは、いつもビールと共にある。

連絡が来ないってことをやっと悟ることまでは出来たけど、それでも状況はなにも変わらない。とりあえず仕事のストレスとか自分への落胆とかを少しでも軽くするために、今日も元気にビールを喉に流し込んだ。



「お疲れっす!」

「気をつけて帰れよ~!」



そのせいもあって、今日は少し飲みすぎた。

乗換をしなきゃいけないのに、このままでは電車にのったらすぐに寝てしまう事が自分でもよくわかった。

酔いを少しでも冷ますためにも、乗換地点の駅まで歩いて向かう事にした。



その駅まで向かう道は、やっぱりたくさんの人でにぎわっていた。

まるで平日のストレスを解消するかのように、顔を赤くしたサラリーマンたちはワイワイと騒いでいて、それを見ていたら俺だけじゃないんだなと少し安心した。



自分より酔っている人を見ると、酔いが一気にさめていくのはなんでだろう。さっきまでは足が少し浮いているみたいに感じていたのに、駅に近づいていくにつれてだんだんしっかりしてきた感覚があったから、ここを歩いて良かったなと思った。




しばらく歩いていると、潤奈を見つけたあの街に近づいてきた。

ちょっと前の出来事なのに、あの日のことが遠い昔のように感じられる。もしかしてこの辺りでケンちゃんに会ってしまったら、殴られるだろうか。


まあ怒られてもしょうがないかとどこかで諦めながら足を前に進めていると、遠くに見慣れた女のシルエットが見えた。



ここは"ターゲット"と出会うための街なのだろうか。

前は探しに来たから本当にいたところで不思議には思わなかったけど、俺の目に入ってきたそのシルエットは、この場所に最もふさわしくないものだった。



「見間違い…だろ。」



遠いから、見間違えたんだろう。こんなところにいるはずがないし、いたとしても俺の目に入ってくるはずもない。



だいぶ覚めたとはいえ、まだだいぶ酔っぱらっているんだろうなと反省しながら、確認のためもう一回顔をあげてみた。すると今度は見間違いではなく、目の中にしっかり、凜香の姿が映った。




「もしかして旦那さんと…。」




驚きすぎて思わず独り言が口に出ていた。

そうだ、新婚だからって言って、ここに来ない理由にはならない。


たまには家じゃない場所でしたいときだってあるだろうし、今日はそんな夜なのかもしれない。



と、自分で自分を納得させようとしたものの、どう見ても凜香は一人だった。それに別にまぶしくもないのに帽子を深々とかぶっていて、目も悪くないはずなのに眼鏡をしていた。



それだけしているのに、シルエットだけで凜香って分かってしまう俺って…。




―――どれだけ好きだったんだよ。




哀れな自分を自分で慰めながら、しばらく遠いところから凜香を観察した。

もしかして旦那さんと待ち合わせしているかもしれないし、今話しかけたら迷惑をかけるかもしれない。


そう思ってしばらくその姿を見続けていると、凜香は一人でトボトボと歩きはじめた。



「どこ…。」



俺は思わず、その後ろ姿を追った。

これでは完全に不審者じゃないかと思ったけど、もしかしたら集合場所が変わっただけかもしれないし、うかつに話しかけるわけにはいかない。



でもバレたら完全に気持ち悪いからと思ってまるで探偵みたいに跡をつけていると、凜香の足は潤奈を見つけたその場所へと向かい始めた。



「え、ほんとに…。」



一人でなんてところ行こうとしてんだ。



あそこがそういう場所だって分からないほど純粋でもないだろうと失礼なことを思いながら、俺は自分の歩く足を速めた。すると凜香の足も少しずつ速くなっているみたいで、気が付けば俺は小走りで凜香を追っているやばいやつになっていた。



「ちょ、凜香っ!」



やっと背中をとらえて、大きな声で凜香を呼んだ。

すると凜香はその声に反応して勢いよく振り返って、俺の顔を見て驚いた。でもその直後には、わざとらしく「シーッ」というポーズをとってきた。



「こんなとこで…。」

「ちょうどよかった!」



小声でそう言った凜香は、俺の腕に自分の手を絡めてきた。



「え、ちょ…。」



人妻のくせになんてことしてくれてんだ。

必死で振り払おうとすると、凜香は内緒話みたいな声で「しばらくこうしてて」と言った。


「でも…。」

「お願い。」



凜香は真剣な目で俺を見上げてそう言った。

そう言われて俺が頼みを断れないことくらい、こいつは分かっていると思う。ズルいぞと思いながらも俺は凜香に協力して、昔みたいに腕を組みながら、そのいかがわしい通りへと入って行った。



腕を組みながら、凜香はポケットに入っているスマホを取り出した。

何するんだろうと思ってみていると、凜香はスマホを操作して、おもむろに動画を取り始めた。



「お前何…。」

「ちょっと静かに。」

「はい。」



それ以上何も口に出せない雰囲気になって、俺はただ前を見て歩いた。

凜香はスマホを見ているふりをしながら相変わらず動画を撮っているみたいで、俺にはそれに何がうつっているのか分からなかった。



「その左の路地、入って。」

「はい。」



状況が全くつかめないまま、俺はただ凜香の指示に従う人形になっていた。理不尽な気持ちはしっかりと感じていたけど、俺は指示通り路地に入った。すると凜香は足を止めると同時に腕をほどいて、物陰からスマホをかまえて、画面を拡大した。



拡大された画面に映っていたのは、楽しそうに腕を組みながらホテルに入って行く二人の男女だった。今度は冷静になってその二人の姿を見ていると、男の方に何となく見覚えがあるような気がし始めた。



「アイツって…。」



俺がそう声を出すくらいで、男女はホテルへと消えて行った。そして凜香も動画の撮影を終えて、やっとこちらを振り返って「ごめん」と言った。



「とりあえず、

どっか店入ろうか。」



色々と聞かなければいけないことがあった。

でもこの場所で聞くわけにもいかないからそう提案すると、凜香は素直に「うん」と言ってうなずいた。



「ちょっと離れててもいい?」

「うん。その方がいい。」



ここら辺は飲み屋街だから店なんて探そうとすればいくらでもあるんだろうけど、落ち着いて凜香と話がしたかった。俺は近くでタクシーを拾って、凜香の確認を取ることなく、勝手に行き先を伝えた。




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