case2-3 カフェ店員・芦田潤奈


「ねぇ、侑さん!」


しばらくそのまま歩いていると、潤奈がいきなり歩く足を止めて俺を呼んだ。

その声でやっと我に返った俺は、「あ、ごめん」と言って手首を持っていた手を離した。


「どうしたの、侑さん。」

「いや…。」



どうしたもこうしたもない。

そう思って戸惑っていると、潤奈は戸惑う俺を見てクスクス笑った。



「かっこいいね。」



屈託なく笑う潤奈の顔は、枕営業をしようとしていた子には見えなかった。

そのギャップにも戸惑ってこの後どうしようと迷っていると、潤奈はまたにっこりと営業スマイルを俺に向けた。



「この後、暇?」

「あ、ああ。」

「お礼させてほしいから、

私ん家きてくんない?」

「家?!?!」



突然の申し出にただ戸惑うしか出来ない俺をまた笑って、潤奈はその場でタクシーを止めた。そして戸惑う俺を半ば強引にその車に詰めて、自分の家までの道を慣れた様子で伝えた。



「別に、お礼とか…。」

「いいの、私の気が済まないし。」



何のお礼なのかとか、家まで行ってどうするのかとかそういうのは全く分からなかった。でもとりあえずタクシーに乗せられてしまった俺は、そのままおとなしくしているしかすることがなかった。



「ここです。」



まだ状況がうまく呑み込めていない間にタクシーは潤奈の家の前までついたみたいで、潤奈はさっさと会計を終えてタクシーを降りた。



「タクシー代くらい…。」

「いいって。

私が勝手に連れてきたんだから。」



潤奈の家は、あのカフェのすぐ近くだった。

そりゃ家の近くでバイトをしていてもおかしくないだろうと思いつつ、あまり深いことを考えられないまま潤奈の後ろをついて行った。



「どうぞ。」

「お邪魔…します…。」



外から見るとよくわからなかったけど、潤奈のマンションは女の一人暮らしには広すぎる1LDKの部屋だった。俺のマンションは8畳1間だっていうのに、こいつの家のリビングは俺の一間よりずっと広くて、家の中は女の子らしくてシンプルなイメージの家具やインテリアでまとめられていた。



「ソファ、座ってて。

ビール飲むでしょ?」

「あ、うん。」



ただその場で突っ立っている俺を、潤奈はまるで幼馴染みたいに扱って言った。

3つのも下の女にこんな風に扱われること自体初めてで、っていうか女の子の部屋に入るってこと自体何年ぶりか思い出せないくらい前な気がした。


動揺を隠しきれない俺は、とにかく言われるがままソファに正しい姿勢で座って、キョロキョロと部屋を見渡した。



「ねぇ侑さん、見すぎ。」

「あ、ごめんなさい。」



ビールと何品かのおつまみを持ってきた潤奈は、笑いながらそれを高そうなガラスのテーブルの上に置いた。そしてビールを俺に差し出すと自分の分の缶も開けて、「乾杯」と言ってぶつけてきた。



「ぷはぁっ。」



潤奈は豪快にビールを一口飲んで、気持ちのいい声をあげた。俺も負けじと勢いよく飲んで、「はあ」と大きくため息をついた。



「食べて。

ご飯まだなんでしょ?

昨日の残りとかだけど…。」



潤奈はおつまみを指さして言った。

お腹がすいていた俺は、まだ動揺しながらも素直に「いただきます」と言って、潤奈が作ってくれたであろうご飯を口に含んだ。



「うまい。」

「ほんと?」



小さく「やった」と喜ぶ潤奈が、純粋にかわいかった。

お腹がすいていたってのもあって俺は、潤奈が用意してくれたおつまみをもりもり食べて、それと一緒にどんどんビールを飲み進めた。



「侑さん、いくつ?」

「27。」

「え~年上じゃん。」


どうみてもそうだろと思ったけど、年齢のことはデリケートな問題だから口には出さなかった。でも小柄で可愛らしい女の子と思えないくらい潤奈はビールを豪快に飲んで、俺がここにいる事だっていたって普通みたいな顔をしてスマホをかまっていた。



「どんな仕事してんの?」

「営業。」

「だよね。

何となくそうかと思ってた。」



思えば家まで来たのにこれだけ話をするのは初めてで、なんだか不思議な感覚に襲われた。俺も潤奈に何か聞こうかと思ったけど、年齢も職業も大体わかっていたし、聞かれたくないこともあるんだろうなと思って、ただ食べることに集中した。



「どうして、助けたの?」



しばらく他愛のない話をしたり飲んだりしていると、潤奈は唐突に聞いた。

一瞬食べる手を止めて潤奈の顔を見てみると、すこし悲しそうな顔をしている気がした。



「困ってると、思ったから。」



俺は、女の悲しい顔に弱い。

言い訳しようと思ったけど、その顔に負けて正直に答えると、潤奈は一瞬驚いた顔をして「そっか」と言った。



「ねぇ、侑さん。」

「ん?」



そろそろお腹がいっぱいになってきた。

そう思って箸をおいたとき、潤奈に呼ばれた。

反射的に反応して潤奈の方を見ると、潤奈は俺の両肩をもって、そのまま勢いよくソファに押し倒した。



「ちょっと…っおまっ。」



27年間生きてきて、女の子に押し倒されるのは初めてだった。

それに加えて今俺を押し倒している女の子は、初めて話した日から数日しかたってない子だ。今までしてこなかった経験を一気にしすぎて、とうとう動揺が止められなくなった俺は、潤奈を必死にはがそうとした。


でも潤奈は俺を力強く押し倒したままうるうるした切ない目をして、俺を見下げていた。



「ねぇ、キスして。」

「はぁ?!?!?!?」



プログラムのことをすっかり忘れていた俺の耳に入ってきたのは、信じられない言葉だった。



え、ウソだろ?!

こんな簡単に攻略かよ?!?



思っていたよりずっと簡単に攻略できたことが、ちょっと嬉しくなっている自分がいた。


今までの人生を思い返しても女性からこんな風に言われたことがなくて、正直どこか興奮している自分がいたのも事実だったけど、俺の中の理性は意外と強いみたいで、なんとか湧き上がってくる欲望をおさえつけてくれた。



「お前、ほんとこういうことは…。」

「嫌?私とキスするの。」



うるんだ瞳で俺を押し倒した女は、瞳を潤ませながらそう言った。その目を見ていたらいよいよ理性が敗北宣言をして、気が付けば俺は形勢逆転と言わんばかりにくるっと回って潤奈をソファに押し付けていた。



「後悔、すんなよ。」



どうせ、キスしたらこいつは忘れるんだ。

俺は夢落ちの存在だ。



そう思って俺は、やけくそになりながら半ば強引に、潤奈にキスをした。



「…んっ。」



すると潤奈は待ってましたと言わんばかりにそのまま両手を俺の頬に置いて、口の中に舌を絡めてきた。



「はぁ…、侑さん…っ。

やばい…っ。」



一度唇を合わせてしまったらもう我慢が出来なくなって、俺ももう潤奈を飲み込む勢いで濃厚なキスをした。そのせいで息をはぁはぁと切らしている潤奈が色っぽ過ぎて、俺の理性はもう一段階崩壊しそうになった。



「ねぇ、して?」

「おま…っ。」



そう言って潤奈は、今度は触れるか触れないかのキスをしながら俺の下半身に手をやった。名残惜しく離された唇がぷっくり濡れていて、最高にエロかった。



「やめろって…。」



俺は最後の理性を絞り出して、潤奈の手をそっとはがした。するとそのまま潤奈は俺の手を、自分のスカートの中に持っていった。



「責任、取ってよ。」



まるで事後に言うセリフみたいに、潤奈は言った。

俺の全ての感覚は手に集中してしまっていて、研ぎ澄まされた手の感覚が潤奈のソコが布越しでも湿っていることを察知していた。



久しぶりに感じる湿った感覚だけでも、俺の残り少ない最後の理性を崩壊させるのに十分だった。









ヤって、しまった…。





吹き飛んだ理性をすぐに呼び止められなかった俺は、そのまま思春期だったときみたいに潤奈とヤってしまった。理性が戻ってきたころ俺はすでに潤奈のベッドの上にいて、潤奈は俺の胸の上で寝っ転がっていた。




「侑さん、意外とすごいね。」



ものすごい後悔に、襲われていた。

別に彼女もいないんだからいいんだろうけど、でも俺には香澄さんがいる。香澄さんのことちゃんと好きなのに、理性に勝てなかった自分が情けなくて仕方なかった。



「すごい、よかった。」



そんな俺の気も知らないで、潤奈は指で俺の乳首をいじりながら言った。久しぶりすぎてそんな刺激でもまた反応してしまいそうになったから、俺はその手を握っておとなしくさせた。



「助けてくれなくてよかったんだよ。」

「え?」



すると潤奈は、唐突に言った。

何のことが分からない俺が聞き返すと、潤奈はまた笑って「侑さんはかわいいな」と言った。



「困ってなかったもん。私。」

「でも…。」



やっとあの時のことだって思考回路が追い付いてそう言うと、また潤奈は笑った。何がおかしいか分からなくて困惑していると、潤奈は「わかってる」とにっこり笑って言った。



「ケンちゃんがもうお店にこないって、

私分かってるよ。」

「ならなんで…。」



潤奈もそんなにバカじゃないらしい。

確かによく考えてみれば、夜の仕事をしている女の子だし自分のお客さんならそれくらいわかるかと、また自分の考えが浅はかな事が恥ずかしくなった。



「エッチ、上手なの。」

「は?」

「ああ見えて、

ケンちゃんすごい上手なんだよ。

しかも何回も出来るの。すごいよね。」



思わぬ答えが返ってきて、俺は呆気にとられていた。

すると潤奈はそんな俺の様子を見てまたクスクスわらって、「侑さんって純粋なんだね」と言った。



「他の人ともヤッてんの?」

「うん。」



当たり前って口調で潤奈は言った。

予想はしていたけどあっさりと答えが返ってきすぎて、こんなことあるのかと驚いた。



「何人、くらいと?」

「う~ん、何人だろ。

数えたことないからわかんない。」



数えないと分からないくらいの人とやっていることは、少なくとも俺にも理解できた。思ったより闇が深そうだって思ったけど、そう言えばさっき俺はこいつに「キスしてほしい」って言わせたんだ。


もう今後かかわることはないかもなと思ったけど、人生の先輩として俺はアドバイスをしておくことにした。



「やめとけよ、お前。」

「なんで?」

「なんでって…。」



何が悪いのかってテンションで、潤奈は言った。

確かにこいつは不倫をしているわけでもないし、彼氏もいないらしいから浮気をしているわけでもない。



「むなしく、ならない?」



俺も、ワンナイトみたいなことを経験したことが、実はある。

確かに欲望は満たされるし、それで満足なやつは満足なんだろうけど、でもそのあと一人になったときの虚しさに、俺は耐えられなくなりそうだった。


だから俺はそういうことはもうしないって決めていたけど、今日またこうやって欲望に負けてしまった。そして現在、後悔に襲われている。


とっかえひっかえそういうことをしていたら絶対にむなしい時が来るはずだと思ってそう言ったのに、潤奈はなんだか不思議そうな顔をした。



「ならないよ。

むしろ満たされるからいいじゃん。」

「満たされるって…。」

「お互いギブアンドテイクじゃん?

私も気持ちよくしてほしいし、

相手もそうして欲しいなら

めちゃくちゃいいことじゃん!」



「それにちゃんとゴムつけてるよ!」と、潤奈は付け足して言った。

そういう問題じゃないんだけどなと思ってみたけど、もしかしてそういう人種も、中にはいるのかもしれない。


こんな俺の考えを押し通すのもよくないかなと、俺はそこで引き下がることにした。



「でも侑さんがこうやってしてくれるなら

侑さんだけにしてもいいかも。」

「は?」

「だってすごいよかったんだもん。

それに意外と筋肉もあるよね。」



潤奈はそう言いながら、手を俺の大事なソコに這わせようとした。こんなところで相沢のアドバイスの効果が発揮されても困ると心の中で悪態をつきながら、さすがにもう後悔を重ねたくない俺は、その手を丁重にそこから遠ざけた。



「なぁんだ。釣れないな。」



潤奈は本当に残念そうな声を出してそう言った。

俺はなんとか自分を奮い立たせて立ち上がって、その辺に散らばっている服を集めて帰る支度をし始めた。



「え、帰るの?」

「うん。」

「え~?もう終電ないよ?」



ヤることだけヤッて帰るなんて、最低だなと自分でも思った。

それでもここにいたら、また欲望に負けてしまいそうだし、変に気をかける方がかえって最低なのかもしれないと自分に言い訳をした。

俺は自分のプライドとかなけなしのそういうものを守るために、さっきまで着ていたスーツをもう一回ビシッと着なおして、いつもの自分を取り返した。



「じゃ。

ごちそうさまでした。」

「わっ、大胆なこという。」



そういう意味じゃねえよと思って潤奈をにらむと、「冗談冗談」と言ってはぐらかされた。俺はせめてもの礼儀と思って潤奈に布団をかけなおして、頭に手を置いた。



「大切にしろよ。

自分のこと。」



ギブアンドテイクだとは言ったけど、絶対心の中のどこかはすり減っているはずだ。そう信じて潤奈の目を見て言うと、潤奈は一瞬悲しそうな目をした気がした。



「また、来てね。」



もう来ないし、お前は明日には忘れてるよ。



そう思うと少し切ない気もしたけど、俺はそのまままっすぐ潤奈の家を出た。朱音のときみたいに時計が祝福してくれてるはずだと思ってチェックしてみたけど、あの画面が表示されていなかったことだけが、少し気になった。






ピンポ~ン♪



あの後まっすぐタクシーで家に帰って一人になると、さらに後悔が深まった。忘れるためにも家にあったビールを一気飲みしたせいか、ソファの上で知らないうちに眠りについていたらしい。


その日は休日だったから気持ちよく眠っていたはずなのに、また朝からインターフォンで起こされることになった。



「お前そろそろ時間考えてくれ。」

「すみません、

次回から考えます。」



もはや定番になったこのやり取りをして、当然のように相沢が家に入ってきた。眠い目をこすりながらこれも定番と言わんばかりに、俺は相沢の前にコーヒーを出した。



「んで、今日は3人目の話?」



まさか俺がこんなにあっさり攻略するなんて、相沢も思ってなかっただろう。

俺は少し得意げな顔をして相沢にそう言ったけど、ヤツと言えば「おめでとうございます」とかじゃなく、「え?」とだけ俺に言った。



「2人目が、まだですが。」

「は?!?」



もしかして、時計の電池でも切れていたんじゃないか。

そう思って焦って電源を付けてみたけど、昨日からずっと時計は起動したままだった。焦った俺がそのまま相沢の顔を見上げると、「あ~あれですか」とあきれた様子で言った。



「あれは本心じゃないので

ノーカウントです。」

「はぁ?!?!」



そのセリフを聞いて、そう言えば相沢が最初そんなことを言っていたと思いだした。でもどう考えても、アイツはキスしたがってただろと思ってにらみつけると、相沢は俺の顔を見て盛大にため息をついた。



「佐々木様。

そのくらいわからなくては

有巣様を落とすなんて夢のまた夢です。」

「お前…。」

「芦田様はただ単に

"欲望を満たすキス"がしたかっただけです。

プログラムで要求されているのは、

"気持ちを満たすキス"です。」



「一番佐々木様が分かってると思ってました」と、相沢は言った。

確かにそれは俺が昨日潤奈に言ったことそのもので、セックスが性欲を満たすだけの行為じゃないように、キスだって同じだ。



そんなことも忘れて舞い上がっていた自分が恥ずかしくなって、俺は頭を抱えた。



「でもだいぶ進歩してます。

昨日は芦田様の変化にも

気が付いたんでしょう?」



そう言えば朱音を攻略した後、"攻略の手順"は一緒だとこいつが言っていたのを思い出した。確かに朱音の時、相沢は変化を見抜くことが大事だと言っていたけど、俺は潤奈の変化に気が付けるほどアイツのことをしらない。


そう思いながらも頭の中を必死に検索してみると、頭に浮かんだのは潤奈のどこか悲しい目だった。



「前より進捗も早いですし、

そこは成長ですよ!」



まだ何が変化なのかを考えている最中の俺に、「そんなに落ち込まないで」というテンションで相沢は言った。

こいつはなんなんだよともう一回にらんでみたけど、相沢は涼しい顔をしてコーヒーを飲むだけで、俺のにらみなんて全く気にしていない様子だった。



「どうすれば…。」



俺は途方に暮れた。

客とするセックスもギブアンドテイクだというアイツに、どうやって気持ちのあるキスを要求させればいいのか、全く見えなかった。すると相沢はそんな俺を見て、また小さく息を吐いた。


「佐々木様。

私に最近ブラックコーヒーを

お出ししてくれますよね。」

「ああ。」

「なんでですか?」

「なんでって…。」



そりゃ、それくらい礼儀だろ。

当たり前の答えを飲み込んでその質問の真意を考えてみたけど、さっぱりわからなかった。



「私はコーヒーが好きです。」

「それは、よかったです。」



この期に及んで嫌いなんて言われたら、今までなんてことをしたんだって後悔しているところだった。好きならいいじゃんと思ってそのまま相沢を見ると、「でも」とよりによって付け足しを始めた。



「でも、本当は砂糖が入ったほうが好きです。」

「は?」



砂糖が出せないお前は気が使えないと言いたいんだろうか。

気が使えないことには間違いないんだろうけど、だからってなんで今その話なんだと思った。



「砂糖が入っていてもいなくても、

このコーヒーは同じコーヒーに見えます。

私はコーヒー自体好きなので

どちらだって好きですが、

本当は砂糖が入ったほうがおいしいんです。」

「はあ。」



「ミルクを入れていたら別ですが」と、相沢は付け足した。まだ何の話をしているのか理解できていない俺の気持ちは置き去りにして、相沢はそのまま話を続けた。



「でもそれは、

砂糖を入れるまで気が付かないものです。」



砂糖を入れるまで、砂糖を入れた方が美味しいとは気が付かない。当たり前のことなんだろうけど、そう言われてみれば確かにそうだ。


もしかして潤奈も、愛のある行為をしたことがないのか。

セックスが好きってのには間違いないけど、愛がない行為を知らないから、その良さをしらない。だからいつも何か足りなくて、それを探すために行為を繰り返している。


そういう風に考えたら、潤奈の行動の意味もしっくりくる気がした。



なるほど。

よくわかった。



「よくわかったけど、

どうすればいいかは

さっぱりわからんな。」



もう相沢に対して恥もなにも持っていない俺が自信満々に言うと、相沢は大きくため息をついた。



「佐々木様は女性の扱いがうまいとは

まだ言えませんが…。」

「おい。」



丁寧な言い方はしていても、だんだんこいつ失礼になってはいませんか?

心の中で誰かにそう問いかけてみたけど、当然誰も答えてくれなかった。



「この手のことは、

佐々木様が一番得意と

されていることかと思います。」

「俺の、得意…?」



自分の得意とすることなんて、どれだけ考えても浮かんでこなかった。でも相沢はこれ以上何も言わないって顔をして、いつも通り胡散臭い笑顔で俺を見た。



「いずれにせよ、

いいペースで進んでいることは

確かだと思ってください。」

「はぁ。」

「それでは、健闘を祈りますっ!」



元気にそう言って、相沢は素早く立ち上がった。いつも自分の言いたい事だけ言いやがってと恨みながら去っていく背中を眺めていくと、相沢は途中で止まって「あっ」と言った。



「サイレントモード、

使ってくださいね。

さすがに最中の音を聞くのは…

私も気まずいです。」



サイレントモードの存在なんて、すっかり忘れていた。

何も考えないまま相沢を家に入れたけど、昨日のアレを全部聞かれていたのかと思ったら、もうマンションから飛び降りたいくらい恥ずかしくなった。でもそんな俺のことなんて置き去りにして、相沢は爽やかに去って行った。


しばらく動けなくなって視線を下に落とすと、そこにはキレイに飲み干されたコーヒーカップがあった。俺はそれをじっくりと見た後、次だって絶対砂糖なんか入れてやらないと心に誓った。

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