第6話
一年近いひきこもり生活でぼくは頭髪の大半を失った。
不摂生が原因だろう。
わずかに残った頭髪は実にみすぼらしく、妹に頼んで風呂場でスキンヘッドにしてもらった。
大槻ケンヂみたいでかっこいいな、とぼくが言うと、妹は誰それ?と口をぽかんと開けた。
知らない? 目にこう、雷のメイクをした、たまにタモリ倶楽部とか出てるじゃんか、麻衣はタモリ倶楽部なんて見ないもの、そんなやりとりをした。
いつかのようにニット帽を目深にかぶり、札束を鞄に詰め込んで、ぼくはひさしぶりに町へ出た。
妹はついていくと言って聞かなかったけれど置いてきた。
たてこもり事件の渦中の家の半径200メートルをわずかにはずれた場所にぼくの家はある。
立ち入り禁止の黄色いテープがはられた道路と、その手前に人形のように立つ警官。マスコミの車も、カメラやマイクを持った人達も、野次馬も、めっきり減ってしまった。
ぼくは戸田と安田という二人組の刑事に会釈だけした。刑事はぼくに気付かなかったのか後をつけてはこなかった。
万博のあと取り壊しの工事が始まり、その途中で工事が取り止めになったモノレールの廃駅で、ぼくは鞄から一万円札を一枚だけ抜き取った。
目の前にあるアピタ古戦場跡店に入り、「防弾チョッキ入荷しました」のチラシを確認だけして正面のエスカレーターで二階に登る。二階を左手に進むと玩具売り場がある。双子のこどもがぼくを左右から追い抜いていった。
ぼくは左の子の腕をつかみ、その手に一万円札をねじこんだ。
長い髪の、女の子と見間違えそうな男の子だった。
強くつかんだつもりはなかったけれど泣きそうな顔をした。
もうひとりが、片割れがついてきていないことに気付いて足を止めて振り返る。
その子も泣きそうな顔をしていた。
やっぱりこういうのは妹にまかせればよかった。そう思いながら、
「これで何でも好きなものを買いなさい」
ぼくは双子に言った。
双子はレジの前に並んだカードゲームを大胆にも大人買いした。
6300円です、ぼくがねじこんだ一万円札を店員に差し出す。
「何これ」
店員はすぐにその一万円札の違和感に気付いた。
「いちまんえん」
双子が声をそろえて言った。
「どうした?」
「主任、これ。この子たちが」
「なんだこりゃ。偽札、か」
「きみたち、これ、お母さんにもらったの?」
双子はまた泣きそうな顔をしている。
ぼくはあわててマネキンの陰にかくれた。
「んーっとね、あの人。あれ?」
「お兄ちゃん支度できた?」
階段の下から妹がぼくを呼んだ。
「まーだだよ」
かくれんぼをするように、ぼくは返事を返した。
シャワーも浴びたし、歯も磨いた。髭も剃った。妹が選んでくれた服も着た。
だけど気分が乗らなかった。
窓を開けて、ぼんやりと今日も降り続ける雨を見ていた。
相変わらず二人組の刑事が窓の下にいて、安田です戸田ですと声は聞こえないが口を動かしていた。
たてこもり事件の佐野は、あの日以来ラジオ出演をやめた。マスコミももう事件にはほとんど触れない。
雨はやまない。
刑事は今日も雨に濡れていた。
「病院の予約、11時だよ。三十分前には受付すませないといけないんだよ」
今日は二ヶ月に一度の、通院日だった。
ぼくはひきこもりだけれど、病院に通院している。
ぼくは潰瘍性大腸炎という病気を患っていた。大腸の一部かすべてがただれ、激しい腹痛と下痢と粘血便、嘔吐と発熱にさいなまれる、現代の医学では完治が難しい原因不明の難病のひとつだ。
大腸全摘出という治療法もあるが、基本的に完治することがないため、治療は一生続けていかなければならない。
この病気の患者の大半は、症状がおさまっている状態と症状が出ている状態を何度も行ったり来たりする。
大抵は薬と食事制限によって症状をおさえることなる。
ラーメンとカレーが食べられなくなる病気、とこの病気について説明するあるサイトには書かれていたけれど、まさしくその通りで、元々好きではなかったことが幸いして丸一年食べていない。
「なぁ、もう6月なんだよな。特定疾患の申請始まってるよな」
難病のため、申請が受理されれば税金から医療費が支払われる。申請は毎年6月1日から始まる。
「そうだよ。だから今日は診断書を書いてもらわなくちゃいけないんだからね」
妹の声が大きくなったかと思ったら、すぐ後ろにいた。
「なんかそんな話、榊先生もしてたなぁ。あ」
榊先生はぼくの主治医の女医だ。初診からぼくを担当し、潰瘍性大腸炎と診断されるまで二度も誤診した、おっちょこちょいな医者で、白衣や聴診器がコスプレ衣装にしか見えない。
ぼくは鞄から前回渡された紙を一枚取り出し、妹に差し出した。
「ごめん、これ、忘れてた」
――予約時間より二時間程度早く受付をすませ、血液検査を受けてください。検査の結果を元に、診察を行います。
「今何時だっけ?」
「10時半」
妹は笑っていたけれど、怒っていた。
これ以上怒らせると3日間口を聞いてもらえなかったりするかもしれない。
ぼくは慌てて階段を降り、靴を履いた。
「朝のお薬は飲んだ?」
「それがさ、見付からないんだ、【薬】」
妹に思い切り頭を叩かれた。
結局ぼくと妹は、予約した診察時間にすら間に合わなかった。
診察は後回しにされてしまった。
ぼくたちは外来の患者らしくおとなしく名前が呼ばれるのを気長に待つことにした。
妹は付き添いのため午後から登校すると棗に伝えていたようだけれど、結局昨日は学校を休むことにした。
英単語を覚える妹の横で、ぼくは売店で買ったジャンプを読んだ。サムライうさぎという漫画が最近始まった漫画の中ではお気に入りだ。読み終わるとすることがなくなってしまった。テニスの王子様とボーボボは読まなかった。
救急車で今にも心臓が止まりそうな患者が運ばれてきたらしく、榊先生がその処置にあたっていると看護師から聞いた。元気な心臓もとめちゃうような人だから心配だわ、と看護師は言った。案の定、急患の心臓はとまったらしい。えぐえぐと泣きながら廊下を歩く榊先生を見た。診察が再開された。
妹も、英単語の暗記に飽きたのか、ぼんやりと診察室のドアを眺めていた。
「病院は嫌いだな」
妹はそう言った。
「ここに来ると、お兄ちゃんが病気になって苦しんでたときのことを思い出すの。
お兄ちゃんはずっとお腹を手で押さえてて、何度もトイレに行った。
あそこのトイレよ。覚えてる?
トイレに行って、下痢をして、出てきたかと思ったら、またお腹を押さえてうずくまってた。
段々呼吸がおかしくなった。
過呼吸になって、麻衣はあわてて看護婦さんを呼んだの。
お兄ちゃんはベッドに寝かされて、だけどお医者さんは誰もお兄ちゃんを診てくれなくて、麻衣にはビニール袋が手渡された。
お兄ちゃんの口と鼻にあてるように言われた。麻衣は言われた通りにした。
お医者さんに診てもらえないままお兄ちゃんが死んじゃったらどうしよう、どうして麻衣は救急車を呼ばなかったんだろう、麻衣が後悔しても泣いてもどうにもならないってわかってたけど、麻衣にできることはそれくらいしかなかったんだ」
ぼくはそのときのことを何も覚えてなかった。
だけど、妹がずっと手を握っていてくれたのは何となく覚えていた。
嬉しかった。
このまま死んでもいいと思えるくらい。
「それは看護婦さんだよ」
妹に言われて、ぼくは心底落胆した。
「血圧はかるのがすごく下手な人で、オロオロして、ずっとお兄ちゃんの手を握ってたの」
ぼくはなんて病院にかかってしまったんだろう。
「うそだよ」
妹はぼくの手を握った。
ぼくはその手を握り返した。
診察室のドアが開いた。
「加藤、学さん」
看護士がぼくの名前を呼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます