第3話
数日前粗大ごみ置き場に捨てたはずのバス停やペコちゃんがいつの間にか部屋に戻ってきていた。
どうやら捨てられないほど大事なものだったらしい。
今朝はそこに【マネキン】が加わった。
「まったく迷惑極まりない」
学校から帰った妹は、ぼくの気持ちを代弁するように、しかしぼくに向かって言った。
「こんなの一体どこから盗んでくるのよ」
ぼくが知りたかった。
目が覚めたらマネキンを抱いて寝ていた兄の気持ちも少しは考えてほしかった。
固い乳房に顔を埋めて、強く押し当てていたせいか額に赤く痕がのこり、まだ消えてくれない。
「お兄ちゃんは夢遊病で、欲求不満なんだね」
マネキンの固いけれどそれなりにスタイルのいい裸を横目に、妹は少しやきもちを妬いているように見えた。
ゆうべぼくはマネキンに悩みを打ち明けられる夢を見た。
「わたしね、いつも同じ方を向いてるでしょ。首がね、こるんですよ。すみませんが、湿布、もってません? あーやっぱりないですよね。じゃすみません。ちょっともんでもらってもいいですか。叩いたらだめですよ。頭痛くなっちゃうから」
マネキンは名鉄メルサだかセブンだかに所属していて(デパートをまるで芸能プロダクションのように話した)、将来はナナちゃん人形のようになりたいのだとぼくに夢を語った。
ナナちゃんは、彼女にとってエビちゃんみたいなものなんだろう、となんとなく理解した。
「ナナちゃん、こないだまで旅行してたでしょう? マネキンが旅行するなんて過去にないことよ。わたしたち同業者は全員耳を疑いましたよ。わたしだって若手の才能あるデザイナーがデザインしたようなかわいいお洋服を一度くらい着てみたいんです。もういやなんですコシノ・ロンドン。わたしはね、ナナちゃんくらいビックになりたいんです」
「この子はさ、一度でいいからかわいい服着てみたいんだってさ」
ぼくは妹に夢の話のつづきをした。
「え? 何の話?」
マネキンはローティーン向けのお店に置かれていたものらしく、妹と背丈があまり変わらなかった。
「何か服着せてあげてよ」
兄のひいき目かもしれないけれど妹は結構おしゃれだし、とてもかわいい。
「あとね、ナナちゃんくらいビッグになりたいんだって」
ナナちゃんが着てるような高い服は持ってないだろうけれど、君にもきっと似合うと思う。
「え? だから何の話?」
【宮沢理佳】が行方不明になった。
行方不明者はこれで8人目だ。
進展のないたてこもり事件の代わりに同じ町で起きた相次ぐ行方不明事件をマスコミがかぎつけてテレビで取り上げ始めた。
「お兄ちゃん起きてる?」
妹が部屋の外からぼくに声をかけた。口の中に何か物が入っている。歯を磨いているのか、何か食べている途中なのか。たぶん後者だ。妹は今日も寝坊だった。
「ニュース見た? 宮沢理佳さんてお兄ちゃんの好きだった人でしょう?」
妹は、ぼくのことは何でも知っている。
「心配だね。テレビじゃ家出か誘拐かって騒いでたけど……、家出だといいね」
「たぶんもう会えないよ」
なんとなくそんな気がした。
宮沢理佳はもう、この世界のどこにもいない。そんな気がする。
妹が家を出た。
ぼくはいつものように窓の下で手をふる妹を見送ろうとした。
しかし窓の下の妹は、スーツ姿の男ふたりに何やら話しかけられていた。
一度だけ妹はぼくを見上げて、男のひとりが妹の視線の先に気付く。小さく会釈をした。
話は終わったらしい。
若い男は手をふって、妹を送り出す。
会釈をした男がぼくたちの家のインターフォンを鳴らした。
13回目のインターフォンでぼくは階段を降りていくことにした。
男たちは刑事だった。
玄関の覗き穴を覗くと、二冊の警察手帳をぼくに見せていた。
ぼくは仕方なくドアを開けた。
会釈をした男は安田といい、若い男は戸田というそうだ。
「愛知県警の者です」
安田刑事はいかにも叩き上げといった感じで、戸田刑事はキャリアっぽかった。着ているスーツが違う。
「あぁ。たてこもりの件ですか。大変ですね、もう一週間でしょう?」
渦中の家の方角で銃声が鳴った。キャリアの方がびくっと体を震わせる。
「200発、でしたっけ。あの人が持ってるっていう弾の数」
「あー、確かテレビでそう言ってたなぁ。君、よく見てるんだなぁ」
「まぁ、近所のことですし。なかなかこんな事件ないですから。今ので、確か63発目ですよ」
銃声にももう慣れてしまった。田圃の鳥おどしの空砲と何も変わらない。
「あ、いやいや、今日お伺いしたのは別件で」
叩き上げの方が汗も出ていないのにハンカチで顔を拭いた。
「こないだSATがヘマやって警視庁が出てきちゃったでしょ。県警はもう出る幕ないんですよ」
「おい、おまえ余計なこというなよ」
叱られた戸田刑事は、さほど気にしていない様子だった。
「君、加藤学くんでしょう?」
「ええ、まあ」
「お友達の連続行方不明事件、ご存じですね? あの件です」
潮の薫りが濃い海に面した町で、携帯電話の電池がきれてしまったぼくは、しかたなく電話ボックスに入った。
ぼくは誰かに電話をしようとするのだけれど、携帯電話が電池切れでは誰の電話番号もわからないと気付き、途方にくれた。
町が津波にのまれる。
津波はぼくのいる電話ボックスものみこみ、電話ボックスはぼくを乗せたまま処女航海をはじめた。
太平洋へ。
電話ボックスは船のようでもあり棺桶のようでもあった。航海士も船大工もいない。船医もいなければ、コックもいない。砲撃手も船長すらいなかった。ぼくは飢えと寒さに苦しんだ。
航海49日目の朝、ぼくはまだ生きていた。
生きたまま鳥についばまれ、体の半分は骨や内臓が見えていた。ぼくは体をついばむ鳥を捕まえては食べていた。わざと血を海に流し、よってきた魚にまた食われながら食べた。
受話器を手にとり、たったひとつだけ覚えていた電話番号のボタンを押した。
電話の音で目が覚めた。
左手で体中を触って、内臓が飛び出していないか、肉がついばまれてはいないか確かめる。
大丈夫だ。
だけどなぜだか体中が痛かった。
いつもモノクロで、活動写真のような夢は、内臓にだけ鮮やかなピンク色をこぼしていた。ペンキをこぼしたようなショッキングピンクの内臓はそのくせやけに生々しく見えた。
体が痛いのはリアルな夢を見たからなのかもしれない。
電話はけたたましく鳴り続ける。
なぜ誰も電話に出ないのだろう。
父は?
死んだ。
母は?
よそに男を作った。
妹は?
学校に行ってしまったのだろうか。
電話は1日中やみそうにない。またコカコーラを63本も買うはめになってしまう。
仕方がない。
起き上がろうとして、ぼくは右手に何かを強く握り締めていることに気付いた。
緑色の受話器だった。
螺旋に巻いた同じ色のコードが公衆電話につながっている。
電話ボックスはぼくの部屋のベッドに座礁していた。
受話器を置くと電話は鳴りやんだ。
十畳もある広い部屋に、ぼくの居場所はなかった。
広すぎてどこにいたらいいのかわからなかったし、六畳半の部屋で我慢している妹を思うと気が引けた。
妹がぼくの部屋を訪ねてくれたときだけ、部屋にはぼくの居場所ができた。
ただ妹のそばにいればよかった。
狭い場所が好きだった。
小さな頃閉じ込められた屋根裏や物置。
クラスメイトに閉じ込められた、掃除道具入れ。
粗大ごみ置き場の冷蔵庫。
だから昨日から電話ボックスがぼくの居場所だ。
公衆電話が頭の上に来るように、体育座りをして、受話器から伸びたコードを指で遊ぶ。生前父が集めていたテレホンカードを差し込み、タウンページの無作為に開いたページの目についた番号に電話をかけた。
電話回線はどこにもつながっていないはずなのに呼び出し音がなり、やがて受話器の向こうから「もしもし」声がした。
ぼくは無言で、相手が腹を立てて電話を切るのを待つ。
それを1日中繰り返す。
「もしもし、もしもし、もう、いたずら電話かしら」
受話器の向こうは若い女だった。
「どうした?」
男の声が少し離れて聞こえた。
「あ、あなた、おかえりなさい。やあねえ、いたずら電話みたいなの」
困ったような口ぶりだが、声は明るい。
「電話番号出てるだろ? あんまりかかってくるなら警察に言えばいいさ。さ、お腹の子にさわるといけないから」
「そうね、そうする。あれ? やだ何これ気味が悪い」
「下着の色でも聞かれたか?」
「ナンバーディスプレイにモザイクがかかってるの」
ぼくは受話器を下ろした。
汚れたガラス越しに見るぼくの部屋は狭く、汚かった。
十畳の部屋には自販機があり、薬局の蛙のマスコットやペコちゃんがいて、バス停があり、電話ボックスまでもある。
机の引き出しには拳銃がある。
窓の下には今日も【刑事】がいた。
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