第56話 ドリーワン・レベル2 第25話

「お兄ちゃんだけが、わたしを選んでくれた」


 ドリーははさみで手首を切り、血を紙コップがいっぱいになるまで貯めるとぼくに差し出した。


「だからわたしは棗さんではなくお兄ちゃんを利用することに決めた」


 かつてぼくの案内人であった彼女はソフトビニールの人形だった。しかし今は二人組の刑事や妹の案内人であった硲という探偵兼フリーライターの男同様人間の体をしている。しかし奇妙な縁取りもモザイクもないのだ。妹とうりふたつの少女だった。


 ぼくはその血を一気に飲み干す。


「本当はわたしの肉を食べてもらうのが一番なんだけど」


 ドリーはそう言い、ドリーワンによって持ち帰られた存在を食することで不老不死が得られるという、ぼくの知らないルールを数日前ぼくに語った。


 不老不死。


 棗ならその言葉に食い付いたかもしれないが、ぼくはあまり魅力を感じなかった。


 ぼくは臆病でずるくて弱虫で人を傷付けることしかできない。そんなぼくが未来永劫この世界に存在するなんて悪以外の何物でもないと思った。


 それに、ぼくにはたぶん他人を妹より愛することはできそうもない。


 妹が老いて死んでいくのを看とった後、妹のいない世界でどうやって生きていけばいいのかわからなかった。


 だからぼくはドリーの誘惑を丁重に断った。


「わたしの血でもお兄ちゃんの癌の侵攻を和らげるくらいのことはできる」


 それでよかった。


 妹がドリーワンを無事契機満了するまでそばにいてあげられたらいい。


 ぼくは毎日紙コップ一杯のドリーの血を飲む。


 それが、全身に癌が転移し、余命半年と宣告されたぼくが、何の痛みも感じずに生きていられるからくりだ。


「きみは世界を滅ぼしたいといったね」


 ぼくはドリーと毎日、かつての友人たちを見舞う。

 友人たちは皆眠っており、目を覚ましたとき傍らに存在する夢世界の産物におそれおののき、あるいは失った何かを思い涙を流す。


 彼らには自分がドリーワンの契約者であるという自覚はない。


「ぼくがドリーワンの契機を満了して契約を更新せず破棄したことで、妹やぼくの友達がその資質に関わらずドリーワンを発症した、それがきみの狙いだったわけだ」


 ぼくはドリーに尋ねた。

 そして、妹やぼくのかつての友人たちがドリーワンの契機を満了するのを見届け、再び契約を破棄させる。彼女たちが失った人たちは帰還して、彼女たち同様ドリーワンを発症する。


「そしてドリーワンの契約者はいもづる式に増えていくというわけか」


「そう、そして近い将来、世界中の人々がドリーワンの契約者になる」


 ドリーワンによって契約者は夢を見るたびにその夢世界から何かをひとつずつ持ち帰ることができる。


 いや、持ち帰らざるを得なくなる。


 それは夢世界の現実世界への侵食と言えるだろう。


 ぼくたちの生きるこの世界はやがて、夢と現実の区別のつかない世界へと変貌を遂げることになる。


「そんな世界で、人は生きてはいけないな」


 ぼくがそう呟くと、ドリーはうれしそうに笑った。


 ぼくは世界を破滅させる計画を片棒をかつがされていた。




 余命半年と宣告されてからも、一度学校に行くと決めたぼくは入院していても勉強をかかさなかった。

 たぶん二度とあの学校の校門をくぐることはないだろうけれど。


 入院しているということ以外は、以前と変わらない姿を妹に見せてやりたいとぼくは思った。

 妹の悲しい顔をぼくはもう見たくなかった。


 榊先生が手の空いた時間に病室にきてくれて勉強を見てくれた。


 先生がぼくのことを好きでいてくれていることを、うぬぼれではなく、ぼくは知っていた。だから頼めばそれくらいのことはしてくれるだろうとわかっていた。


 勉強の途中にときどき色目を使って誘惑してくるのには少しまいったけれど。


 先生とは一度だけ寝た。

 セックスをしたのはもちろんはじめてのことだった。


「学くんが麻衣ちゃんのこと好きなのは知ってるよ」


 先生はそう言って、いつか麻衣ちゃんにもしてあげなさい、と言った。


「きっとあの子もそれを望んでるはずだから」


 と。わたしとするのはそのときのための予行演習だと思ってくれていいから、とも言った。


「ふたりともはじめてじゃ何をどうしたらいいのかわからなくて困っちゃうでしょ。ちゃんとリードしてあげるのよ。男の子なんだから」


 そして、先生は以前診察室を訪ねてきて暴れていた飴という奇妙な名前の男の話をした。



 学校が終わると、妹はぼくの病室にやってくる。


 コンコンと二回、ドアをノックして、ドアを少しだけ開き、


「お兄ちゃん、いる?」


 中にいるぼくを呼ぶ。


「いるよ」


 ぼくはベッドの上から妹を手招きする。


 その時間がぼくが一番安らげる場所だった。


 ぼくに駆け寄ってきた妹は、


「だいじょうぶ?どこも痛くない?」


 と、不安そうに大きな瞳に涙を浮かべて訊く。


 ぼくはその頭を優しくなでてやる。


 妹は学校指定のえんじのナップサックから、その朝夢から持ち帰ったものをぼくのベッドに置いた。必ずそうするように言ってあった。何も持ち帰っていなければ、必ず大切なものがひとつなくなっているはずだ。学校は休んでもいいから、何をなくしたか確認するようにぼくは言った。


 その日妹がぼくに見せたのはハンディビデオカメラだった。

 ぼくや妹や棗が繰り返し夢に見る(棗は他にもうひとりいると言っていたがおそらくたてこもり犯の佐野だろう)、ぼくたちが夢に見るゆうかい事件の夢の中で、佐野は地方テレビのプロデューサーという役割が与えられ、小さなビデオカメラでぼくたちの枝幸という世界の果てのような場所へ向かう逃避行のドキュメンタリー映画を撮り続けていた。


 そのビデオカメラだ。


 妹が夢から持ち帰るのは、そんな事件の遺留品めいたものばかりだった。


「これ、テープは入ってるのか?」


「わかんない。使い方とか麻衣にはわからないし」


 妹にビデオカメラを向け続けた父から、ぼくは一通り使い方は聞いていた。もう何年も前のことだけれど、簡単にテープは取り出せた。


 ビデオテープには「ミッシング」とタイトルが書かれていた。




 妹が夢から持ち帰ったビデオカメラは、テレビにつなぐコードさえあれば中に入ったテープを再生して観ることができそうだった。


 ぼくには外出許可が下りてはいなかったから、妹にアピタでコードを買ってくるように言い、その日は病院の入り口まで妹を送り別れた。


 ビデオテープはおそらく砂嵐か、そうでなければ夢の中で佐野が撮った映像が入っているはずだ。

 もし後者なら、ぼくが以前から疑問に感じていた謎がひとつ説けるかもしれない。


 妹を見送った後、ぼくは院内にある図書室で夢について記された心理学の書籍を何冊か借りた。


 いつかドリーに尋ねたことがあった。

 妹が夢から持ち帰った花をダイニングのテーブルに生けた日のことだった。あの日もぼくは妹を泣かせてしまったんだっけ。妹に心配をかけたり、泣かせたり、つくづく悪い兄だなとぼくは反省した。


 妹が夢から持ち帰った花は生花でも造花でもなかった。

 ぼくはそれを妹は一体どこから持ち帰ったのかとドリーに尋ねたのだ。


 夢だとドリーは当然のようにこたえた。

 ぼくはドリーに、夢の中に存在するものは脳の電気信号によ存在しないものをさも存在しているかのように脳が知覚しているだけであり、そんなものを持ち帰ることは不可能ではないのか、と尋ねた。


 しかし返ってきたのはわからないという言葉だけだった。


 病室でぼくは借りてきた本を開く。


 ぼくたちが見る夢は、本当に書物にあるように、睡眠中に起こる知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象なのだろうか。


 なぜぼくたちは、ぼくや妹や棗や佐野は同じ夢を見続けるのだろうか。


 ひょっとしたら夢は、この世界にドリーワンという奇妙な力が存在するように、それとは別の力や、たとえば妹が誘拐されてしまうような世界があって、ぼくたちはその世界にも存在し、互いに夢の中でもうひとりの自分を見ているのではないだろうか。

 ドリーワンによって持ち帰るものはすべて、その世界に存在するものではないのだろうか。

 あくまでも仮説にすぎないけれど。


 明日ビデオカメラをテレビに繋いで、テレビにもし佐野が撮った映像が流れたなら、この仮説を証明することにはならないだろうか。

 証明したところで、それで事態が変わるというわけでもなかったけれど。


 着々とドリーの計画が進み世界が滅亡へと向かう中、たったひとつでいいからぼくは真実を手にしたかった。


 それが些細な真実だとしても。




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