第57話 ドリーワン・レベル2 第25話

 その病室には、ドリーがいて榊先生がいて棗がいて、そして妹が眠っていた。


 妹はとてもきれいな顔をしていた。

 長い睫毛が涙で濡れていた。


 こわい夢でも見ているのかもしれない。


 妹が誘拐される夢を妹も繰り返し見ていた。

 その夢はぼくにとっては妹を失う恐ろしいものであったけれど、妹にとってはもっとも幸福な夢だった。妹は大好きな棗に繰り返し誘拐されていたのだから。


 妹がラベンダーや手錠を持ち帰る度にぼくは嫉妬した。


 夢なんて見なければいいと思ったこともあった。


 しかしそうすればぼくは消えてしまうかもしれない。


 ぼくはここにいながら暗闇に閉じ込められていた。

 苦しかった。


 妹が目を覚ましたら、ぼくはそのとき涙の理由を知るだろう。

 妹が夢から持ち帰った何かで。


 誘拐事件の「遺留品」で。


 体中から伸びた七色のチューブから、七色の液体が妹の体へ流れこんでいく。

 ぴっ、ぴっ、という心電図の機械の音が妹が生きていることを教えてくれる。

 妹が呼吸をするたびに、口と話につけられた機械がふしゅうふしゅうと音をたてる。


 事故だった。


 妹はぼくに言われた通り、学校帰りにアピタにビデオカメラとテレビをつなぐコードを買いに行き、病院に向かう途中、車に轢き逃げされたのだと榊先生は言った。


 車のナンバー、覚えてるよ、ドリーは言った。ドリーもその場にいたらしい。


 警察が、今妹を轢き逃げした車を探してくれているのだとドリーは言った。


「軽い捻挫ですんだわ。骨にも異常ないって。わたしは内科医だから麻衣ちゃんを診たわけじゃないけれどね」


 大きな怪我はなかったけれど、うちどころが悪かったらしく、


「だけどもう目を覚まさないかもしれない」


 と榊先生は言った。


 妹は食べることも飲むことも息をすることさえできない。


「植物状態、ですか…?」


 生命維持装置がなかったら妹はすぐに死んでしまう。


「脳死よ」


 先生は淡々とそう告げた。


「また守れなかったね」


 ドリーが言った。


「麻衣ちゃんを守るって約束したのに、また裏切ったんだね」


 心から楽しんでいる、そういう顔をしていた。


 すべてうまくいっていたはずだった。


 妹は眠る度に夢を見て、失うことはほとんどなかった。


 夢から持ち帰るものも、妹を幸福にしてくれるものばかりだった。


 妹はドリーワンをぼくよりもうまく使えていた。


 それなのに。


 ぼくがドリーワンに目を向けている間に、世界は妹をドリーワン以外の方法でぼくから奪ってしまった。


 ぼくは眠り続ける妹の手を握った。


 反応はない。


「お兄ちゃん、かわいそう」


 ドリーはぼくの背中を抱きしめた。


「麻衣ちゃんを取り戻したら、わたしより麻衣ちゃんが大切になっちゃったんだね」


 薄目を開けて眠る妹のまぶたにどこからか飛んできた蝿がとまった。蝿はせわしなく瞼の上を動き、妹はそれすら気にする様子はない。


「でもすぐにまたわたしが一番大切になるよ」


 そうかもしれない。


 二ヶ月前、ドリーがいてくれたから、ぼくはすべてを失っても平気だった。

 妹を失っても、涙も出ない。


 先生は一枚の黄色いカードをぼくに差し出した。


 妹はどこで手に入れたのか、臓器提供意思カードを財布に入れていた。すべての部位に提供可能の丸をつけていた。


 そこには妹のかわいい字で、


「大腸はお兄ちゃんに移植してあげてください」


 と書かれていた。


 先生は、延命を希望するかとぼくに聞いた。


 ドリーは椅子に座って点滴が落ちるのを見ていた。


 棗は白い壁にもたれたまま溜め息をついた。


 ぼくは、妹の延命を希望した。





 妹が大事そうに抱えていたというビデオカメラとテレビをつなぐコードを榊先生から手渡された。


 ぼくは自分の病室へと戻り、ビデオカメラをテレビにつないだ。

 ビデオテープを再生する。


 そこには何も映っていなかった。

 ただ砂嵐がざあざあと音を立てていた。


 ぼくはテープを止めることもせず、ただぼんやりとその砂嵐を眺めていた。

 やがてそこに妹の姿が映った。


 幻覚でも見ているのではないかと思ったが、しかし確かにテレビには妹が映っていた。


 妹は笑っていた。


 場所は夢で見たような富良野のラベンダー畑や世界の果てのような枝幸という漁師の町でもない。


 そこに映っていたのは、ぼくの病室だった。


 そして妹だとぼくが思ったのは、妹と同じ姿をしたドリーだと気付いた。


「お兄ちゃん」


 と、ドリーは妹と同じ声でぼくを呼んだ。


「今夜12時、屋上で」


 ドリーがそう言うと、ブラウン管に砂嵐が再び巻き起こった。


 消灯時間を待って、ぼくは行動を開始した。


 腕に刺さった点滴の針を抜き、病室を抜け出して、妹の眠る病室へと向かう。


 妹が事故にあったとき、そのそばにドリーがいた。ドリーは車のナンバーを見たと証言した。妹をひき逃げした車はまだ見付かっていない。しかしそんなことはどうでもいいことだった。


 ドリーが妹を突き飛ばしたのではないか。


 その疑問がぼくの頭を駆け巡っていた。


 世界を破滅に導くというドリーの計画の中で、ぼくはたぶんもう用済みの存在だ。


 ぼくがドリーワンの契機を満了し、契約を破棄し、ぼくが失った妹やかつての友人たちが帰還してドリーワンを発症する。それがドリーの計画の第一段階であり、ぼくはその役目をすでに終えている。計画は今、妹や友人たちによって、再び大切な人たちが失われていく第二段階(レベル2)にある。


 しかし、ドリーはまだぼくに固執し、ぼくの傍らに存在しつづける。


 真夜中にぼくを屋上に呼び出そうとする。


 ぼくにまだ利用価値があるのか、それともぼくを仕分けするためなのかはわからない。


 ただ、もし本当にドリーが妹を突き飛ばし車にひかせたのなら、妹が脳死になり、ドリーワンから脱落した、そうすることで、妹が夢を見なかった朝にぼくを失うかもしれないという可能性の目を潰したとも考えられる。


 だとすればまだぼくに利用価値があるということだ。


 どちらにせよ、ぼくはドリーに仕分けられるつもりも、利用されるつもりもなかった。


 看護師たちに見付からずうまく妹の病室に侵入したぼくは、妹の学校指定のえんじのナップサックから一冊の本を取り出した。


 自殺した富田紘子がぼくに渡すように遺書に記したというソフィーの世界。

 その分厚い哲学書には、拳銃を隠す穴があり、そこには妹が夢から持ち帰った拳銃が存在する。


 拳銃は冷たく、ずしりと重い。


「まだ約束は終わってないよな」


 ぼくは妹の人工呼吸器をつけた、それでもかわいらしい寝顔に話しかけた。


「守ってやるって約束したもんな」



 ぼくはその頬にキスをして屋上へと向かった。


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