第7話
榊先生は、相変わらずコスプレ衣装のような白衣を着て、聴診器を首にさげて、ぼくを診察した。
白衣の下にセーラー服を着ていた。
「どう? 似合うでしょ」
先生が何を考えているのかわかりかねたぼくは、曖昧な笑みを浮かべた。
「似合うって言ってよ。学くんに見てもらいたくて着てきたのに」
先生は、ぼくのことを学くんと呼ぶ。
「似合い、……ます?」
「何で疑問系なのよ」
先生は頬を膨らませて、やっぱり現役の女子中学生にはかなわないかな、と言った。
「今日は妹さんは? セーラー服の」
「外で待ってます。今日は遅くなっちゃったからもう学校休むみたい」
「そう、相変わらず、仲いいんだね」
「兄妹ですから」
診察は2分もかからない。
下痢や粘血便が出ていないか、と聞かれて、出ていないと答える。
ベッドに寝るように言われ、シャツをめくってお腹を出す。
先生が指でお腹の数箇所を強く押し、痛くないかを聞かれる。
「問題ない、みたいね。血液検査も問題ないみたい。診断書は書いておくから、そのうち事務から電話があると思うよ」
妹のことを聞かれて、不機嫌になって、淡白な診断をされる、いつも通りだ。
あとは会計を済ませて、外の薬局で薬をもらうだけだ。
「ねぇ、薬のことなんだけど、今ペンタサを2錠ずつ飲んでもらってるよね。飲むのやめてみない?」
そう言って、先生は一冊の本をぼくに差し出した。
その本の表紙には「潰瘍性大腸炎はこうして治す-薬をやめて免疫を高めて難病克服体験記」、とあった。
「わたしの恩師がね、その人も医者なんだけど、学くんと同じ病気で、ずっと薬を飲んでたんだけど最近こんな本を書いたの。わたし何だか感化されちゃったみたい。自分の患者で試してみたくなっちゃって」
榊先生は、こういう人だ。
「ぼくはさ、たぶん麻衣より早く死ぬと思うんだ。大腸癌が体中に転移するとかそんな感じでさ」
帰り道、バスの中で、ぼくは妹にそんな話をした。
薬は、処方されなかった。
妹は乗り物に酔いやすいくせに、先生から手渡された本を読んでいて、そこに書かれていた爪揉みという薬に頼らない治療法というのを早速ぼくに試していた。
この病気の患者は、数年後に大腸癌になる可能性が飛躍的に上がる、と入院時にもらったパンフレットにはそう書かれていた。
「たぶん癌はその頃になっても治せないだろうな。ぼくが想像してるよりもずっと痛い思いをしなきゃいけないんだろうな。ぼくは堪え性がないから、死にたいとか殺してくれとか麻衣に言うかもしれないな」
バスにはぼくたちと運転手しかいなかった。
「でも、ぼくはそれでも1日でも長く生きたい。少しでも長く麻衣といっしょにいたいんだ」
妹は黙ってぼくの話を聞いていた。そして、
「いっしょにいるよ」
と言った。
運転手がミラー越しにぼくたちを見た。何だか笑われているような気がした。
「ひきこもるの、もうやめようと思うんだ。学校にも行く。
留年しちゃうだろうけど、仕方ないよな。
大学は行けそうにないから、卒業したら就職する。そしたら」
ぼくはその頃19で、妹は16だ。
「そしたら、結婚しよう」
妹は驚いた顔をした。
「兄妹なのに?」
当然の疑問を口にする。
「血、つながってないからできるよ、たぶん」
ぼくたちはふたりともまだこどもで、何もわからないけれど、おとなになればきっと難しいこともどうにでもなる。
「いいよ。結婚してあげる」
妹は頬を赤らめてそう言った。
ぼくたちは前の座席の陰に隠れてキスをした。
3日が過ぎた。
佐野のたてこもりはまだ続いており、ぼくもまだひきこもりを続けている。
「ひきこもるの、もうやめようと思うんだ。学校にも行く。留年しちゃうだろうけど、仕方ないよな。大学は行けそうにないから、卒業したら就職する。そしたら」
妹と約束をした。
「そしたら、結婚しよう」
明日から、という言葉を免罪符にして、ぼくは3日間を過ごした。
「そんなことだろうと思った」
妹は呆れるようにドアの向こうでそう言って、ぼくは「よくわかってるじゃないか」と開き直り、唇を指で触れた。
あの日から唇に指で触れる癖ができた。
妹の唇の感触を思い出して、その度に良心が痛む。
嘘をつこうとして、あんなことを言ったわけじゃなかった。
あのときは確かにそう思ったのだ。
あれは紛れもないぼくの決意だったのだ。
ただ、結果として嘘になってしまっただけだ。
言い訳はいくつでも思いついた。
言い訳を口にするたびに、妹のため息が聞こえた。
「うそつき」
今日も雨が一日中降り続け、時折、雷が鳴っている。
窓の下をぼんやりと眺めて過ごした。何も、することがなかった。
美空ひばりの生誕70周年を記念したイベントが、東京の創業70周年の何とかいうデパートで開かれているらしい、とワイドショーが伝え、
「VTRの途中ですが、コメットの記者会見が始まった模様です」
何かと問題のあるらしい介護サービス会社の会見が始まった。
テレビに目を向けると、親会社の社長やコメットの社長、その他3名の責任者たちが会見場に並び、
「このたびは皆様に多大なご迷惑を」
謝罪の言葉を口にして頭を下げているところだった。
右から二番目の男が合成映像のように見えた。窓の下の2人組の刑事と同じだ。
部屋の自販機で買ったプリンシェイクを飲みながら、窓の下の緩やかな坂道の歩道に、赤い長靴と黄色い傘が見えるのを待った。
長靴と傘はすぐ見えた。
時刻は午後3時半。
今日は部活がない日だったろうか。妹が帰るには少し早い。
だけど扉を開け、階段を登る足音は確かに妹のものだった。
妹は自分の部屋のドアの前に鞄を起き、ぼくの部屋のドアの前に立つ。
ぼくはドアの鍵をあけた。
ドアを開こうとすると、妹がドアにもたれかかり開かない。絹ずれの音。妹はもたれかかったまま座り込んだ。
「お兄ちゃん」
ぼくを呼ぶ。
「話があるんだ」
悲しそうな声だった。
「ごめんなさい、顔見たらたぶん話せないから」
ぼくもドアにもたれかかる。そのまま妹と同じように座り込む。
「お兄ちゃんがひきこもりをやめないなら、麻衣はもうお兄ちゃんなんか知らないからね。
学校へ行くまで、お兄ちゃんの部屋にはもう入らない。
朝起こしてもあげないし、ご飯も作ってあげない。
喋ってあげない。電話してきてもメールしてきても全部無視する」
妹は一息でそう言って、それきり喋らなかった。
ぼくは立ち上がり、ドアを開けた。
妹がもたれかかっていたはずのドアは簡単に開いた。
立ち上がった様子も、動いた様子もなかったのに、妹はすでにそこにはいなかった。
「明日こそ……」
ぼくは妹の部屋のドアを開けた。
妹はいなかった。
「明日こそ、行くよ」
階段を降りる。
「絶対。約束する」
【妹】は家のどこにもいなかった。
消えてしまった。
父も、母も、妹もいない。この家にはもう、ぼくしかいない。
それでもぼくはひきこもりを続けている。
夢を見れば、がらくたが増える。
夢を見なければ、大切なものを失う。
ひきこもっていれば大切なものはこれ以上増えることはないだろう。
そしていつしかぼくは大切なものを何一つ持たなくなる。
何一つ確証はないけれど、そのときぼくはたぶん、自分自身を失うことになる。
そのときが一日でも早く訪れてほしかった。
用を足すために1日に3回だけ部屋を出て階段を降り、冷蔵庫から賞味期限切れのプリンやアイスクリームを取り出して食べる。
階段をのぼり、部屋に戻る途中、ぼくはふと、父の部屋を覗いてみたいという欲求にかられてしまった。
生前の父は収集癖があり、テレホンカードや切手、雑誌など、ありとあらゆるものを収集していた。収集はするけれど、その扱いは雑で、創刊号のマガジンやサンデーが鍋敷きとして使われているのを見たときは、子供心に目を疑った。
父の部屋には窓がなく、東西南北の壁のうちの三つは天井までの大きな本棚で囲まれており、北の壁にはホームシアターセットが備え付けられていた。部屋は一回り小さく見えた。
再婚後、父の収集癖の対象は妹に移った。
父は、再婚相手の連れ子だった妹にビデオカメラを向け続け、編集し続けた。
編集を終えた6000本のビデオテープが本棚には並べられていた。
ぼくが手に撮った「麻衣13歳」と書かれたラベルのテープだけで数百本ある。10年で6000本だ。1日あたり2本はあるのだろう。
妹の写真が消え、妹を失っても、ビデオテープはそこにあった。
たぶん、これらのビデオテープは父の所有物であり、ぼくのものではない。だからなくならなかったのだろう。
妹にはたぶんもう会えないし、妹の写真もすべて失ってしまった。妹はもう、この6000本のビデオテープの中にしかいない。
1本あたり6時間、それが6000本、36000時間。
全部見終わる頃には、ぼくはぼくを失っているだろうか。
ぼくはビデオデッキに、13歳の妹のテープを挿入した。
砂嵐の画面をぼくは6時間見続けた。
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