第48話 ドリーワン・レベル2 第17話
「妹さん? に、さっき会ったよ」
と、富田紘子は、「口裂け女、人面犬を飼う」を机に置いて、ぼくの隣に座った。
ぼくは戸惑い、そしてどっちの妹だろう、と考えた。
「言ったでしょ。隣町に住んでるって」
同じ図書館を利用しているとは思わなかった。
「妹さん、かわいい子だね。前にテレビで見たことがあったから、すぐにわかった」
母の葬儀のときのニュースを言っているのだろう。
「テレビで見るより、かわいいかな。テレビはぽっちゃりして見えるって、あれ本当みたいだね」
合成映像みたいな縁どりはなかったけど、と紘子は付け加えた。
「その本…」
ぼくは人面犬の首輪につけられたチェーンが口裂け女の脚にからみついた、おどろおどろしい表紙のその文庫本を指差した。
「妹に薦められたの?」
と、ぼくは問う。
「ううん、この本を探してて、麻衣ちゃん? に会って、あるところを案内してもらったの。ロリータの子を見るのなんてはじめてだから、ちょっとびっくりしちゃったけど」
ドリーだ。
「同じ顔のセーラー服の子がロリータちゃんを呼びにきたから、もっとびっくりしちゃった」
妹だ。
「双子、だったんだね。お兄ちゃん、ちっとも宿題する気がないのってセーラー服の子が怒ってたよ。もう帰るって。わたし、加藤くんのこと、まかされちゃった。カキ氷食べて帰るって。あと、プールに行くって。それから、加藤くんは晩御飯抜きだって」
ぼくはため息をついた。
「そういうの、好きなんだ?」
「そうよ」
と、富田紘子は言った。
「こどものころ、映画を観たの。同じクラスの子たちはみんなハリーポッターを見に行ってたけど、わたしはハリーをやってる映画館のすぐとなりの小さな映画館で、この映画を観たの。それからずっと好きよ」
「なんか意外だな」
口裂け女のシリーズは、学校の図書室にはなかった。
それもそのはずで、三国志や手塚治虫の漫画はあっても、角川スニーカー文庫を置いている図書室なんてそうありはしない。文学からは程遠く、巨匠たちの漫画のように資料としての価値もない。神戸のおじさんが書いているのは、そういう本だ。
「この本の作者、花房ルリヲ、加藤くんのおじさん、なんだって?」
ぼくはうなづいた。
どうせ妹たちが口をすべらせたのだろう。
「ぼくは、あんまり好きじゃないんだけどね」
「おじさんのこと?」
「ううん、その本のこと」
「じゃぁ、この本も読んでないんだ?」
そう言って、紘子は、文庫本を一冊、鞄から取り出した。
「口裂け女、人面犬を飼うⅧ」
そこにはそう記されていて、その下にサブタイトルが書かれていた。
「ドリーワン・ザ・ワールド」
ぼくは、目を疑った。
叔父が知るはずもないドリーワンが、なぜサブタイトルに引用されているのだろう。
「ドリーワンなんて言葉は辞書には載ってなかったし、この本を読んでも、ドリーワンが何であるかわからなかった。だけど加藤くんはドリーワンを知ってるのよね?」
そして、富田紘子は、もう一度、ぼくに尋ねた。
「ドリーワンって何なの?」
ドリーワンは、がらくたばかり増やし、大切なものを次々と失わせていく。
大切な人たちからどんどんいなくなって、いなくても構わない人やいなくなってほしい人ばかりになる。
学校も仕事も、勉学や仕事より人間関係のほうが難しいから、契約者にとって世界は悪い方悪い方へ進み続けていってしまう。
ひきこもりだったぼくは人間関係が希薄で、その被害をあまり感じなかったけれど、妹は違う。
友達がたくさんいる。
昨日、友達の恋子ちゃんがいなくなった。
図書館の帰りにドリーとカキ氷を食べて、プールへ遊びに行った後で、妹は連絡網で恋子ちゃんの失踪を知って泣いた。
妹の一番の親友だった。
「だいじょうぶ、ただの家出だよ。すぐに戻ってくるよ」
泣きじゃくる妹を抱いて、ぼくは言った。
「戻ってくるわけないじゃない。麻衣ちゃんが消したのに」
妹はわんわん泣いて、ぼくはドリーをにらみつけた。
翌朝、ぼくたちは残暑の寝苦しさからラジオ体操の時間より早く目を覚ました。
「涼しいうちに宿題しようか」
とぼくは言った。
妹は泣きはらした目で、「うん」と頷いた。
「お昼ご飯を食べたら、プールに行こう? 昨日ね、千鳥ちゃんと新しい水着買ったんだ。麻衣の水着姿、お兄ちゃんに見せてあげる」
ドリーはまだ寝ていた。
ぼくたちはリビングにクーラーをかけて、名探偵コナンの再放送が始まるまで勉強をすることにした。
妹は進研ゼミの数学の教材を広げ、ぼくは苦手な英語のテキストを開いた。
英文は、高校に入った途端、二倍三倍の量になって、ぼくを苦しめる。
見る単語見る単語、すべてが見知らぬ異国の言葉で、3行分の英文の単語を辞書をひいて意味を調べるだけで小一時間が過ぎてしまった。
こんなテキストが全部で32ページある。
ぼくは途方にくれて、かわいい妹を眺めることにした。妹もあまりはかどってはいない様子でぼくは少しだけ安心した。
ぼくの視線に気づいたのか、
「お兄ちゃん、変なの」
進研ゼミの教材から顔を上げて、妹は言った。
「因数分解が解けないの」
どうせ難しいレベルの問題を解いているのだろう、と思いながら、ぼくは教材を覗き込んだ。
しかし、妹を悩ませるのは公式をあてはめるだけの基礎問題だった。
「二学期の予習?」
教えられていないものなら、解けなくてもしかたない。
「ううん、一学期の復習。夏休みが終わったらすぐに試験があるから」
長い睫に涙をためて、
「でも、解けないの。こんな問題、簡単なはずなのに」
教材には、設問のすぐ横に、公式が書かれている。
ぼくは、その公式を蛍光ペンでなぞった。
「この公式にあてはめればいいんだよ」
シャープペンですらすらと、ぼくは設問を解いてみせた。
「こうやるのさ」
中学三年の一学期の数学くらいなら、ぼくにでも解ける。
「それは、どうやったらいいの?」
妹は、魔法でも見たような顔で、そう言った。
今朝、妹は、学力を失った。
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