第49話 ドリーワン・レベル2 第18話

 昨日から手足が一日中痺れるようになった。

 指先までしびれて、箸をもつにもペンを持つにもどうにも不便で、脳ではないだろうけれど頭にも痺れがある。


 食欲はほとんどなく、魚の煮付けを少し食べただけで、おなかが膨れて気持ちが悪くなった。


 ドリーワンに悩む妹に余計な心配をかけたくなくて言い出せず、結局ドリーに頼んで病院にいっしょについてきてもらった。


 榊先生の病室を訪ねると、


「職場にまでこないでって言ったでしょう」


 先生の困った、そして半ば諦めたかのような声が待合室に聞こえ、中を覗くと頭の足りなさそうな長身の男が、先生に言い寄っていた。


「でも、李子は仕事が終わったって会ってくれないじゃないか。電話だって出てくれない。メールだってよこさない」


 どうやら、先生の男、らしい。

 先生は今年29だと聞いていたけれど、男は2,3若く、というより幼く見えた。社会に出ている者と、そうでない者の違い、のようにも見えた。先生もどちらかといえば、医師としては、そうでもない者の顔をしていたけれど、ヨレヨレの染みのついた小汚いシャツを一枚とジーンズといういでたちのこの男は、どちらかといえば学生のような、学生ですらないような、そういう顔をしていた。


「だから何度も言ってるじゃない。わたしと飴くんはもう終わったの。飴くん、全然働こうとしないじゃない。わたしの稼ぎばっかりあてにして、わたしは飴くんのお母さんじゃないの」


 男は、飴、という奇妙な名前らしい。苗字、だろうか。


「だって、しょうがないだろ。ぼくは病気なんだから。まともに働けるわけないじゃないか」


 先生は呆れたようにため息をついた。

 聞き飽きた、とそう言っているように見えた。


「飴くん。これも何度も説明したけど、あなたは確かに精神に疾患を持っていて、社会的には弱者にあたるわ。だけどあなたがかかっている病気は以前は確かに重度のものだったけれど、今は軽度のものだし、日本人に5人にひとりは同じ症状を抱えているのよ」


 飴と呼ばれた男も、手足が痺れているのか、それとも不自由なのか、ぎこちない身振り手振りで先生の言葉を否定した。


「あなたが働かないのは、働けないって自分で決め付けてるからよ。重度の症状が出てた頃にうまくできなかったからって、あれから五年もたった今できないわけがないの。あなたは病気を理由にして働かないだけなの。だから決めたの。あなたとはもういっしょにはいられない」


「だからどうしてそういう大事なことをひとりで決めちゃうんだよ」


「何度も話したでしょう? だけどあなたはいつも話題をそらしたり、怒って部屋を出ていってしまったりしてたじゃない」


 飴、の呼吸が荒くなる。


「男か、男がいるんだろう」


 頭を抱えて、わーわーと騒ぎだし、


「もう寝たのか? やったのか?」


 病室のカーテンを引きちぎりながら、最低の言葉を口にした。


「そういうことじゃないの」


 椅子を倒し、ベッドを蹴って、そして暴れるのをやめると、


「じゃぁ、どういうことなんだよ」


 突然倒れて、過呼吸に陥った。


 看護士があわてて飴の口と鼻にビニール袋を押し当てようとしたけれど、先生はそれを制した。


「もうそんな演技には騙されないわ。帰って」


 本当に演技だったのか、飴の過呼吸はぴたりと止まり、何事もなかったように立ち上がると、文字に起こすのもためらわれるような汚い言葉を先生に投げかけて、


「また来るからな。何度でも来る。今度は警察を呼んでおいたほうがいいよ。ぼくもう何するかわかんないからな」


 頭の悪い捨て台詞を残して、病室を出ていった。

 よくあることなのだろうか。

 飴が去っていった後、先生や看護士は何事もなかったかのように仕事に戻った。


「加藤学さん」


 ぼくの名前が呼ばれた。




「お取り込み中だったみたいですね」


 ぼくは思わず、挨拶の代わりにそんな言葉をつむいでしまった。


「まぁね」


 と、先生は不機嫌そうに言って、それでようやくぼくはしまったと思った。


「学くん、友達少ないでしょ」


「どうしてですか?」


「デリカシーがないもの」


 言われてしまった。


「今日は? 定期検診の日じゃないでしょう?」


 榊先生はそう言うと、机の上にぼくのカルテを広げた。

 そこに書かれているドイツ語は、何が書かれているのか、先生の字が上手なのか下手なのかさえぼくにはわからない。


「2,3日前から手足が痺れるんです」


 ぼくは症状を訴えた。


「今は左手が痺れています。正座して足が痺れたときみたいじゃなくて、鈍く痺れているっていうか、触ったら痛いってほどじゃなくて、違和感があるんです。指先まで痺れてて、感覚はあるようで半分くらいしかないような」


「どれくらい続くの?」


「両手足が痺れるのは1時間とか2時間くらいです。今の左手は今朝からずっと痺れたままです」


「以前にもこういう症状があった?」


 ぼくは首を振った。


 そして、先生は言った。


「学くん、なくなってる記憶、あるんじゃない?」


 どきり、とした。


 妹との思い出をぼくが失ってしまっているということを、なぜ先生が知っているのだろう。


「学くん、前に、どうして学校に行けなくなったのかわからないって言ってたわよね」


 ぼくは頷く。

 確かにぼくはなぜ学校に行けなくなってしまったのか、なぜひきこもってしまったのか、ずっとわからなかった。


 ドリーはそんなぼくに居場所をなくしたからだ、と教えてくれた。

 学校に通うようになって、ぼくにははじめからあの学校に居場所なんてなかったと気づいた。


 そして、なぜ、はまた、なぜ、になった。


「わたし、あなたが学校に復学したと聞いたとき、すごく驚いたわ。だってあんなことがあったのに」


 先生は、ぼくが不登校になった理由を知っている?


「手足や脳が痺れるのは、あなたに精神的な疾患があるからよ。さっきの彼、と同じ病気。あなたのほうが少し重いけれどね。あなた今、同級生や先生が腐った肉の塊に見えてるでしょう?肉のまわりには虫も飛んでるわね」


 ぼくはただ頷くしかない。


「今あなたに起きてるそれが、1年前にあなたが不登校になった原因。あなたは嫌いな人間をどんどん頭の中で殺していってしまったの。それで同級生が次々に腐った肉の塊になっていったの。あなたはもうその頃には潰瘍性大腸炎をわずらっていて、そのときもわたしにこうして相談に来たわ。手足が痺れる。今は左手が痺れていますって」


 信じられなかった。


「あなた、同級生の最後のひとりの首を締めたのよ。新聞に小さく載るくらいには事件になった」


 それが、ぼくが学校に行けなくなった理由?


「本当に覚えてないの?」


 そして先生はぼくが1年前首を締めたという生徒の名前を口にした。


「富田紘子さんのこと」





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